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秘匿の島  作者: loveclock
江古島編
11/28

 水が欲しい。けど自販機も見当たらなければ、手の届きそうな範囲にある水は海水だけだ。

さすがにバカだったと自転車から降りて木陰に隠れている。八月の昼前に水筒もなしに自転車を無茶苦茶に漕げば、喉もカラカラに乾く。加えて、まったく知らない場所に来てしまう始末だ。

 風が吹いても喉の渇きは癒えないので、諦めて道路に差す日陰伝いに自転車を押す。スマートフォンの地図アプリを見れば、どうやら島の北部を西に向かっているらしい。先には江古山があり、商店街に戻るには来た道を戻るか、ぐるっと西側から―お祖父さんの生家のあった町を通って―島を回るしかなかった。 朝来た道を戻ろうにも、先に進む方が所要時間の表示は短い。もう自転車を捨ててしまってヒッチハイクでもしようか。

 ひたすら西に直進していると、畑と一緒に家の垣根が見えてきた。喉の乾いたぼくの幻でも構わない。期待を自転車のペダルに込めて漕ぐ。頼めば水くらいは恵んでくれるだろうか。

 けれど、期待はたった数回漕いだだけで、無残にも砕かれた。

 朽ちかけた一軒家が、どうにか体をなしていた。垣根の植え込みは思い思い枝を伸ばして日光を浴びていた。庭のほとんどは雑草に覆われていて、長い間手入れがされていないことは一目で分かる。ヒビ割れた鉢植えが吹く風に転がっている。家の柱は真っ直ぐに立っているものの、屋根に乗っている緋色の瓦屋根は剥がれるか、玄関の前に砕けて散っていた。

 木島さんの住んでいた漁師小屋よりかは大分マシと思えるけど、到底人が住んでいるようには思えない。周囲は畑ばかりが広がっていて、切り取られたようにこの家だけが建っている。辺りの様子を伺ってから、そっと敷地内に足を踏み入れると砂利が音を立てた。

「やあ」

 突然、声が聞こえてきて、振り返ると真っ赤な原付きに跨ったまま高梨さんがいた。

「住職さん」驚かずにはいられない。さっきまで人の気配すらなかった。

「皮肉を感じるのは気のせいかな」高梨さんは笑って原付のエンジンを切った。「勝手に入ったらいけないよ」

「すいません」

「乗ってく?」

 高梨さんはどこからかヘルメットを一つ取り出したけど、手を振って断った。「それよりも水を持ってないですか。喉がカラカラで」

 高梨さんは袈裟の袖を振り、原付の荷物の入った籠を見た。「ごめんね、今は持ってないや。けど、この道路をまっすぐ行った先の江古山公園の入り口に自動販売機があるはずだよ」

 涼しい顔をしている高梨さんが信じられなかった。この暑さに加えて、高梨さんの着ている袈裟だって熱を充分に蓄えそうだ。それともあちこちに避暑地を持っているのだろうか。

「江古山公園?」

「昨日、話したよ」高梨さんはポケットから煙草を取り出して火を点けた。「クズリ様のおわす場所さ」

「危ない場所ですね」そういえば江古山に住むと言っていた。

「悪いことをする人にだけ罰を与えるんだ。下野君はまだ大丈夫じゃないかな」

「まだって」

「ほら」高梨さんはぼくの後ろの廃屋を指し示す。「入ろうとしていたでしょ」

「確かに」

 ぼくがうなずくと、高梨さんは煙を「ふーっ」と吐き出す。

「でもまっ、ただの古い言い伝えだけどね。そんなものに未だに島民は縛られているんだよ」

「俺の町には言い伝えも、何もないから羨ましく思えますけど」どことなく高梨さんの口調からは毛嫌いするものを受け取れる。古臭いと感じているのだろうか。

「そうかい?隣の芝は青く見えるものだよ?」

 この家の庭はすっかり荒れ果てている。まだ住人が居た頃は庭も手入れがされていたのだろうか。転がる鉢植えを見て、その可能性は高いと勝手に想像した。きっと色とりどりの花が咲いていたのだろう。

