⑥
「なんだか、夢うつつだな」
キッチンに立つ夏樹さんの言葉も、右耳から入って左耳から出ていくだけだ。江古山で採れた茸とアンチョビをふんだんに使ったパスタは皿の上で鷹の爪と絡んで香りを立たせるけれど、右手のフォークは少し麺を巻いては止まり、を繰り返している。
水着姿の旭さんの笑顔の思い返しては溜息をつき、フォークに絡んだパスタを口に運ぶ。時折、何も巻き取っていないフォークを齧って現実に帰ってくる。
「いいことでもあったんでしょ」
昨日と同じように隣で高梨さんがお酒を楽しんでいた。店内も喧騒に満ちていて江古島住民の夜の憩いの場になっていた。相変わらず由香さんはパブと言い張る居酒屋の中心で、音頭を取っている。
瞼を閉じれば手の届くところに、旭さんの笑顔がある。旭さんは軽やかに近づいては顔を寄せて、ぼくは旭さんの腰に手を回し鳶色の瞳を見つめる。そして―
「なんか、すごい顔をしているよ」
目を開けたとき高梨さんはグラスを振って笑っていた。夏樹さんは信じられないものを見たという表情で固まっている。
あまりの恥ずかしさに、パスタを掻きこみウーロン茶で流し込んだ。「ご馳走さまでした」と言い残して飛びあがるように立ち上がり、お店の奥にある階段を駆け上がった。
部屋は朝出ていった時のままで、少し乱れた布団に倒れ込んだ。頬だけじゃなく耳まで熱い。部屋に入り込む夜風は懸命にぼくの火照った顔を冷まそうとするけれど、それこそ焼け石に水だ。
目を閉じれば、瞼の裏に強く焼き付いた旭さんがぼくの前に立つ。水着姿の旭さんは微笑んで、ぼくの手を取り唇を近づけて―
「駄目だ!」
布団から起き上がり頭を振った。叫びたくなって窓辺に寄ったけど、それはどうにか堪えて飲みこむ。目の前には深い藍色に沈んだ夜の江古が広がっていた。畑や雑木林があるはずだけど、見えるのは点々とした道路灯に照らされた範囲だけだった。
旭さんも同じ景色を見ているのだろうか。
ふと、お祖父さんのことが思い返された。海沿いに家のあったお祖父さんはきっと毎晩、夜の海を眺めていたのだろう。お祖父さんのお父さんは漁師をしていたと島の人は言っていた。もしかすると、お父さんの帰りも待っていたのかもしれない。あるいは手伝って一緒に船に乗っていたかもしれない。純一さん曰く、釣りが上手だったのはそういうことだろう。
お祖父さんのことを調べに来た島で、同じ高校生の女の子のことに夢中になりかけていると知ったら、家族はどんな顔をするだろうか。父さんと母さんは想像がつかないけど、姉さんが揶揄ってくるのは、まず間違いない。もしお祖父さんが元気だったら、どう思うだろうか。意外と喜んでくれるかもしれないと 勝手に願っているけど、そうであっても、なんだかくすぐったい。
お祖父さんには、そんな人がいたのだろうか。
今のぼくのように妄想してしまうほどに想ってしまうような、出会いがあったのか。ボストンバッグからお祖父さんの大学ノートを引っ張り出し、最後のページを開いた。
「また、四人で笑い合いたかった」
お祖父さんの過去に淡い希望を抱いたまま、大学ノートを鞄に戻した。階下から聞こえてくる店内の喧騒が静まり返ったころを見計らって、こっそりと階下に向かいシャワーを浴びた。
脱衣場にある鏡の前でぼんやりしながら歯を磨いていると、後ろからぬっと夏樹さんが現れた。上半身裸の夏樹さんは体に大小様々な筋肉のブロックがくっついているようで、凄まじいとしか表現できなかった。鏡越しに目が合った夏樹さんは、顎に手を当てて何やら考え込んでいたが、意を決したようにうなずくと口を開いた。
「俺と由香の馴れ初めはな―」
思ってもみなかった夏樹さんの発言に―歯ブラシこそは落とさなかったものの―何度か目を瞬いた。
「下野君にはまだ早いか」
「俺、もう高校生ですよ」
「いや、なんだかこっちが恥ずかしくなってきた」
