⑧
「骨折とかはしていないんだよな。膝も大丈夫だよな」
「平気だよ。擦り傷と打撲だけ。歩く分には問題ないはず」
電話越しにも父さんの溜息が漏れて聞こえた。二階の部屋から伺える外の風景に、まだ夕日はしぶとく張り付いていて西の果ては明るかった。
「宿の人が謝りたいって、電話を―」
「それはいいさ、宿で起きた事じゃないからな」
「ごめん」胸につっかえていた物が一つ落ちていく。
「何がだ?」
「怪我だけはするなって言ってたから」
「気をつけろとは言ったけどな。でも元気の有り余る高校生に、それも難しい注文だよな」
「うん」
父さんの笑い声に、幾分か気も軽くなった。部屋に虫の音と一緒にそよ風が部屋に吹き込んできている。巻かれた包帯の下の擦り傷はまだ熱を持っていて、風を浴びると少しは楽になった。
「あっ、そうだ、父さん。朝はごめん」
「ほんとだよ。父さん、驚いちゃったよ。陽太に冷たくされたと思って、父さん一日中寂しかったよ」
「ごめん」
「いいさ。それよりもどうだ、初めての一人旅は」
「本当にいろんなことがあった。江古の人も親切だから、すごく楽しんでる」
「そうか、良かったな。―ん、ああ。陽太だよ。陽太、母さんと代わるぞ」
「陽太、どう元気にしてる?」母さんの声は溌剌としていた。
「うん、まあ元気かな」余計なことは言わないでおこう。
「お祖父さんのこと分かった?」
「ああ、うん」躊躇ってから口を開いた。「武勇伝が沢山ある人だった。けっこう荒れてた人だった」
「本当?あたしの知っている父さんは、ものすごく静かな人だったけど、別の人じゃないの?」言って母さんは笑う。
「そうかも」笑って返した。思い出の中のお祖父さんからは、想像もつかない話を聞いている。「お祖父さんはさあ―」
「まだ話をしちゃだめよ。旅先での話は帰って来てからするものだし、聞くものなの。ちゃんと陽太が帰って来て、元気な姿を見せるまでは聞かないからね」
「わかったよ」
「じゃあ、最後まで旅を楽しんでおいで」
「ありがと」
画面をタップして通話を終わらせる。画面を見ても―幸運にもスマートフォンには傷一つなく―旭さんからの連絡はなかった。
こっちから連絡をするとは言ったけど、指が重い。
なんて伝えればいいのか。可能な限りシンプルに伝えるべきだけど、それでも旭さんたちに気を遣わせることになる。これから楽しもうとしている人達に、こんなことを話したくはない。けど黙っていれば向こうからも、きっと連絡がくる。
スマートフォンを持ったまま、ぼうっと外を見る。島の南側が明るいのは夕日のせいではないだろう。アプリを開く。思考を止めて素早く指を動かした。
―ごめん。納涼祭には行けなくなった。怪我をして今夜は安静にするようにって言われた。
数分もしないうちにスマートフォンが鳴った。
―何があったの?怪我は大丈夫?
―江古山に登った返り道に転んで怪我したんだ。擦り傷と打撲だけど、今晩は外に出たら駄目だって
―膝は大丈夫なの?心配だよ
―膝は平気。歩く分には問題も無い
―本当にダメなの?どうにかして一緒にいこ?