「あの、この家はどうして、こんな状態に?」

「詳しくは知らない」高梨さんは吸っていた煙草を取り出した携帯灰皿に押し付けた。「確か、僕が本土にいた時の話だけど、一家が夜逃げしたらしい」

「夜逃げ、ですか」

「あまり気持ちのいい話でもないよね」

「そうですね」

「暇があったら、お寺にでも来てよ。お茶と説法くらいは出すからさ」高梨さんはエンジンをかける。「一応、言っておくけど勝手に入ったらいけないからね」と言い残し道路をまっすぐに走っていった。

 高梨さんの姿が、なだらかな畑の向こう側に完全に消えたことを視認してから、再び廃屋の敷地内に足を踏み入れた。

 玄関を開けて家の中に入ると、外とはうってかわって薄暗くて埃っぽく、すえた臭いが鼻を突いた。土足のまま廊下に上がって、剥がれかけた廊下の壁伝いに進み部屋の中に入る。八畳ほどの和室はさらに暗くて、この暗さは日差しが入らないせいだけとは思えない。畳は荒れ果てて毛羽立てっていて、一部は黒ずみ、カビが生えていた。すえたような臭いの原因はこれだろう。

 座布団や、卓袱台は部屋にそのままだ。埃を被っていて長い間使われていないことが一目で分かる。卓袱台の上には、新聞紙に包まれた塊が転がっていた。手に取ってめくると、中から茶碗が出てきた。包んでいた新聞紙を広げる。

「米国、アフガンのテロ施設をミサイル攻撃」

 平成十年と表記されていた。もう二十年も前の出来事だ。一面の見出しには大統領らしき人物が難しい顔で、壇上に立つ写真が大きく掲載されていた。

 新聞を置いて部屋を出ると、廊下の奥に階段が見えた。自然と足音を立てないように、忍び足になる。ぼく以外の足音が聞こえる方が怖いかもしれない。

 階段下から二階を見上げる。突き当りに窓があって、そこから青空と雲の漂う景色が覗けた。薄暗い家の中と相まって監獄から外を臨んでいるような気分になる。

 一歩ずつ階段に足を置いていく。そう言えば、少し前にも同じことをしたなと思い出した。あの時にお祖父さんが江古島の出身であることが分かって、それからお祖母さんと―ちゃんと―会話もした。

 二階に着くと、部屋に続く扉が三つ見えた。扉が中途半端に空いていて思わず、足を動かすことを躊躇ってしまった。揺れているようにも見える。

 わずかに開いた扉から中を覗く。壁に沿って勉強机と、中央には丸机が置かれている。ベッドの上には―たぶん慌てて跳び起きたのだろう―掛け布団が乱れたまま埃を被っていた。

 子供部屋のようだ。壁にはコルクボードがかけられている。色あせた写真と、手作りのハートに切り取った型紙が一緒に貼ってあった。写真に手を伸ばす。女の子が何人か並んで映っていたけれど印刷が薄くなっていて、黒い髪と瞳の色しかはっきりしない。

 机の上には埃を被った教科書が数冊積まれていた。手に取って返して名前を見つけた時、思わず読みあげてしまっていた。

「江古島中学校3年1組、糸田みゆき」

 昨日、役所で偶然見つけた名前だった。高梨さんはさっき夜逃げしたと言っていた。

 教科書を戻して部屋を見回す。二十年近くもの間、この部屋の時は止まっている。この部屋の主はどんな思いで部屋を去ったのだろうか。

 別のノートを手に取る。表紙を捲って飛び込んできた文に思わず、ノートを投げ出しそうになった。

―開いてしまったんだね。この日記を読んだら、クズリ様に呪われるよ

 物々しい字体で書かれた一文の周りは、よくわからない言語か模様かで装飾されている。普段ならば気にも留めない些細なイタズラも、この家の中で読むとまるでホンモノのように感じられた。続きを捲る。

―これを読んでいるあなたは、わたしを外に連れて行ってくれる?