夏樹さんは背を向けると、ぼくに構わずズボンを脱ぎ始めた。鏡越しに岩のようなお尻と大木のような太ももが露わになり、思わず目がいった。
「スポーツをしていたんですか?」
「ああ。大学の頃にラグビーをしていたんだ。由香とはそのときに出会ったんだよ」
夏樹さんがニッと笑って振り返る。前を隠さない夏樹さんのそれが目に入り、思わず目を逸らした。そっちもまるで、獲物を飲みこんだ蛇のように太かった。
「また今度、膝を突き合わせて話そうか」夏樹さんは透明のコップを持って、あおる。
「俺、まだ高校生ですよ」
「バレやしないさ」
言い残して夏樹さんは浴場に姿を消した。
口を濯いで部屋に戻った。ようやく気持ちも落ち着き、電気を落とした部屋で虫の音に耳を傾ける。
夢の中でも会えたらいいなと目を閉じた。
意識の端っこのほうで、物音がしている。
静かな部屋の外から何やら音が聞こえてきて、体を起こした。欠伸をかきながら着替えて一階に降ると、キッチンの奥で鉢巻きをした夏樹さんが腕を組みながら、並んだ鍋を睨んでいた。鍋からは半透明の湯気が立っている。
「おはようございます」
夏樹さんが顔を上げる。自然と笑顔になった夏樹さんは「おはよう」と口を動かすけれど、けたたましい排気音にかき消されてぼくの耳に届かなかった。何事かと慌てていると、お店の正面にシルバーの軽自動車が停まり、運転席から由香さんが半ば飛ぶように降りてきた。
「陽太君、おはよう!」
「おはようございます。あのー」
「納涼祭の準備!」由香さんは店の奥に消えてから、すぐにまた何に使うか分からない荷物を抱えて戻って来た。
「今晩ですよね」
「そう!」持ってきた荷物を後部座席に積みこむと、由香さんは慌ただしく車を発進させていった。
「忙しそうですね」カウンター席に着くと、並々と牛乳の注がれたコップが出てきた。
「由香の場合はそれだけじゃないんだがな。もともと元気が有り余っているタイプだ」
夏樹さんも体格に似合わず狭いキッチンの中を素早く動き回り、ぼくの前に料理の乗ったプレートを次々と出してくる。
「言い出しっぺはだいたい由香だ。俺に江古島に行こうと提案したのもそうだ」
「そう言えば、外から来たって聞きましたけど」
トーストの上に乗った目玉焼きの黄身はぷるぷると震えている。お腹が鳴って、かぶりついた。口の中で破けた黄身が広がる。
「俺も、昔は東京で営業の仕事をしていたんだ。本当は料理人になりたくてな。踏ん切りのつかない俺の背中を押してくれたのも由香だ。由香はいつも俺を助けてくれる」鍋をかき混ぜる夏樹さんの横顔は柔らかい。
「それも納涼祭で出す料理ですか」
「ああ。下野君も来るだろ?ちゃんと店で待ってるからな」
「財布を空にされそうです」
「おいおい」言って夏樹さんは意地の悪い顔になる。「こっちは端からそのつもりだぞ。帰りのフェリー代すらも無くなって、君は泣く泣く江古で暮らすんだ。うちで下働きをしながらな」
強面で山のように大きい夏樹さんが言うと、冗談に聞こえない。けれど―
「―それも楽しそうですね」
いまのぼくにはそれだけの理由がある。夏樹さんと目が合うと、ぼくらは静かに笑い合う。奇妙な気の繋がりを覚えながらトーストの横に転がる皮の弾けたウィンナーを齧ると、熱を持ったままの肉汁が溢れ出た。大量生産された商品とは違う風味の油は美味しくて、続けて二本目、三本目を口に放り込んだ。
「江古島に来て良かったです」
「そう言ってもらえると冥利に尽きるな」
しばらくの間、のんびりと朝食を頂いていると朝の空気に似つかわしくない排気音が再び聞こえてきて、ぼくと夏樹さんは苦笑いを浮かべた。
「夏樹ちゃん、設営のほうはもう大丈夫っぽいから―、何よ?二人して笑って」
「夏樹さんにとって、由香さんは天女様なんだなって話をしていたんです」
