表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
秘匿の島  作者: loveclock
序章
1/28

プロローグ

 蝉の音だけが聞こえていた。

 明かりの消えた部屋に差し込む日差しは、その色を濃くし半ばオレンジ色に変化していた。焼くような暑さを避けて幼い子供が一人、部屋の隅で絵本を広げている。

 絵本は真っ白だった。幼子は何も描かれていない見開きを隅から隅までを舐めまわすように見続け、満足したのだろうか隣のページに小さな指をかけてめくる。めくった先のページも真っ白だった。多分、記憶の中では絵本の内容はさほど重要なことではないのだろう。

 薄暗い影の中で絵本に夢中になっている幼子の耳に、「ポーン」と軽やかな電子チャイムの音が届く。

 絵本から顔を上げる。インターフォンの画面に誰かが映っていた。けど、小さな体にはそれ以上のことは出来ない。かろうじて分かるのは誰かが、玄関の向こう側に立っているということだけだった。

「ママ」

 か弱い呼びかけは誰に届くこともなく部屋を漂って消えた。マンションの壁に張りついた油蝉が鳴き、隣部屋の風鈴が風に吹かれて涼しさを招く。

「ママ、パパ、おねえちゃん」

 この時に、幼子は初めて不安という感情を覚えた。そして自覚したばかりの感情を声音に乗せるが、やはり返事はない。部屋の中を見回すけど、気付いた誰かが顔を覗かせてくる気配もない。

 次第に募る感情は小さな体の中で膨れ上がり、幼子は絵本をそのままにして立ち上がった。さすがに初めて立ったのはこの時ではなく、立ち上がろうとする幼子を支えようとして、でも我慢して身悶えている父親を背後に、両足で地面にふんばる姿はすでに映像で観ている。

「ママ、パパ」

 必死に感情をおさえこみながら家族の寝室を目指す。寝室という言葉は知らなかったけど、みんなが眠る部屋だということは分かっていた。だから、呼んでも出てこないのはみんなが眠っているからで、そこにいるに違いないと信じていた。

 家族で川の字に眠る寝室には色の褪せた畳が広がっているだけだった。ベランダでは物干し竿に掛かった家族分の敷布団が、夕方に差し掛かった青空の下、気持ちよさそうに風になびいていた。

 まだ、ほんの一部屋を見ただけなのだけど、それだけで幼子の感情は決壊しかかっていた。大人にとってのほんの数秒の出来事は、まだ片手で足るほどの年月しか生きていない、幼子にとっては途方もなく感じられたはずだ。こらえていた感情にヒビが走って口と肩が震えだす。いまにも涙が溢れ出す。

 幼子は畳の上で、目尻に大粒の涙を貯めて震える。耐え切れず声が出かかった、その時に体を風が吹き抜けた。

 網戸のむこうで敷布団がはためいている。部屋に吹き込んだ夏の風が体を包みこむ。柔らかく温かい夏の風は、頬を撫で髪の毛を梳く。膨れ上がっていた感情がすっと引いていく。

 再びインターフォンが鳴った。

 幼子は寝室からリビングに走って戻ると、お気に入りの椅子を両手で抱えた。不思議と重さは感じなかった。インターフォンの下に運ぶと息を上げながらも、うんしょ、うんしょ、と短い足をかけて椅子の上に立ち上がる。つま先立ちで手を伸ばすと、顔と同じくらいの大きさの受話器を取った。

「はい、ど、どちらしゃまですか」ママの言葉を精一杯に真似をした。

 普通の家庭なら幼い子供をインターフォンに出すようなことはしないだろう。そもそも、そんな子を独りにすることが間違っているのだけど、それは今すべき議論ではなくて、彼の両親もまた同じだった。母親が口を酸っぱくしたのが功を奏したのか、たとえ父親や姉が一緒にいる時もインターフォンには出なかった。むしろ忌避すべきものですらあった。

 そんな幼子がどうして自らすすんで受話器を取ったのか。今も理由ははっきりしない。むしろこの記憶自体があやふやで本当にあった事なのかも定かではない。でももし、この思い出を話す機会があればこう答える。