―ねえ、わたしを連れて行ってよ

―外から来たきみ

 決して怖気づいたわけじゃないけど、日記をそっと元に戻して部屋を出た。両足は震えていた。

 隣の部屋も子供部屋になっていた。こっちは男の子の部屋だったらしく、有名なサッカー選手のポスターが壁に貼って合って、空気の抜けてしぼんだサッカーボールが部屋に転がっていた。机の大きさからみて、おそらくは小学生だろう。勉強机の上の筆箱には「江古島小学校、五年一組、糸田賢人」と名前が書かれてあった。

 ベッドに腰かけて部屋に転がるボールを足の裏で手繰り寄せる。空気の抜けたボールを足の甲にのせても、跳ねさせることは難しかった。何度か試みた後でボールは、ぼくの足を離れて部屋の隅へと転がる。

 お祖父さんは止むを得ない理由から江古島を離れることになったのだろう。それは、お爺さん自身がノートに書き綴ったことからも、あの木島慶次さんの反応からも分かる。壁にぶつかったように思えたけど、少しでも前進しているはずだ。

 この家に住んでいた糸田一家もお祖父さんと同じく、島を離れた。彼らが江古島を離れた理由を知っている人はいるだろうか。それとも誰にも知られることなくひっそりと姿を消したのか。

 誰もいない家は取り壊されることも無くずっと家族を待っている。それが悲しくもあり、羨ましくもある。お祖父さんの家はもうない。本人も、もうこの世にはいない。人の記憶に残るだけだ。

 この家に住んでいた家族は、きっとどこかでまだ生活しているのだ。そしていつかまた江古島に帰ってくる。お祖父さんが最期まで叶えることのできなかった思いを、勝手に押し付けている。


 薄暗い廃屋から外に出ると、照らされた日差しに思わず目を背けた。反射的に手でひさしを作った。青空に高く昇った太陽はぼくに容赦しない。高梨さんが言うには、正面の道路の先に江古山公園がある。そして自動販売機が置いてあるはず、らしい。

 スマートフォンのバッテリーは朝、充電してきたのにもう残量は心許ない程にしかなかった。地図アプリの表示する一本道の先には確かに江古山公園があった。

 自動販売機があることを祈りつつ自転車を漕ぎだす。道は穏やかな勾配を繰り返している。この辺りも人の行き交いがない。時折、遠くに見える畑に白の軽トラが止まっているけど、目を凝らして探しても中々、持ち主が見つからない。

 一人で自転車を漕いでいることに寂しさを覚える。今朝、旭さんと一緒に『ラ・メイル』を出発した時には、今日はずっと一緒にいられるかもと期待していた。お祖父さんのことを知るために江古島に来たけれど、お祖父さんだって孫が楽しそうにしてい方が嬉しいに決まっている。

 旭さんのすべき事とは何だろうか。まったく想像がつかない。ぼくの脳裏にいるのは笑顔の旭さんだけだった。

旭さんの笑顔と共に砂浜での言葉が甦る。なんでぼくの気持ちが分かったのだろうか。というか女子はどうして、こういったことに関しては妙に勘が鋭いのだろうか。

 中学生の頃、気になる女子がいた。何となく、その子の姿を探すのが早くて、気付いた時には自分から、その子の姿を目で追いかけるようになっていた。結局、ぼくには勇気がなく中学校生活に置いて、その子とは付き合うなどといった関係になることはなかった。

 高校生に入学して間もなくの時、久しぶりに会ったのは、その子の友達だった。

「下野ってさー、ずっと美希のこと見てたよねー」

「見てた、見てた。あんたはバレてないつもりだったとおもうけど」

「好きだったんでしょ。美希のこと」

 頭の中でぼくに指を突きつける彼女たちを、頭を振って追い出した。再び、ぼくの目の前に江古島の長閑な風景が広がる。そして「江古山公園入口」と書かれた道路標識が姿を表した。どうやら200m先にあるらしく、目標が見つかれば、俄然、元気が湧いてくる。

