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第298話 「今求めるべきもの」

 アギトは震える声で口にした。

 母親と目が合っただけで、全身金縛りにあったかのように動かない。

 まるで体が動けなくなる魔法をかけられたように、自分の意思のままにその場から逃げることすら出来なかった。

 ゆっくりと近付いて来ようとする母親にアギトはびくんっと体をびくつかせる。

 それを見た母親は足を止め、物を欲しがる子供のように片手をアギトの方に向けるが拒絶的なアギトの表情を見るなり、母親はその手を遠慮気味に引っ込めた。


「アギト・・・、今まであんた・・・どこに行ってたの」


 いつもの命令口調ではなく、確認するように訊ねて来る母親。

 しかしアギトはこれまでの経験から、そして植え付けられた恐怖心から言葉を発することが出来ずにいる。

 息を切らしながらアギトが固まっていると母親はなおもアギトに語りかけて来た。

 今までこんなことがあっただろうか?

 アギトはこれまでの記憶を辿ってみる、母親が自分に向かって言葉を求めて来たことがあっただろうか。

 母親はアギトの言い分や主張など全く聞く耳すら持たずに、全て自分の思い通りにして来たはずだった。

 そこにアギトの権利は何もない、何を考えていようと、何を思っていようと、何を感じていようと、母親にとってそれは全て無意味であったから。全く関係のないものだったから。

 それが今、母親はアギトの言葉を待っているように見えた。

 

「ねぇアギト、あんた一体何してるの。

 あたしがいない間、どこに行ってて・・・何をしてたのよ」


 そう母親が繰り返している間に、母親とアギトの回りに警官が集まり出した。

 完全に周りを取り囲まれアギトは再び焦りを見せ始める、このまま拘束されたら終わりだ。

 しかし母親を前にしていると、まるで一睨みで対象を石に変えてしまうバジリスクと向かい合っているように体が竦んで動かなかった。アギトが今感じているものが母親に対する「希望」なのか、それともただの「恐怖」なのかこの際どちらでも構わない。

 とにかく一刻も早くこの場を脱する為には、金縛りを解いて目の前に立っている母親を振り切り、アギト達を取り囲んでいる警官を薙ぎ倒してでも切り抜けなければいけなかった。

 だがこの金縛りを解くこと自体が決して容易でないことを一番理解しているアギトが、懸命に母親を断ち切ろうとしたその時。

 警官の一人が母親に付き添うように、アギトを諫める為に言葉をかけて来た。


「アギト君、・・・君がアギト君だよね?

 どうかそんなに怯えないで、大丈夫・・・もう怖がる必要はどこにもないんだよ」


(確かにオレは母ちゃんを前にして怯えているかもしれない、怖がっているかもしれない。

 でもそれがお前達に何の関係があるって言うんだよ!?

 今までどんな虐待されようと、近所の連中が通報しても全く相手にして来なかった奴が・・・今更何言ってんだよ)


 自分を今まで散々虐待し、憎しみさえぶつけて来た母親の味方をするように自分に語りかけて来る警官に対して、アギトはあからさまな嫌悪感を抱いていた。

 警戒するようにアギトはなおさら抵抗の視線を二人にぶつける。

 それでもその警官は人の良さそうな表情をアギトに向けて、まるで危険人物を宥めるように・・・殺人犯でも相手にしてアギトのことを逆上させないようにと、言葉をかけ続けて来た。


「安心して、ここにいる人達はみんな君の味方だから。

 君がお母さんから酷い虐待を受けていたことは知っている、だからここにいる人達は君を助ける為にいるんだよ?

 わかるね? 君が数ヵ月もの間行方をくらましてて・・・お母さんから連絡を受けた。

 お母さんはちゃんとおじさん達に話してくれたよ。

 君のことを虐待して、散々酷い仕打ちをして傷付けてしまったから、君がどこかに消えてしまったんだって。

 お母さんはきちんと反省して、その罪を償う為に全部話してくれたんだよ」


(嘘だ・・・、そんなの嘘だ・・・何かの罠に決まってる!

 母ちゃんが自分のして来たことを認めるはずがない、自分が悪いだなんて思うはず・・・ないんだ!)