―一緒にいて何か起きたら、みんなに迷惑をかけるから。ごめん
スマートフォンの画面をぼうっと眺めている。返信があったのは数分経ってからだった。
―また、今度一緒にいこう
旭さんのメッセージと一緒にキャラクターのスタンプが返ってきた。キャラクターは泣いていた。スマートフォンをボストンバッグに投げて目を閉じる。
「陽太くーん」
網戸越しに階下から由香さんの声が聞こえてきて、立ち上がった。一階には準備万端の由香さんと夏樹さんが立っていた。
「ご家族の方は何て言ってたの?」
「父が電話しなくてもいいって言ってました」
二人は互いに目配せしてから溜息をつく。「分かったわ」
「でも、本当に独りで留守番していて大丈夫か?」
「大丈夫です。俺、高校生ですよ。それぐらいの分別はつきます。静かにしてます」
「勝手に独りで出かけたりしないわよね。納涼祭にもいかないわよね?約束できるの?」
「それは―」
「ほらー、やっぱり。ねえ、夏樹ちゃん、あたし、やっぱり店にいた方がいいのよ」
「連れていけばいいんじゃないか?」夏樹さんは腕を組んで、さも当たり前のことのように言う。
「あのねえ」
「屋台で静かにしてもらっていればいいさ」
「我慢できるとおもうわけ?」
「僕が一緒にいようか?」
お店の入り口に高梨さんが、赤い自転車を携えて立っていた。ポロシャツにジーンズとラフな格好をしている。「話を聞いて、飛んで来たんだ」
「高梨君にそんな面倒をかけるわけにはいかないわ」
「そもそもの原因は僕が下野君に、江古山公園に行くよう促したからだよ。僕にも責任はある」高梨さんがこっちを見た。「これ、君の借りていた自転車だろ?駐車場で寂しそうにしていたよ」
「ありがとうございます」
「でも、高梨君だってすることがあるじゃない」
「それはうちの弟弟子たちがやるからさ。毎年、僕がやるよりも新鮮だよ」
「そこまで言ってくれるなら、いいじゃないか。高梨君の言葉に甘えよう」
夏樹さんは言って、納得がいかないように鼻を鳴らしていた由香さんの背中を押す。由香さんは唇を尖らせていたけど、結局、運転席に乗り込み、軽自動車は排気音と共にお店を去って行った。
「ごめんね」
沢辺夫妻の乗ったシルバーの軽自動車を並んで見送っていると、高梨さんが呟いた。
「俺の自業自得です」
もう少し夜風に当たっていたかったけど、お腹が鳴った。昼から何も食べていないことを思い出し、急に身も心もへとへとになる。お店のカウンターテーブルには夏樹さんの残していってくれた夕飯が並んでいて、覆っていた蓋を取るとご飯に味噌汁と、大皿に乗った刺身の盛り合わせが艶めいていた。
「クズリ様に追いかけられたんだって?」
隣に座る高梨さんはどこから持ってきたのか、缶ビールのプルタブを引く。「悪いことをしたんだねえ」
「本当にいるとは思いませんでした」
「クズリ様なんていないよ。子供を躾けるためのおとぎ話さ」
「でも、たしかに見ました」
「幻さ。そう思ったのは、君が多少なりとも罪悪感を覚えていたからだよ」
江古山での出来事を思い返す。あれは散策道から外れて雑木林の奥へと踏み出したときに現れた。どうして足を踏み出したのか。風が強く吹いて、お堂のような建物が見えて―
「お堂みたいなのがありました。いや、見えただけなんですけど」
「慰霊のためのものだよ」高梨さんは缶ビールをあおる。「クズリ様とは、なんの関係も無い」
腑に落ちないまま、お刺身を口に運ぶ。江古島の醤油は甘く、魚の味が引きたてられる。軽く浸してからご飯に乗っけ、醤油と魚の風味が乗り移ったお米を口に入れると、なんとも言い難い美味しさがふわりと広がった。