 しばらく漕いで、道路の左手に駐車場が見え始めた。海水浴場のそれに比べると小さいけれど、最近できたものらしく綺麗だった。自動車が一台も停まっていない駐車場の奥で、赤い塗装と白いロゴの装飾が施された自動販売機を見つけた。

 自販機の真横に自転車を停める。商品のラインナップが都内のものとそんなに変わらなくて、驚きながらも硬貨を何枚も次々に入れる。値段を確認もせずにボタンを連打すると、青色のラベルのスポーツドリンクを立て続けに落ちてきた。

 待ち望んだ水分が口の中に流れ込む。喉が音を立てて欲する。体の隅々まで行き渡って体に力が戻ってくる。ものの数秒でペットボトルを空にして、もう一本を開ける。この時ばかりはお祖母さんと純一叔父さんに強く感謝した。

「はあー」

 ひと息ついて自販機の横に腰を落とした。近くには、看板と江古山へと通じるであろう山道の入り口が見える。三本目を半分まで飲んでから、近づく。

 看板は江古山の地図になっていた。丸太を模した枠組みに動物の絵柄と共に江古山公園の全体図が描かれてあった。看板には山頂まで歩いて十五分程度とある。それなりにお金がかかっているとは思うけど、誰も来ていない現状を見ると悲しくなってしまう。

 山道の入り口に立つ。道はしっかりと整備はされているようで、木材を組み合わせた丈夫そうな階段が山へと続いている。山道というよりも、ちょっとした散策道と言ったほうが近いかもしれない。スマートフォンを見ると、ちょうどお昼時だった。どうせ、この後の予定も考えていない。納涼祭まではまだ―きっと―時間はある。用心のためにもう一本ペットボトルを買って鞄に詰め込み、散策道に踏み出した。 

 風が吹いて木々が擦れあう。雑木林の中に暑さはなく運ぶ足も軽やかになる。息は上がるけれど心地よく、散策道に組まれた階段も半ば飛びあがるように登っている。

 木々の間から覗く日光も強くなってきたと思うと、開けた場所に出た。

「おおー」

 江古山の山頂からは島全体が一望できた。南側には商店街と港が見えて、フェリーも停泊していた。商店街と『ラ・メイル』のある北東部の町の直接場にも間にも開けた場所が合って、白と黒のゴマ粒みたいなのが点々としている。牛だ。ということは、あそこは石橋君の家の牧場だ。昨日、旭さんたちと遊んだ海岸には、ぽつぽつとの人影が見える。きっと江古島の人が遊んでいるのだろう。遠くに目を凝らせば、おぼろげながらも本州が見えた。

 山頂にあるベンチに腰かけて、ペットボトルに口をつける。

 山頂から見下ろした商店街で今晩、納涼祭が行われる。旭さんがどんな格好で来るのか想像しただけでそわそわしてくる。さっきはこっちから連絡すると言ってしまったけど、そういえば女子をデートに誘うような連絡をしたことがない。考えれば考える程に落ち着かなくなってきた。

 ぐう、とお腹が鳴った。さすがに空腹には耐え切れず、ベンチから立ち上がる。さっきの道路を南にまっすぐ行けば、時間はかかるけれど商店街に戻れるはずだ。水分で空腹感を誤魔化しながら散策道を降った。

 雲が出てきたせいか、散策道はさっきより暗さがあった。立ち止まって辺りを見回せば、道を外れた奥の方の雑木林は鬱蒼としていて、いま立つ場所よりもずっと暗い。高梨さんが言うことにも説得力がある。確かにクズリ様が住んでいそうだし、夜に連れていかれたら怖い。