「そう?まあ、あたしの美しさには天女様もタジタジだと思うけどね」
由香さんの冗談に三人で笑い合っていると、開けたお店の出入り口から急に風が吹き込んできた。「天女様がお怒りだ」「大変、陽太君がクズリ様に連れて行かれちゃうわ」「夏樹さんも由香さんも道連れです」
がははっと店内に響き渡るほどの大声で夏樹さんが笑う。由香さんは目を丸くしたけど、すぐに細めて懐かしむように笑窪を深くした。勝手な想像だけど本当の夏樹さんは、もっと明るい性格だったのだろうなと思う。
夏樹さんの用意してくれた朝食もしっかりと頂き、席を立ったところでズボンのポケットに入れたスマートフォンが震えだした。引っ張り出して画面を見る。家からの着信だった。
「ちょっと電話に出てきます」
お店の外に出ると、町には朝の日差しが降り注いでいた。夏の暑さを予期させる新鮮な空気の吸い込みスマートフォンを耳に当てた。「もしも―」
「下野君、おはよっ」
聞こえてきた声に心臓が跳ね上がり、振り向かなくても誰なのかが分かった。スマートフォンから聞こえてきたはずの家族の声は急に遠くなっていく。「おーい、陽太?父さんだぞー、もしもーし。聞こえているなら返事をくれー、もしもーし」
期待と緊張を胸に秘めて振り返る。旭さんが自転車に跨って、真っ白な歯を見せていた。
「お、おはよう」
「今日は敬語を使わないんだね」
旭さんはお店のそばに自転車を停めると笑顔のまま、歩み寄る。昨日と違うのは長袖のシャツを着ていたことで、デニムのショートパンツを履いているのは同じだった。いまの姿もイメージに合っていて可愛い。
「電話、出なくていいの?」
「うん。いいんだ。別に」画面を見ずにタップを繰り返して通話を終わらせた。「間違い電話だから」
「あらら、有田さん。おはよう」
店から夏樹さんと由香さんが並んで顔を覗かせていた。ぼくを見ては、二人は顔をこれ以上ないくらいに緩ませる。「あらあら」
「おはようございます」有田さんは二人にも丁寧だ。
「有田さん一人?」結城君と石橋君の姿はどこにもない。
「そうだよ」
「今日は、どうしたの?」
「昨日、下野君さ、慶次さんの事を調べてるって言ってたよね?」
「ああ、うん。役所に行って教えてもらったよ」北かどうかは分からないけど、そちらの方向を指差した。「今日はこれから会いに行くつもりなんだ」
「知ってたんだ。ねえ、わたしも一緒に行ってもいいかな」
それはもしかしなくてもデートってやつではないだろうか。予期せぬ旭さんの提案に鼓動は朝から大忙しだ。それともぼくの気が早まっているだけなのか。とても嬉しい話だけど、不安要素が無いわけでもない。
「でも話を聞くと慶次さんは気難しい人らしいし、一緒に行ってあさ―有田さんに迷惑がかかるかもしれない」せっかくの良いムードを壊されたくはない。
「そんなことないよ。それに下野君が一人で行く方が大変だと思うの。だって江古の人からも距離を置かれている人なのに、外からのお客さんが会っても話を聞くことも難しいんじゃないかな」
旭さんの言う通りだ。それにお祖父さんと親友だった人が孫にも優しいとは限らない。そう考えると隣に島の人がいれば心強いし、何より隣に旭さんがいることが嬉しい。
「本当にいいの?」
「下野君はわたしがいたら、嫌かな?」
「全然そんなことないよ。一緒に行こう」
やや上目づかいに訊ねてくる旭さんに、嫌だなんて言えるわけがない。勢いあまって旭さんの両手を掴んでいた。目を大きく開いた旭さんと、しばし見つめ合う。
「あらら、朝から大胆なこと」
すっかり忘れていた由香さんの声に飛びあがってから、旭さんの手を離した。
「旭ちゃーん」
猫撫で声で旭さんを呼び寄せてから由香さんは、これみよがしにぼくを見た。その笑顔には、はっきりと意地悪さが表れている。ずるいと思いつつも、ぼくには見ていることしかできない。