「俺が江古島に来た理由は話しましたよね」
「昨日、聞いたばかりじゃないか」
「昨日の話の続きをしてもいいですか」
「いいよ」高梨さんはまるで興味を示さない。「一個もらってもいい?」と言って、刺身の一切れをつまんで口に入れる。
「美味しいねえ、やっぱり肉より魚だね」
「高梨さん、聞いてますか?」
「聞いてるよ。下野君はおじいさんの秘密が江古にあると思って来たんだよね」
高梨さんが缶ビールをテーブルに置くと、軽い音が店内に響いた。
「もう、大丈夫かな」
「高梨さん?」
高梨さんは席を立ち上がりお店の外に出た。辺りを気にするように見回した後に手で招く。
「ちょっと気分が悪くなると思うけど、いいよね」
町は薄紫色の宵に包まれていた。誰に頼まれるでもなく寂しくも健気に道路灯が、辺りを照らしている。皆が納涼祭に行っているのだろう。それが羨ましくもあった。
「むこうには話を通しているからさ。さあ行こう」
「何を話しているのか、さっぱり―」
「君は真実に辿り着いたんだ」高梨さんに手を握られる。
体が浮いた。何が起きているのか理解する間もなく、目の前に笑顔で立つ高梨さんの背後の景色が回り始める。違う、ぼくの視線が、体が回り始めている。回転の速度は急激に上がり、見えていた景色が残像のように線を引く。やがて目で追うことも難しくなり、吐き気をおさえるために目を閉じた。
「あとで、一緒に怒られよう」
高梨さんの言葉を受けてかどうかは分からない。けれど、ぼくの体は重さを失い、どこかへと吹き飛ばされるのを全身で感じた。
様々な色が視界に塗りたくられている。
ぼんやりとした視界に、目を開けていることに気付いた。眩しく感じるのは室内の照明のせいかと、呑気にも考えている。すると別の色が視界にあることに気付いた。段々と焦点が合ってくる。それは人の顔をしていた。
「おや」
知っている顔だった。昨日の昼過ぎに高梨さんと一緒に訪れた、喫茶店の老店主がぼくを覗きこんでいた。「ああ、動かないで」
体を起こそうとすると額からタオルが滑り落ちてきた。手に取るとほのかに暖かく濡れている。辺りを見回せば、ここはたしかに喫茶店で、変わらずにコーヒーの香りが漂っていた。店内にお客さんはいないようだった。
老店主のそばには包帯が丁寧に丸められ、置いてあった。思わず腕と頭を確認すると、なくなっていて、さっきまでぼくに巻かれていたものだと分かった。老店主は用意してあった別のタオルでぼくの額を拭う。温かさが身に染みる。頬を手の甲で拭えば汗が流れていることに気付いた。
「これは不要でしょうから」眼鏡をかけた男性は包帯を袋にしまった。
「ここは」
「あなたが昨日、ご来店くださった喫茶店ですよ」
壁にかけられた丸時計を見て驚いた。『ラ・メイル』でお刺身を頂いていた時間から、五分も経っていない。バスから中心街をまでを揺られていたのは間違いなく、五分以上はかかっていた。
あの吹き飛ばされる感覚と、数分かからずに『ラ・メイル』から商店街に来ているという事実に、困惑させられる。けれど、まだはっきりしない思考は一つの考えに直結した。
高梨さんも超能力を使える。
「お水は飲めますか?」
老店主にコップを渡される。少しずつ口に含んで、飲みこんだ。歯の裏にざらざらした感触が残った。
「店主さんは―」この事を知っているのか。
「それよりも、あなたを待っている人がいるはずですよ」
老店主の言葉にお店の出入り口を見た。開け放たれた扉から、笛の音と太鼓を叩く音に混じって笑い声と歓声が聞こえてきていた。
立ち上がろうとして、ふらつき老店主に支えられる。「もう少し、休んでいかれた方がよろしいかと」