「うわっ」

 突風が雑木林に吹き荒れる。枝がしなって踊り、葉が擦れて悲鳴にも似た音を立てる。 踊る木々の間のほんとうに奥、ほとんど真っ暗にも感じられる場所へと通じる傾斜のあるところが、わずかに開けて何かが見えた。

「お堂?」

 影の色とほとんど同化した建物のようなものが見える。大きくはないけど、ここからだと目を凝らして詳細が分からない。知りたくなって散策道から踏みだす。鎮座する建物に吸いよせられるように、ただ無心で足を前に運ぶ。

 呼吸が荒くなるのも気にかからないほどに夢中になっている。いつの間にか指先は泥だらけになっていて、顔は地面のすぐそばを這っている。山を駆け回る動物たちの興奮が理解できた気がした。

 顔を上げた時には、風は止んでいた。

 謎の建物は再び木々の影に隠れて姿を消し、まるで陽の光も届かない雑木林は改めてぼくがただの人間であることを教える。足下から這いあがってきた恐怖に、ぼくは腰から落ちた。登って来たはずの道を振り返っても、定かではない。周りだけ時間が進んで、陽の 沈みかけた夕暮れのように暗い。

 江古山に捕われた。

 指の一本も動かすことができない。江古山の体内でぼくはどうにか視線だけを巡らせている。息が浅くて、思考がまとまらない。

 背後でパキリと音がした。

 辛うじて振り返った視線の先、木々の下で何かがうずくまっていた。

「クズリ様のおわす場所さ」

 高梨さんの言葉が笑顔と共に甦る。「陽太君はまだ、大丈夫じゃないかな」

「まだ」

 木々の下で黒い何かが蠢いている。葉の擦れる音は果たして風のせいか、あるいはそれに踏みしめられた音なのか。

―開いてしまったんだね。この日記を読んだら、クズリ様に呪われるよ

「キコッ、コッ、カコッ」

 それが鳴いたと理解した瞬間、全身に鳥肌が走り、それを見失った。

それがいつ飛びかかってくるのか、どこから見ているのかも分からない。今どこに身を潜めている。茂みの中か、樹上か。

「クコッ、クッ、カコッ」

 人か獣か。そのどちらの鳴き声にも聞こえる。

「コッコッ、コキッ」

 それの声が雑木林の中で反響する。四方八方から絶えず耳に届くそれの声は、ぼくの心を蝕んでいく。耳を塞ぎたくても、恐怖心が邪魔をする。

「コココココ」

 喜びを孕んだような声と共に、視界に映る幹のような太い枝がひと際大きくたわんで、次の瞬間には地面に衝撃が走った。草木が踏みしめられて地面に伏す。

「コココッココ」

 こちらが動けないことをいいことに、そいつはゆっくりと時間をかけて近づく。

 それが膝の横に手をついて、地面が凹んだ。眼前に迫ったそれの顔はただただ真っ黒な―芋虫のような―何かが複雑に絡まり合って蠢いていた。目も口もなく、まるで生き物のようではない。すえた臭いが絶えずぼくの鼻にまとわりつく。

 それの口が開いていて、そこから真っ赤な口内と真っ白な牙が覗けた。牙は異様なほどに並びがよく、暗い雑木林で輝いてすらいる。

 それの冷たく湿った指先がぼくの膝に触れた時、無意識にも体を翻り駆け出していた。

 叫びたい衝動を堪えて、必死に足を前に出す。たった数秒走っただけなのに、喉が涸れて口が渇く。酸素を欲して乾いた口を大きく開けても、浅い呼吸しかできない。走っても、走っても視界が開けることがない。ぼくの視界で流れる様に木々が迫り、後ろへ去っていく。自分の足がどこへと向いているのかも分からない。行く手の景色にまるで変化がなく、焦りが汗になって額から流れる。