「朝ご飯はもう食べた?それともお茶していく?まだ朝だけどさ」
「朝は食べて来ました。けど―」旭さんはぼくを見る。
「準備することがあるから、お茶して待っててよ」
旭さんはゆっくりとうなずく。「下野君を待ってます」
「よしきた」由香さんは店内に顔を引っ込めたかと思うと、またすぐに出してきた。「陽太君、おごってあげなさいよ」と言い残して由香さんはお店に消えて、すぐに店内から鼻歌が聞こえてきた。夏樹さんがさっき言っていた通りだった。回遊魚みたいな人だ。動き続けていないと死んでしまうのだろう。
「ごめんなさい」旭さんが両手を合わせる。
「女子にさ―」一度言葉を切った。素直に気持ちを伝えようとして、緊張している。「―何かを奢るのは初めてだから、なんていうか、その、嬉しいんだ」
聞いた旭さんは嬉しそうに目を細くする。口はカラカラに乾いている。お茶が欲しいくらいだった。
戻った部屋でゆっくりと時間をかけて荷物の整理をしていると、明日にはもう島を離れなければならないことに気付いた。名残惜しさに手を止めて窓に視線を向ける。着いた頃は分からなかったけれど、風には潮の香りが混じっていた。
部屋を出て階段を降っていると、階下から軽やかな話し声が聞こえてきた。時々「きゃー」と黄色い悲鳴もあがり、気になって仕方がない。けど普段通りの平静を保って、ゆっくりと一段ずつ階段に足を置いた。
カフェで旭さんと由香さんは隣に並んでお茶をしていた。ころころと表情が変わる旭さんは可愛らしくずっと見ていたい。階段を降り切ると旭さんと目が合った。ぱっと顔が明るくなり、それを見て由香さんも振り返った。
「あら、もっとゆっくりしていてもいいのに」
「由香さんのお話、すごく面白かったです」
「そう?よかった。帰ってきたら、もっとすごい話をしてあげる」
由香さんが旭さんに顔を近づけて耳打ちすると、旭さんは顔を真っ赤にした。心がざわつく。何を話したのか聞きたいけれど、ぐっと堪えた。
「有田さん、行こう」
すっかり茹で上がった旭さんと一緒にお店を出て、自転車に跨る。軒先に由香さんが微笑みながら立つ。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
手を振って見送ってくれた由香さんを背に二人並んで自転車を走らせる。気温は高くなりつつあったけど、爽やかな潮風を切って進むおかげで汗もかかない。ひと夏をこの島で過ごせたらなあと叶わない望みを抱えていた。隣の旭さんを見ると「風が気持ちいいね」と返ってきた。
しばらくの間、漕いでいると畑や雑木林ばかりだった風景に変化が見えるようになった。そう遠くない所に砂浜が見え隠れする。やっぱり誰も遊んでいなくて、木島さんの家に行くのを止めて二人きりで泳げばいいとぼくの中で悪魔が囁く。周りには誰もいない。本当のプライベートビーチだ。
「下野君、何か別のこと考えているでしょ」
「そんなことないよ!。そうだ。あさ―有田さんは慶次さんのことを知ってたの?」
「旭って呼んでいいよ」旭さんはくすくすと笑う。
思いもしなかった旭さんの返しにハンドルが躍って、慌ててブレーキを握りながら両足で地面を擦って急ブレーキをかけると、自転車はすぐに速度を失った。転ばなかったのが奇跡だと思うくらいだった。旭さんも少し走った先で急停車する。振り返ってこちらの様子を伺い、ぼくは旭さんの下へと急ぐ。
「大丈夫?怪我はない?」
「ああ、うん。大丈夫、だと思う」
言いつつも呼吸を整える。体のどこにも痛みはない。旭さんが心配そうに覗きこんで来るので笑って返した。ほっとしたように肩が降りる旭さんを見て、あまり困らせたくないなと強く思った。
「ごめんなさい」
「へいき、へいき。早く行こう」