「ありがとうございます。でも、行きたいんです」
微笑む老店主に手を借りて、両足で踏ん張った。力は入らないけれど、もう十分には歩ける。前のように靭帯を痛めるような怪我をしたわけでもない。
老店主に見送られて喫茶店を飛び出した。
商店街のメイン通りには数え切れないほどの紅白提灯が吊るされていた。眩しいくらいに輝いた裸電球は町を照らし、人々の笑顔はそれにも負けない。屋台は肩を寄せ合うようにひしめき合って並び、目に鮮やかな浴衣の色彩が行列を作る。スピーカーからは祭り囃子が絶えず鳴り続け、浴衣で彩られた人々が思い思いに練り歩く。手には団扇だったり袋に入った金魚だったりを持ち、子供たちは綿菓子を舐めながら歩くものだから、手を引く母親に叱られている。
江古中がこの夜を待ちわびていたかのようだった。
走る。待っていないかもしれない。それでも走る。きっと待っている人がいる。急がないと一緒にいられる時間が減ってしまう。早く見つけないと、ぼくはこの流れの中で孤独のまま終えてしまう。ひたすらに彷徨う。当てなどない。助けてくれるものも何もない。幸せの満ちた通りの中、ぼくは孤独だ。
びゅう、と突風が吹いた。
それはまさに、ぼくの背中を押すだけもののようで、周囲に気付いた人はいなかった。風に乗って足は商店街を跳ねる。
正面に広場が見えてきて、天高くそびえるやぐらが中央に構え、やぐらには既に太鼓が置かれていた。周囲には「江古町内会」の文字が大きい天幕が並んで立つ。まだ広場は閑散としているけれど、これからの盛り上がりに備えているようでもあった。
「あっ、下野君!」
やぐらのそばにいた石橋君がいち早くぼくの姿を見つけ手を振ると、気付いた結城君が―イカ焼きを二本持ったまま―駆けてきた。二人の後ろには浴衣姿の旭さんが、少し遅れて着いてきていた。
「おせえぞ、下野」
満面の笑みで結城君がイカ焼きを押し付けてきた。受け取って齧ると、シンプルに醤油だけで味付けをされた厚みのある肉が口の中で弾けた。
「僕たち住職から連絡を受けて、待ってたんだよ」
「高梨さんに?」イカの肉片が喉を焼いて通り、咽そうになった。
「おう。もう少ししたら、下野がそっちに行くから、広場で待っていてくれってな」
「そうなんだ」あの人はどこまで考えていたのだろうか。「そうだ、二人は高梨さんが―」
次の言葉は出てこなかった。アホ面とはいまのぼくの事を言うのだろう。イカ焼きを飲みこんでいてよかったと思う。じゃなかったら噛み砕いた肉片が地面にこぼれ落ちていた。
「陽太君」
空色と白の浴衣を身に纏った旭さんが微笑んでいた。頬は薄く色がついていて、唇も桃色が艶めいていた。ふんわりと柔らかさを感じる髪で、控えめにも花飾りが存在をアピールしていた。今朝、一緒にいた時よりもずっと大人っぽくて、見惚れてしまって動けない。ぼくの中から溢れ出てきそうな気持ちをどうにか飲みこんだ。
「よかった」旭さんの桃色の唇は細く、わずかに曲線を描く。
「ほんとだぜ、まったく心配させやがって」結城君はぼくの肩を叩く。さすがに痛みが走り、抗議の声を上げると、結城君は驚いた。「すまん、いや本当に悪かった」
「大丈夫なの?」石橋君はたこ焼きの刺さった爪楊枝を口に運ぶ。「旭から怪我したって聞いたから」
「うん、まあ。擦り傷と打撲だけ」
「何をしたんだよ。江古にそんな危険な場所はねえぞ」
「江古山に登って、で―」「で?」「クズリ様に追いかけられた」
三人の時間が止まる。当然だろうと思う。高梨さんにも一笑されたのに、旭さんたちが信じるわけがない。