「誰かに見守られていた気がしたから、不安はなかったんだ」

 インターフォンの画面には男性が一人だけ映っていた。逆光のせいか顔は分からない。カンカン帽を被って杖を突き、着物の上から茶色の外套を羽織っている。

「―」

 幼子の対応に男性は何かを呟いたが、それも記憶には不確かだ。幼子は椅子をリズムよく降りると玄関へと駆けだした。恐怖はなかった。それを知らなかっただけかもしれない。背後では手を離れた受話器が重力に逆らえず、コードに引っ張られて空中で振られていた。

 たどたどしい足の運びで、玄関に辿り着いた彼は扉に両手をかけて押した。マンションの廊下には老人が一人立っていた。

 老人は枯れ木のようだった。灰色の指には骨が浮き、突いた白木の杖から伸びた枝のようにも見える。上着の裾からのぞく腕も白く筋張っている。肌に点々とする薄茶色のシミの下で、青色の血管が皮膚の下を張り巡っていた。髭は生えておらず口の周りを、多数の皺が年輪のように模様を作っている。

 それ以上の老人の顔は靄が、かかったようにはっきりしない。

 老人を前に幼子は固まった。この老人を知っている。初めてあったはずの老人の持つ雰囲気を知っていた。ドアを大きく開いて老人を家に招く。少しの間、二人に静寂があって、老人はそっと片手を杖から離すと掌をむけて断った。

 老人は足を引いて玄関から離れようとする。幼子は彼の姿を見て不安になった。すでに目の前に立つ老人には好意に似た感情を抱いていた。このまま老人が離れていったら二度と会えなくなる。そう思ってすらいた。

 何をすればいいのか分からなかったけど、すでに心は固まり視線は一つの方向だけを見ていた。幼子は着の身着のままで赤いヒーローの描かれた靴を履くと、横を向き距離をとりかけた老人の手を取って、マンションを飛び出した。

 あてなどなかった。いつも泥だらけになって遊ぶ公園を一緒に歩き、春になれば散った桜の花びらが覆い尽くす川面を眺めた。母に連れられて行くスーパーの帰り道、いつもおまけの付きのお菓子を離さなかった。とにかく自分を知ってもらうことで精一杯だった。二人は午後の焼くような熱射の中を歩き回った。

 引っ張られて後ろを歩く老人の足がゆっくり止まり、幼子の足も止まる。振り返ると老人の体はレンガ模様の建物を向いていた。相変わらず老人の顔は―鋭い日差しに遮られて―はっきりしない。それでも、この建物に入ろうと提案しているのが分かった。

 幼子はレンガに手をつき足を伸ばして丸窓から店内を伺う。白いテーブルクロスの掛かった丸テーブルで女性が二人、談笑していた。机の上に置かれたコーヒーカップと空になったお皿には、スポンジケーキの欠片とフォークが寝かせてあった。

 初めての喫茶店に強く興味を惹かれた。両親に連れられていくのは、もっぱらファミリーレストランで、彼にとっては初めての体験だったけど不安はなかった。

 老人に手を引かれて入った喫茶店の控えめな涼しさに汗が引いていく。少しばかりの緊張と興味を持った幼子の手を引いて、老人は窓際の席へと歩みを進めた。席は日光に輝く擦りガラスのそばにあって、老人は椅子を引き座らせる。その後で杖を壁に立てかけ、上に被っていたカンカン帽を乗せる。羽織っていた茶色の外套を椅子に掛けると自身も腰を落とした。

 注文を取りに来たエプロン姿の初老の女性と老人は二三、言葉を交わす。女性が離れていったのを皮切りに幼子は老人に自身のこと、日々自分の身に周りに起きていることを話し、老人は話に時折、うなずいて返しては終始耳を傾けてくれていた。

 興奮冷めやらぬ幼子の前に、お盆を持って初老の女性が再び姿を現す。彼女はお盆からグラスを取るとそっと置いた。小さな炭酸が絶えず現れては消えるエメラルドグリーンが満ちたグラスには、氷河みたく純白のバニラアイスが浮かぶ。真っ赤なサクランボはクリームソーダの色どりを華やかにし、小さな彼の目にはグラスが輝いてやまない宝石のように映っていた。