再び自転車を走らせながらも、ちらりと横を走る旭さんを見る。時々、ぼくを見透かしたような、言動と態度で旭さんはぼくを揶揄う。ただ、ぼくが単純で分かりやすいだけなのか。そんなことを考えていると、旭さんは小首を傾げる。「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。どこも怪我してないよ。それよりもさ、旭さんは木島慶次さんのこと、どこで知ったの?」昨日の定食屋では何も言っていなかった。
「お父さんたちが知ってたの」
「やっぱり嫌な顔をされた?」木島さんの名前を聞いた人は皆、苦々しい顔をしていた。
「まさか、会いに行く気じゃないだろうなって釘を押されちゃった」
「やっぱり引き返そうか?」
「ううん。一緒に行く。下野君のお手伝いがしたい」
旭さんは昨日とはまるで違う眼差しを向ける。ぼくはまだ旭さんの一面しか知らないその事がもどかしい。ぼくの中で旭さんの存在はお祖父さんと並ぶか、それ以上になりつつあった。
もっと旭さんと一緒にいられたらなあと思っていた。
「スカイツリーには言ったことないけど、東京タワーには行ったことがあるよ」
「何回くらい?家族で行ったの?」
「四回、かな。初めて行ったのは、学校の社会科見学だったんだけど、小学校と中学校の社会科見学が両方とも東京タワーだったから、全然新鮮に感じられなくてさ」
「わたしには羨ましく聞こえるなあ」頬を膨らませる旭さんもかわいい。
「今度こっちに遊びに来なよ。結城君と石橋君も一緒にさ。案内するよ。一緒にスカイツリーに登ろう」
「うん、ありがと」言って旭さんは速度を落とす。「そろそろじゃないかな?」
自転車を停めて、スマートフォンを見る。ぼくらの現在地はちょうど北部の入り口あたりだった。榎田さんの言う通り島の北端までは旭さんと、ゆっくりと自転車を漕いでも三十分ほどだった。
この辺りまでくると民家も滅多になくなっていた。あったとしても捨てられて、とても住めるような状態ではないか、農地の間を点々と小屋のようなものが建っているだけだった。道路はしっかりと整備されているいけど車の通りも無い。島の南部に比べると、もっと自然が豊かではあるけれど、寂しさを感じる。
「ここに住む家があるのかな」
「みんなが言ってたから、あるはずだけど」
海岸はさっきよりも大分近くなっていた。旭さんの声も潮騒と風に紛れて途切れ途切れに届く。自転車を降りて、しばらく歩いていると正面に砂浜が広がった。誰も泳いでおらず海が深い青色をしているのもあって、夏なのに寒々しい。
「旭さんはここらへんには来たことはある?」
「あるけど、昔の学校の遠足で来たきりだよ。ここに来る用事もないし」
確かに何もない所には用事もない。けれど、あるはずのものを探して来たのだ。辺りを見回していると砂浜から護岸が伸びていて、その先に小屋が見えた。
「あれ、もしかして」
旭さんも見つけたらしい。うなずくと自転車に跨った。先に行った旭さんの後に着いていく。護岸沿いに進むと、すぐに小屋の詳細がはっきりしてきた。所謂、漁師小屋のようで長年の風雨にさらされたような佇まいがあった。
「うわぁ」「わあ」
漁師小屋の屋根は傾きかけていて、木製の壁は真っ黒に汚れて剥がれかけていた。小屋の周りには、何に使うか分からない道具が雑草にまみれながらも散乱している。扉も傾いていて開くのかどうか怪しい。失礼な話だけど、みすぼらしいという形容詞が家を成しているようだった。
「こんなところに人が住んでいるのかな」
「うーん。でもみんなは―」
「おい、お前ら」
聞こえてきた声に、旭さんと顔を見合わせてから振り返った。
ウェットスーツを着た老齢の男性が立っていた。上半身は露出していて、でも日に焼けた体つきはしっかりとしていて年齢以上の若さを感じる。肩からは大きなクーラーボックスを下げ、握った棒の先端には棘が着いていて、たぶん銛だ。それに紐が結われていて先にはフィンが一組ぶら下がっている。老人の背後の道路に濡れた足跡が点々としていた。さっきまで潜っていたのだろうか。