「わははっ」と結城君と石橋君が声を揃えて笑う。「なんだよ、下野、悪いことでもしたのかよ!」
真っ先に思いついたのはあの廃屋に勝手に入り込んだことだった。何かを盗ったわけではないにしても、悪いことだという自覚は―今は―ある。それから、江古山の散策道を勝手に外れたのは、違うかもしれない。祖父のノートを勝手に持ち出したのはどうだろうか。いつかは祖母に怒られるだろうなと思う。きっとクズリ様よりも怖いはずだ。
「数え始めたらキリがない。みんなも同じだろ」
「そりゃ、そうだな」「まあ今日だってね、勉強サボって来てるわけだし」結城君と石橋君が顔を合わせた。「クズリ様、お許し下さい~」
「二人とも信じてないだろ」
「もちろん」「おうよ!」
「もう、二人ともバチが当たるよ」
旭さんの顔をまじまじと見れば、丸くて大きい目がいつもよりも大きく見えた。目尻の辺りもキラキラと光っている。化粧をしているのは分かるけれど、どう言えばいいのか分からない自分が憎らしくて、家に帰った時に姉さんに教えてもらおうと心に決めた。
「陽太君、まだ来たばっかりだよね。わたしたちも今きたところなの。一緒にいこ」
「よし、行こうぜ!」「美味しいところ沢山めぐろう!」
旭さんの細い指を握ろうとして、両肩を勢いよく二人に抱かれた。そのまま広場を出る。ちらりと後ろを見れば、旭さんは少しだけ残念そうに笑った。
「俺、お金ないんだけど!」
「心配すんな、今日は俺のおごりだ!明日、取り立てに行ってやるからよ」
途端に、お腹が鳴って―夕飯も食べたのに―現金な自分の体に呆れる。素早く聞きつけた石橋君から割り箸を貰って、たこ焼きを一つ口に放り込んだ。
「下野はお祭りに参加するの、初めてか?」
「馬鹿にするなよ。俺のとこだって、これぐらいのお祭りはちゃんとやるよ」
「おお、そりゃ悪かった」
「悪いと思ってないだろ」
三人が笑う。その声も賑わいの流れに飲まれそうだ。これほどの人が江古島のどこにいたのだろうか。けれど、誰もが幸せそうな表情を浮かべていて、ぼくも自然と笑顔になる。旭さんたちと一緒にいるだけで嬉しかった。
「お祭りと言えば?」
軽やかにステップを踏み、振り返った結城君が大きな声で問いかける。商店街の通りの両端を出店が占めていた。
「射的!」「金魚すくい!」
旭さんと石橋君が勢いよく手を上げた。上げた手がぶつかることはなかったけど、代わりに二人は睨み合いしばし火花をぶつけ合う。
「まあまま、両方行こうぜ」珍しく結城君がなだめた。
「良い景品が無くなっちゃうよ!」
「良い金魚が取られちゃうかもしれないだろ!」
旭さんと石橋君が取っ組み合いになることはないけど、静かな戦いがぼくたちの前で繰り広げ、結城君が呆れる。「もう、下野に決めてもらおうぜ」
二人の火花散る熱い視線がぼくに向けられる。良い景品はともかく良い金魚とはなんだろうか。金魚についてはあまり知らないので同意できなかった。それに旭さんのことを考えると他に意見も無い。「射的かな」
「やったー!」
着物姿で飛び跳ねる旭さんの横で、石橋君は恨めし気にぼくを見る。
「たこ焼きー、返せー」
どうやらさっきのたこ焼きは賄賂だったらしい。
「大丈夫だよ。いい金魚はそう簡単には取られないよ」
「そもそも、お前の家の庭はもう何十匹もいるじゃねえか」
「そうなの?」
「そうだけどさー。違うんだよなー」
「ほらほら三人とも。早くいこ」
ウキウキの旭さんはさっさと行ってしまい、ぼくたちはだらだと的屋に近づく。屋台ではおもちゃの鉄砲を抱える子供たちが目を輝かせていた。それに連なって旭さんが―いつの間にか―浴衣の袖をまくって鉄砲を受け取っていた。表情は子供達とは違う。目だけが輝いていて、それはむしろ光らせているという方が正しいのかもしれない。