「お母さんはその罪を償う為に、処罰をきちんと受けるつもりでいる。

 でもその前に君を保護しないことには・・・、罪を償う為の施設に入るわけにはいかないっておじさん達に助けを求めて来た。

 お母さんは君のことを心から心配して、おじさん達とずっと君のことを探し続けてたんだよ。

 大丈夫、君がまだお母さんのことを怖がってるのはわかっている。

 君を保護してもお母さんと二人きりにすることはないから、だから安心していいんだよ」


 懸命な警官の言葉に、アギトの頭の中は混乱しながらもひとつの考えに統一されていた。


(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、有り得ない、そんなことあるはずがない。

 母ちゃんが反省するわけがない、オレの身を心配するはずがない、警察に虐待のことで自首するはずがないんだ!

 どうせオレがこのまま大人しく捕まったら、賄賂か何か渡されてすぐにオレを母ちゃんに引き渡すつもりなんだろ!

 そしてまたオレのことを奴隷のように扱うつもりなんだ!

 自分の身の回りの世話をする人間がいないから、ストレス発散の為に暴力を振るう相手がいないから!

 だから大人しく反省したフリをして、オレがそれに騙されてのこのこ戻って来るように仕向けてるだけなんだ!

 オレは騙されない・・・、もう騙されないぞっ!)


 アギトの中に今まで潜めて来た思いが爆発した、ずっと溜めこんで来た思い、母親に対する怒り、今まで表に出すことが出来なかった不平不満の数々、それらが一気に爆発したのだ。

 その瞬間今まで金縛りにあって動けなかった自分が嘘のように、果敢に母親に向かって声を荒らげている自分がいた。


「ふざけんなっ!」


 アギトの怒声にその場に居た全員の顔に緊張が走る、アギトは気付いていなかったが回りにいる警官達はアギトがナイフを持って逃げ回っている危険人物だと判断し、宥めて確保するつもりでいたのだ。

 そのアギトを激昂させてしまったことは警官にとって大きなミス、アギトに悟られないように全員が警棒などでいつでも取り押さえることが出来るように警戒する。

 だが異世界で歴戦を繰り返して来たアギトにとって、彼等の行動はすでに筒抜けであった。


「そんなことしても無駄だ、お前達がオレに敵うはずねぇんだよっ!

 このオレが一体誰に修行つけてもらったと思ってんだ、なめんじゃねぇ!」


 しかしアギトは警官達に向かって力を振りかざすような真似はしなかった。

 カガリは懐にしまったままで、腰に帯びている剣にも手を触れない。

 もう自分の手で「人間」を傷付けることはしたくなかった、もう二度とこの剣を人に向けたくなかった。

 ふと、ルイドの最期が――――――アギトの脳裏に蘇る。

 あんな気分の悪い思いをするのは、・・・もう二度とごめんだった。


 動揺が走る警官達を余所に、抵抗の意を見せるアギトに対してただ一人・・・向かって来る人物がいた。

 アギトの母親は怒りの表情を浮かべアギトに向かって歩み寄る。

 つかつかと・・・母親の迷いない足取りに、アギトは内心恐れながらもその「恐怖」に立ち向かった。

 ここで逃げたらもう二度と、母親の呪縛から解き放たれることはない。

 もう自分は母親の道具じゃない、人形じゃない、――――――それを証明させる!


「アギト・・・っ、この・・・馬鹿がっ!」

 

 怒りを露わにした母親がそう叫び、アギトの目の前に立ち塞がった。

 その迫力にアギトはこれまでの経験から、次に何が来るのかを瞬時に悟る。

 

 ――――――殴られる!


 「恐怖」に立ち向かうと言っても、心と体の奥深くにまで刻み込まれた記憶はそう簡単に払拭出来やしない。

 反射的に、本能的に体が硬直してすぐさま両目を塞いでしまう。

 応戦どころか回避することすら出来ず、今までの経験そのままに・・・まるでパブロフの犬のように。

 母親から殴られると察した途端、自分はそれを受ける姿勢で、少しでもダメージを減らすことに集中して身を竦める。

 