「こんにちは」
挨拶したぼくらを老人は強く睨む。「おめえ、島の人間じゃないな」
「そうです」
「ここは観光にくるようなところじゃない。さっさと帰りな」
老人はぼくの横を通り抜けて、小屋に入ろうとする。やはりここに住んでいるのだ。
「あの、お話があってきました。木島慶次さんですよね。青山寅一さんのお話を聞きたくて来ました」
老人は動きを止めた。そして荷物を置くと、振り返りまっすぐに向かってきた。老人の纏うあまりの迫力に動くこともできず、老人はあっという間に距離を詰めると、胸元を掴んできた。
「その話はするな!」
老人の方がぼくよりも幾分か背が低い。けれど腕力が予想以上に強く、振り回されそうになる。
「おめえがどこから来たのかも、どうして知ったのかもどうでもいい。だけどな、いいか。俺はあのことを許しちゃあ―」
木島さんの動きが止まった。彼の視線は傍に立つ旭さんに向けられている。旭さんは見たことも無いような目付きで木島さんを睨んでいた。
「お、おめえ。まさか―」
「その手を離してください」
冷ややかな声音で旭さんは雰囲気を支配する。威圧されたのか木島さんは腕を降ろした。そのまま腰も落として胡坐をかく。
「お前、寅一の話が聞きたいっていったよな。いいよ。話してやるよ。何が聞きたい」
「木島さんはお祖父さんと親友だったんですよね。お祖父さんはどんな―」
「お前、寅の孫か」木島さんが顔を上げる。目は大きく見開かれて、口元はわなわなと震えていた。
「そうです。だからお話を聞きにきたんです」
勢いよく立ち上がった木島さんは、ぼくの肩を掴み激しく揺さぶる。
「寅は元気か、俺のことを覚えているのか!」
「いっいや、あのっその、祖父は、亡くなりました!」
なんとか伝えると木島さんの動きが固まり、うなだれるように視線を落とした。肩を掴んでいた腕も力なく落ちる。
「もう、俺しかいないのか」
木島さんは膝から崩れ落ちる。旭さんと二人で木島さんの背中を眺めているけど、とても気まずい。旭さんにそれとなく視線を送るけれど、当の旭さんの視線もさっきから鋭くて話しかけにくい。昨日までの、あの優し気な雰囲気は微塵も感じられない。女の子には二面性があると言うけれど、ここまで極端なのだろうか。
木島さんはおもむろに顔を上げたかと思うと、旭さんとぼくとを交互に見やった。すっかり肩の下がった彼の雰囲気は、さっきとはまるで別人のようで年相応の老人に戻ってしまったようだった。
「そうか、そういうことか」
絞り出すような木島さんの声は、どうにか聞き取れるという具合だった。
「いえ、あの」木島さんが何を言っているのか、さっぱり分からない。隣の旭さんも口を結んでいるだけだ。
「結局、そうなるのかよ」
彼の声はどんどん小さくなって半ば涙ぐんだものになっていた。
「すまん、もう帰ってくれ」
「えっ、いや。その」
「帰ってくれ!」
荷物をそのままに木島さんは小屋の中に姿を消した。「そんな」とぼくの口からもこぼれる。何のためにここに来たんだ。このままで手ぶらで帰れるわけがない。今すぐにでも、この粗末な小屋の扉を蹴とばして―
「あの、俺の名前は下野陽太っていいます。明日、お昼の船で江古島を去ります。いまは『ラ・メイル』に泊まっています。気が変わったら、お話を聞かせてください!」
―そんな度胸はぼくにはない。朽ちかけた小屋の扉に大声で呼びかけるけど反応もない。波だけが繰り返し、寄せて返しては音を運んでいた。
護岸の果てに木島さんが住む漁師小屋が見える。
砂浜に立ってぼんやりと海を眺めている。ぼくの後ろので、足を投げ出した旭さんもまた同じように海に顔を向けていた。