「なんか有田さんの目付きがいつもと違うような」
「ああ、あれは」「本気モードだね」
よく見れば、屋台の中の店主は苦々し気だ。子供たちが景品を取ったり、取り逃して悔しさ露わにしているうちに、旭さんの順番になった。ぼくたちは傍に立つものの、周りのものは目に入ってないようだった。旭さんの目は真っ直ぐにひな壇の上の景品に向いていた。まるで鷹のような眼光だ。
旭さんは背筋を正し、両手で鉄砲を抱えるように支え、照準器を覗き込む。
「あれ、鉄砲を景品にぎりぎりまで近づけたほうがいいんじゃないの?」
「あれでいいらしいよ。その方が集中できるんだって」
自然と声が潜められて、ぼくたちは息を止めて見守る。周囲と共に見守る中、旭さんの人差し指が曲がって、空気の弾ける音が響いた。茶色の弾丸が空気を裂いて飛び、お菓子の詰め合わせにぶつかって倒れる。
「おおーっ」と歓声が沸く。けれど、旭さんには届いていないらしい。決して雰囲気が崩れることはなく、二発目を装填する。構えを作ると、またパチンと音がして―よくわからないおもちゃの―景品が倒れ、一段と歓声が沸いた。到底、一発では倒れないような大きさだ。倒れた景品に目を凝らせば、まっすぐ後ろにではなく、角度をつけて倒れている。旭さんは景品の弱い所を確実に撃ち抜いていた。
旭さんは三発目もこともなげに当てる。お金を店主に払うと追加で鉄砲を貰い、景品は横から順番に倒れていく。店主は渋い表情で耐えていたけど、上段の横一列が綺麗になぎ倒されると、とうとう掌を旭さんに向けた。
「待った。降参だ!」
拍手が沸き起こり、旭さんは満面の笑みを浮かべながら人差し指と中指でVサインを作って、ぼくらに向ける。旭さんはゆっくり中指を畳むと今度は親指を立てて人差し指をこちらに向ける。目付きはやや見上げるような感じで挑発的だった。
「ばん」
旭さんの唇が動いたように見えた。人差し指から立ち昇る硝煙を、夜の江古に艶めく唇が拭き消す。
「流石は江古の女スナイパー」
結城君のつぶやきに完全に同意する。ぼくの心はもっとずっと前から旭さんに撃ち抜かれていた。
結局、旭さんは景品を撃ち倒すことで満足したのか、持ち運ぶのに苦労しない一番高価で小さいものを選んだ。
「さあ、今度は僕の番だよ」と腕をまくる石橋君の金魚すくいの実力は確かなもので、金魚を掬ってはお皿に入れていく腕さばきは残像を残し、まるで阿修羅像のようだった。関心はしたけど興味を引くほどではなかった。
「いらっしゃーい。疲れたら、こっちで休んでいって!」
良い金魚を手に入れたことにご満悦の石橋君を先頭に、屋台を練り歩いていると、ここ数日の間に聞き慣れた声が飛んできて、思わず身を強張らせた。遠目にも元気よく呼び子をしている由香さんの姿が見える。『ラ・メイル』の出張店はかなり賑わっているけれど、それが恨めしく思えた。
「まずい」
足を止めると三人が振り返った。
「何かあったのか」
「本当は宿で休んでいるつもりだったんだ。沢辺さんも俺が宿にいると思って祭りに来てる」
「抜け出してきたのか、やばくね?」
「やばい」見つかったらどうなるのか。火を見るよりも明らかだ。
「下野君、あれだ」石橋君は妙に誇らしげな笑顔で屋台の一部分を指差す。
屋台からはみ出た所に木材が組み合わさって出来た棚があって、沢山のお面が並んでいた。ヒーローのお面や可愛らしい女の子のお面もあれば、日本では知らない人などいないだろう猫型ロボットのそれや、耳の大きい鼠のキャラクターのそれまである。