 言葉にならない感情が体をよじらせる。椅子に立ち、身を乗り出して目を輝かせる幼子の前で乳白色の塊は、わずかに溶けて緑と白の渦模様を作り出す。彼は老人を見た。老人の顔は斜光に遮られはっきりしないが、漂う雰囲気は穏やかなものだった。

 幼子は添えられたストローをグラスに差し込み、生まれて初めてクリームソーダを味わった。口の中を甘さと冷たさが満たし、炭酸の刺激が舌の上で跳ねる。スプーンでバニラアイスをすくい、ミルクの甘さとバニラの香りに固まった。

 ストローとスプーンを交互に口に付ける。何度もそれを繰り返し、バニラアイスがメロンソーダに溶けかけて混ざり合い始めた頃、店内の冷房と相まって小さな体はすっかり冷えきり、幼子はスプーンを置いた手でしきりに体をさすりはじめる。

 老人は自分の椅子の背もたれに掛けていた外套に手を伸ばすと、小さな体にそっと羽織らせた。嗅いだことのない香りが外套から漂う。花にも香炉にも似た香りは残った老人の、ぬくもりと共に小さな体を包みこむ。

「ありあとう」

 寒さに歯を鳴らす幼子は懸命に感謝を伝える。少しして体が温まると、また性懲りもなくテーブルに置いたスプーンに手を伸ばす。老人は自身の手を幼子のそれに重ねて、止めた。

 すこし顔を傾けて老人の顔を見る。老人はもう片方の手を机の上に置くと、手招くように指を動かし始めた。

 スプーンが小刻みに机の上で震えている。

 溶けたバニラアイスの残ったスプーンは視線の先で誰に触れられることもなく、独りでに銀色の体を動かしている。

 やがて震えが止まると、静かにスプーンが宙に浮いた。

 呆気に取られた幼子の目の前で、スプーンは机から数センチの空中を漂っている。老人はまるで風を払うかのようにゆっくりと凪ぐと、スプーンはふわりと移動し、掴もうと伸ばした小さな右手の中に納まった。

 老人からの贈り物を幼子は両手で握りしめると、ほとんど眼前に近づけた。

 なんの変哲もないスプーンだ。もしかしたら家で同じものを使っているかもしれない。バニラアイスが液体になって指を伝うけど、それすらも気にならない。磨かれた銀色に魚顔になった幼子が写り込む。

 スプーンから老人に視線を移す。彼の笑窪はゆっくりと曲がり、今度は何かをつまむように人差し指と親指を曲げた。

 グラスの中、メロンソーダに溶けかけたバニラアイスの一欠けらが宙に浮かぶ。

 老人は同じように指で払う。目に見えない何かに包まれたように、ふよふよと漂っていたバニラアイスが動き、驚きっぱなしの幼子の口にむかってきた。首を伸ばして、それを口のなかに納める。せっかくの味も香りも楽しむことはできなかった。

 口の中で溶けて消えゆくバニラアイスの冷たさだけを感じていると、老人の法令線は穏やかにまがり口が形を変えて言葉を発する。

「―」

 その言葉も、やはり記憶の中ではっきりとしない。

 ふと、老人の動きが止まっていることに気付く。店内を見回せばクリームソーダを運んだ女性も、おしゃべりに夢中になっていた二人組の女性も、まるで時を止められたかのように固まっていた。視界に映るすべてが動きを止めていたけど、幼いぼくは驚かない。やがて座っていた椅子が引かれ、見えていた世界は一枚の絵画になって遠ざかっていく。絵画は渦を巻き、掻きまわされたように混ざり合って光り輝く小さな球体になる。

 光は点となって遠く離れていき、視界一面を黒が満たす。

 ぼくと祖父、寅一さんとの唯一の思い出はここで終わる。

 当時も今も、あの老人が祖父であるという確証はない。ただ独り留守番をしていた所に謎の老人が勝手にやってきたということだけが事実だ。もっと言えば、それも本当にあったことなのかどうか怪しく、いわば白昼夢のようなものだったのかもしれないとも言える。

 老人は自己紹介をしていない上に顔も声もはっきりと覚えていない。名前を知ったのもずっと後のことだ。それでもあの老人が祖父であること信じ切っている。

 その日以降、老人に再開することはなく、十年近くが経ってから二度と真実を確かめることが出来なくなったことを知らされる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