もう一度、木島さんに声をかけに行くことも考えたけど、果たして家から出てきてくれるかどうかも怪しい。いままで驚くほどに順調だったのに、江古島に来て初めて躓いてしまった。しかも、よりにもよってお祖父さんの親友とも呼べる人に話が聞けなくなってしまうとは。結局、集会所で出会った人たちの言う通りになってしまっている。
もう一度、集会所に行って話を聞くことも考えた。確かにお祖父さんの武勇伝を聞くことはできたけど、本当に知りたいことには辿り着けていない。
お祖父さんはなぜ島を離れることになったのか。
お祖父さんの親友だった木島さんは恐らくは、その理由を知っている唯一の人物だ。歩いて数分もしない距離に家が見えるのに、果てしなく遠くに感じる。
これからどうしようか。今日はもう諦めて、旭さんと一緒に島の観光でもしようか。
「ねっ」
振り返ると旭さんが笑顔をむける。旭さんがいなかったら、あのまま首を絞められていた。ゾッとしない話だ。周りからは怪我には気をつけろと、あれだけ言われていたのにもっと悪い結果になっていたかもしれない。
「さっきはありがとう」旭さんには感謝し尽くしても足りない。
ふと、さっきの出来事を思い出した。旭さんが木島さんに向けた、あの表情はなんだったのだろうか。
「それはいいからさ、下野君のことを教えてよ」
「俺のこと?」
旭さんはうなずく。「下野君のこと、もっと知りたいな。サッカーしてたんでしょ?」
「ああ、うん。ずっとね。小学生の頃からかな」山田先生と似たようなやり取りをしたのもずっと昔に感じる。
「部活には入ってないの?すごく上手に見えたよ」
「怪我をしたんだ。試合で」砂浜に腰を落として膝をなぞった。
「ひどかったの?」
「膝の靭帯を痛めてさ。当たり所が悪くて数か月は松葉杖だった。そっからリハビリして、でも、もう普通に歩けるしボールも蹴れる」
「靭帯を痛めると雨の日が辛いって聞くけど、本当?」
「ジンジンするくらいかな。一生付き合っていくことになるって、お医者さんには言われた」
「怪我が治ってからは部活には戻ってないの?」
「うん。怪我したのが二月だったし、もう半年になるのかな」
「サボって江古に来ちゃたんだ」
「そう言われると、さすがにちょっと傷つく」
「ごめん」
「いいよ、大丈夫」
「部活には戻らないの?」
言葉に詰まった。山田先生は戻って来いと言っていた。でも、部活の連中はどう言うのだろうか。
怪我が治ったばかりの頃は、部活の連中に呼ばれることもあったけど、それも次第に数が減り、今では全く話をしない。クラスの友達と当たり障りのない会話をするだけだ。
決して強くはなかったけど、それでも気の置けない仲間とボールを蹴り合うのは楽しかった。
どうして、部活にいかなくなったのだろうか。長くて苦しかったリハビリを乗り越えられたのは、絶対に部活に戻ると強く願ったからだ。けれど治った足がグラウンドに向くことはなかった。グラウンドは遠のき、授業が終わるとまっすぐに自宅に帰った。何か特別なことをするでもなく、ただ授業で出された宿題に手をつけて、夕飯になったら呼ばれて家族で食事を取る。風呂に入って寝て、朝を迎える。
「なんでだろう」
部活の仲間がどう思っているのか。遠くなってしまった部活の仲間たちとまた仲良くなれるのか。それを知るのが怖い。どこかで立ち向かわないといけない。けど、そう思うだけだ。お祖父さんの葬式に行ったのも、江古島に来たのも、自分には他にすべきことがあると言い訳して、先延ばしにして考えないようにしていた。
「今は他にやりたいことがあるんです」
山田先生には言ったけれど、それは本当にやりたいことなのか。
「ずっと続けると思ってたんだけどな」それが毎日続くと思ってた。
いつの間にか旭さんは隣にいた。けれど視線は変わらずに海を向いている。
「母さんがさ、お祖父さんの家に行く途中に言ったんだ。あんたってタイミングの良い子よねって。だったら怪我なんてしないと思うんだ」