「コココココ」

 背中から聞こえる、それの荒々しい息が絶えることはない。地面を踏んで枝が割れ、葉が潰される音と土が激しく抉り出される音がそれに追随している。

「クコッ、コカッカッ、コココ」

 それが、ひと際大きな声を上げる。それが来ると直感して身を屈めた瞬間、ぼくの爪先が何かにぶつかり体勢を崩した。前のめりになって手を付くものの、運が悪いことに地面は傾いていた。

 走っていたときの勢いを殺すこともできず、江古山の斜面を転がる。世界は激しく回転を繰り返し、上下左右も分からなくなる。両手で頭を抱えて守ることしかできない。地面に何度も跳ねて、服に落ち葉やら泥が着いているだろうなと感じることだけが確かだ。

 ようやく勢いは止まり、吐き気と痛みのある体を起こして辺りを見回す。

 そいつは、少し離れた所を迫っていた。

 見上げれば雑木林の層は薄くなっていて、隙間から陽の光が差し込んでいた。希望を頼りに周囲に視線を巡らせると、木々の隙間からアスファルトの道路が見えた。跳ぼうと構えた足下で小石が転がって、崖下の道路に落ちていく。数秒後にようやく落ちた小石の音が帰って来た。

 迷っている暇はない。力を振り絞り助走をつけて、雑木林から跳んだ。瞬間、体を持ち上げられるように風が吹いて体が宙を舞い、日光と浮遊感に包まれる。けど、瞬く間に地面が眼前に近づき、両腕を前に突き出した。手をついてから肩から肘へと着地し、道路上で何回か前転し、充分に熱されたアスファルトの上で大の字になる。

 立ち上がることもできない。擦り傷だらけの両腕を真夏のアスファルトが容赦なく焼くが抵抗もできないまま肩で息をしている。肺が酸素を求めて呼吸をしても、入ってくるのも熱された空気だけで苦しさが増していく。

「おーい、大丈夫か!」

 男性の声が聞こえる。自転車の倒れる音がして、早足でサンダルがペタペタ鳴って聞こえた。麦藁帽を被った老人がぼくを覗きこんできた。

「だ、大丈夫、です」

「水、飲めるか?」

 老人はぼくの体に手を掛けて起こし、水筒を口元に運ぶ。冷たい麦茶がボロボロに乾いた体に染み込んでいく。

「怪物が、そこに」

 指差した先の崖の上の雑木林はかなりの高さがあった。

「そんなことはいい。とにかく病院だよ。送ってやっから」

 老人は言って携帯電話を取り出した。しばらくして、やってきた老人の奥さんが運転する車に乗せられて、島の診療所に運び込まれた。


「両腕に擦り傷と打ち身、それと打撲。意識ははっきりしているようだけど、頭は保護のために包帯を巻いておいたから。それと痛み止めを出しておくから、今晩はちゃんと飲んで休むこと。他に痛むところは?」

「ないです」

「だろうね。痛かったら喋れないだろうしね」診察室で正面に座るお医者さんはつまらなさそうに言い捨てた。「遊ぶのもいいけど、ほどほどにね。何してたの?」

「江古山に登って、その帰り道に―」

「帰り道に?」

「―クズリ様に追われて」

 お医者さんは言葉を失ったように、口を開けた。「ああ、そう。まあ、いいや。じゃあ気をつけて。今晩は絶対に安静だから、外には出ないように」

「外に出たら駄目ですか。お祭りも?」

「当たり前だろう。納涼祭も厳禁。そうでなくても面倒くさいのが担ぎ込まれてくるんだから。ちゃんと親御さんにも連絡するんだよ」

「ありがとうこざいました」

 手の代わりにボールペンを振ってさよならを告げる医者に、お礼を言って診察室を出た。診療所の廊下は静まり返っている。これから起きる嵐の前の静けさのようでもあった。

 旭さんに何と言えばいいのか。自分で招いたことだけど、急にどん底に落とされたような気分だ。とぼとぼと診療所の出口に向かって歩きだした時だった。

「とらいち、か?」

 杖を突いて男性が立っていた。後ろにはトイレの入り口が見える。すっかり後退した頭髪は真っ白でその量も少ない。髭は無造作に生え散らかっていた。老人は震えの止まらない指先でぼくを指す。