「これを被れば、バレないんじゃないかな」
まじめに勧めてくれる石橋君をよそに結城君と旭さんの二人は楽しそうに物色し始め、少しの間迷ったすえに選んだお面をぼくに見せる。二人の笑顔にはちらほらと、意地悪なものが見え隠れしていた。
「これなんてどうかな。似合うと思うよ」
旭さんの手には可愛らしいリボンを着けた白猫のキャラクターのお面があった。旭さんが選んだ物なら何でもと言いたかったけど、周りを見ても同じお面を被っているのは、ぼくよりもずっと幼い女の子だけだった。流石に恥ずかしすぎる。
「いーや、これだね」
結城君が押し付けてきたのは真っ赤な顔をした天狗の面だった。立派な黒い鼻髭と眉毛が太く濃い。口はへの字に結んであってぼくを高圧的に睨みつける。一番印象的というか目を引くのは、高くそそり立つ長く立派な鼻だった。
「これは逆に目立つよ」
「まあな、これは被るためじゃねえしな」
「何に使うの?」
「こうするんだ!」
結城君は持っていた天狗のお面を顔ではなく、自分の下半身に持っていく。そして蟹股になって背を逸らすと、腰を前後に動かしはじめた。結城君の激しい腰振りに周囲がにわかにざわつき始める。
「ほら、下野もやれよ!」
天狗面を投げて寄越してもなお、結城君は笑顔で腰を振る。周囲の人達は大爆笑しながらスマートフォンをむけていた。旭さんはといえば顔を真っ赤にして立っていて、いつの間にか石橋君は結城君と肩を組んで一緒に腰を振っていた。天狗面と共に周囲から期待の眼差しを感じる。
「くっそー!」
結城君と石橋君の間に飛び入って、天狗面を股間に当てて腰を振った。周囲に笑い声が上がって、黄色い悲鳴が混じる。息が上がるほどに踊っていると楽しくなってきた。両手で持つ天狗面も笑っているように感じられて、段々と調子に乗って三人でラインダンスまで始めた。旭さんは顔を両手で覆っていたけど、指の隙間から覗く瞳としっかりと合ったと思う。
肩を組んで回っていると集団の中に由香さんの顔があった。ヤバいと思った時には横から別のお面が被されられた。お面の両目部分に空いた穴から呆れ顔の由香さんが見える。ぼくに気付いたかどうかは分からないけど、呆れたように頭を振って出店に戻っていった。
「気付かれたかな」
「いや、大丈夫だと思うよ」石橋君は穏やかに言う。
いつの間にかラインダンスが長くなっていて、聞けば同じ江古高校生の生徒らしい。一緒になって踊っていると、江古山で負った痛みも消えている。
汗だくになって揃った足並みを最後にひときわ高く振り上げると、ラインダンスは終幕する。拍手と笑い声を受けて、即席のショー集団は蜘蛛の子を散らしたように人混みの中に紛れて消えた。
「下野、お前最高だよ!」
結城君はまだお腹を抱えて笑っている。後ろを振り返れば、旭さんは顔を真っ赤にして俯いていた。
「ばか」旭さんはぷいと視線をそむける。
「気にすんなよ、下野」
「男子って、ばか」
「男にしか分からないことがあるから」
「ばか」
「ほらほら、これで機嫌治して」
屋台で買っていたらしく、石橋君の手には真っ赤なリンゴ飴が握られていた。旭さんは無表情で受け取り小さな口で齧る。薄い色の唇は飴細工を纏って艶めいて動き、ぼくたちをちらりと見ては、少しだけ頬を緩めた。ほっとしたのと同時に、同じ物が食べたくて屋台に並んでリンゴ飴やら、チョコバナナを買ってぼくたちも口の口周りをべたべたにする。
旭さんの掲げるスマートフォンに収まるようにぼくらは肩を寄せ合って並ぶ。
「動かないでね」
ポーズを変え、変顔をして何枚も何枚も写真を撮った。