旭さんは砂浜に人差し指で何かを描いている。果たして聞いてくれているのか分からないけど、誰かに話すことで気が幾分か軽くなった気がした。
「下野君はどうしてサッカーを始めたの?」
「父さんに連れられていったのが初めてだと思う。実はあんまり覚えていないんだ」
「楽しかった?」
「うん、まあそうだと思う。じゃないと高校生になっても続けていないと思う」
「下野君は高校生になってもサッカーをずっと選んできたんだよね」
ぼくはうなずいて返す。他の部活を選ぶなんて考えたことも無かった。
旭さんは人差し指、中指、薬指を立てた。
「お父さんと一緒に漁師を目指す哲平と、牧場を大きくするために専門学校に行く和秀。そして、下野君は小学校の時からずっとサッカーを続けることを自分で選んだ」
どうやら三本の指はぼく達らしい。旭さんは含まれていないのだろうかと思えば、昨日の定食屋ではっきりとした返答はなかった。ぼくと同じようにまだ迷っているのだろうか。
「部活の話と将来の仕事は違うと思うけど。それに二人は家がそれを仕事にしているわけだし、自然とその道を選択してたかもよ」
「そしたら自分で選ぶなんてことは、どこにもないよね。全部、他人の影響がある。自分で選んだつもりでも、実は誰かの影響がありましたってことになるよ」
「そうじゃないの?」
「そうじゃないの」
旭さんがぼくを見る。その瞳は何かを期待しているようだった。必死に思考を巡らすとぼくの中で閃きが一つ駆け抜けた。
「部活に戻らないことを選んだってこと?」
「うん。別のもっと大切で重要な何かをするために下野君は部活にいかなくなったの。そう考えたほうが気も楽だよ。だって陽太君の将来は何も決まってないもの」
「江古島に来て、お祖父さんのことを知るために?超能力者じゃないんだから、半年も先のことは分からない」とは言うものの、ぼくはその超能力者を調べに来たんだった。
「ううん。陽太君はこの未来を予感して部活に出なくなったの。陽太君にも超能力があるんだよ」
「お祖父さんはサイコキネシスだったけど」
「同じ能力が受け継がれるかどうか分からないの」旭さんはけらけら笑った。
「冗談だよね」ぼくに気を遣ってくれているだけだろう。
「下野君のわたしに対する気持ちは冗談?」
瞬間的に顔が沸騰した。多分、湯沸かし器よりも早いはずだ。勝ち誇ったような笑顔の旭さんを直視できない。なんで女子は他人の気持ちがすぐに分かるんだ。そんなに分かりやすく書いてあるだろうか。けど、否定することもできない。今すぐにでも海に飛び込むか、砂浜に穴を掘って顔を埋めたくなった。旭さんしかいないのが不幸中の幸いだった。
「下野君」
顔を上げると、旭さんは立ちあがってお尻に着いた砂を払っていた。
「旭さん?」今日は一緒にいるんじゃなかったのか。
「ごめんね、わたしにもしなきゃいけない事が出来たの」
旭さんはまっすぐにぼくを見る。どきりとする以上に旭さんの瞳には、何かを決めたような色が表れていた。しばらく見つめ合っていたけど、旭さんが視線を切った。その目には寂しさが映っているようにも見えた。
「納涼祭、ちゃんと来るよね」旭さんは自転車に跨る。
「旭さんと一緒に回りたい」まっすぐに旭さんを見た。こうなったらヤケクソだ。「あとでラインするから!」
「うん、待ってる。でも哲平たちも一緒だよ!」
笑顔のまま去っていく旭さんの背中を見送る。ぼくの中に幾つかの感情が混ざり合って膨れ上がり、砂浜の上で身悶える。旭さんに揶揄われているだけなのか。昨日の海辺で二人きりでいい感じになったのは、ぼくの勘違いなのか。
「ああっもう!」
立ち上がり自転車に跨る。力任せにペダルを漕ぐと自転車は、ぼくの闇雲なパワーに答えてくれた。何でもいいから、とにかく動き回りたかった。じゃないとずっと旭さんのことばかりを考えてしまう。