「お祖父さんを知っているんですか?」

「おまえ、寅一なのか?」

 老人は全身を揺らしながらも、突く杖で器用にバランスを取って近づく。

「この裏切り者が!のこのこと、この島に足を踏み入れようとは!」

 老人の怒鳴り声が診療所に響き渡る。いったいその体のどこから声が出ているのか分からない。

「高梨さん!」

 診察室からさっきの医者が飛び出してきた。二階からも怒鳴り声を聞きつけたらしく、看護師が階段を降ってやってきた。

「お前を許しはしないぞ!」

 激昂した老人が杖を振り回そうとして、医者がそれを奪った。背後からは看護師が羽交い絞めにして老人を収めようとする。

「高梨さん!この子は違いますよ!」

「貴様が勝手なことをしたせいで、儂にまで!」

 二人に体を組まれてもなお、老人は暴れまわろうとする。医者の奪った杖が廊下に転がって音を立てた。

「君!」医者が鋭く叫んだ。「さっさと出ていってくれ!診察料は後でいい!」

 医者の言葉に逃げるように診療所を飛び出た。背中からは老人の放つ言葉にならない罵詈雑言が聞こえてきていた。

 診療所の外に出ると、薄紫色と橙色が領分を取り合うように空に色を着けていて、見惚れるくらいだった。もう少しすれば納涼祭の始まる時間だろうか。まだ鼓動が早くて、診療所の出入り口の石階段に座った。

―この裏切り者が!

 お祖父さんは裏切った。だから島を離れた。お祖父さんのした勝手なこととは何なのか。あの老人は高梨と呼ばれていた。風貌から推測するに高梨さんのおじいさんかお父さんだろう。

―俺はあのことを許しちゃあ

 木島さんも同じようなことを言っていた。許さないことは何だったのか。お祖父さんのことを寅と呼ぶくらいだったから、本当に仲が良かったのだろう。だけどお祖父さんのことは頑なに話そうとはしなかった。

 肝心なことは何も分かっていない。もう明日には島を離れるというのに。

「陽太君」

 顔を上げると、『ラ・メイル』のロゴの縫い付けられたエプロンが目に入った。視線を上げていくと由香さんと目が合う。肩と眉がすっかり下がっていた。

「すい―、ごめんなさい」

 由香さんは何も言わずに近づく。怒っているのかと、思わず体が強張る。けれど由香さんは怒ることもなく、ぼくの手を引き寄せて抱きしめた。

「本当に心配したんだから」由香さんの声には涙が混じっていた。

「ごっ、ごめんなさい」

 こんな時にと思われるかもしれないけど、由香さんの柔らかい胸の感触が体に直接的に伝わってきて、抱き寄せられた時の体の痛みは消え、代わりに跳ね上がった心臓が内側から体を痛みつけていた。

 離れた時、由香さんの目元は赤くなっていた。

「ごめんなさい」

「うん。とにかく一度、お店に帰りましょう。お医者さんはなんて?」

「打撲と擦り傷だけど、今晩は安静にって言われました」

「でしょうね。ほんとうに大怪我にならないで、よかったわ」

 歩き出した由香さんの後をついていくと診療所の裏手に駐車場が見えてきた。朝、由香さんが忙しそうに乗り回していたシルバーの軽自動車が停まっている。

「親御さんに連絡しないとね」

「はい」

「本当にするんでしょうね」

 由香さんが運転席に乗り込み、助手席に座った。「ちゃんとします」

 シートベルトを着けたことを確認すると、由香さんはゆっくりとアクセルペダルを踏み込んだ。夕焼けが目に滲むので閉じて、自動車の揺れに身を任せる。うとうとしている間にお店には到着していた。

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