 だがしかし、いくら待っても痛みは感じなかった。

 代わりに感じたものはかすかに香るフローラルな匂いと、温かなぬくもり・・・。

 アギトはゆっくりと両目を開けて、今自分が受けている「仕打ち」を目にした。

 母親はその両手でしっかりとアギトを受け止め、強く強く抱き締めている。

 耳元では母親の嗚咽が聞こえ・・・、自分の母親がすぐ側で、本当に自分のすぐ側で「泣いている」と理解する。

 思いがけない行動にアギトの頭の中は完全に真っ白になって、状況を把握するのに精一杯であった。

 思考が停止すると同時に、言葉にも詰まる。

 こんな攻撃に対する反撃の仕方なんてすぐに思いつけるはずもない、どう対処したらいいのかわからない。

 アギトが驚き戸惑っていると、母親は少しだけ自分の体を離しアギトの両目を真っ直ぐ見据えた。

 その顔は苦しみと悲しみで溢れており、両目から大量の涙を流して、まるで子供のように泣きじゃくっている。

 

「アギト・・・、ごめん・・・本当にごめんな?

 お前がいなくなって初めて気付くなんて、あたし・・・本当に母親失格だよ」


 ――――――何? この人は今、何を言ってるんだ?

 誰に向かって言ってるんだ?


「今更このあたしが母親面するなんて、ムシがいいって自分でもわかってるよ。

 でも・・・っ、マンションに戻って来て・・・あんたの姿がどこにもなくって・・・っ!

 最初は憎たらしいあんたがいなくなってせいせいしたって思ってた。

 でも何週間、何ヵ月経ってもあんたはマンションに帰って来ない。

 だんだんあんたのことばかり考えてるあたしがいたんだ・・・。

 あんたがいなくなって初めてわかったのよ。

 ・・・あたしには本当は、――――――あんたが必要だったんじゃないかって!

 早くに子供が出来て、母親になる準備すら出来てなくって、どうしたらいいのかわかんなくて。

 自分のことしか考えらんなくて、遊びたい時に遊べなかった自分が回りの子達と比べて不公平に思えてっ!

 そんでそのむしゃくしゃした思いを、自分の子供であるあんたにぶつけてた・・・っ!

 本当に・・・自分が最低でクソみたいな母親だったってわかった、今頃気付いたっ!

 どんなに謝ったって許されることじゃないって、今ならわかる・・・。

 あんたがあたしのことを嫌うのだって十分に理解出来るわ。

 でも・・・、これだけはわかって・・・?

 あたしはあんたに、側に居て欲しい。

 今度こそちゃんとするから・・・、母親らしく一からやり直すからっ!

 だからお願い、あたしを見捨てないで・・・もうどこにも行かないでちょうだいよ!」


 声を震わせながらそう告白する母親に、アギトは黙ったままだった。

 そして自分の思いの丈を一方的にぶつけて来た母親はもう一度アギトをその手に抱く、力一杯抱き締める。

 母親の健気な力に、それが不器用ながらに愛情を持って抱き締めて来てるのだと・・・母親の愛を知らないはずのアギトは、そんな彼女の健気で不器用な愛情表現を無意識に悟った。


 ずっと、求めてた。

 心の奥深くで、本当は求めてやまなかった・・・母親からの愛情。

 それが今・・・よりによってこのタイミングで、愛情をぶつけられた。

 

 ずっと、・・・母親に抱き締めてもらいたかった。

 愛情を持って接して欲しかった。

 側に居てもいいんだと、思わせて欲しかった。

 必要だと・・・言われたかった。


 今やっと・・・。

 アギトは幼い頃から――――――きっと物心つく前からずっと欲しかったものを、ようやく手にしようとしている。

 このまま抱き締め返せば、それが永遠に自分のものになるかもしれなかった。

 

 母親の匂い。

 母親の温もり。


 それがこんなに心地よくて、安心出来るものだとは・・・想像もつかなかった。

 アギトにとって母親という存在は、自分の命を脅かす恐怖そのものでしかなかったというのに。

 自分を傷付けるだけの、自分を地獄へ突き落とすだけの、そんな存在だと思っていた。


 今でも信じ難かった、にわかに疑ってもいる。

 あの母親がそんなすぐに自分に対して愛情が芽生えるとは、到底思えなかったから。

 しかし、アギトにはそれすら覆す強烈な思いがあった。


 「母親に愛されたかった」という、何よりも強い思いが。


 とろけるように甘美な誘惑に対し、アギトは母親を掴んで――――――自分から突き放した。

 実の息子に力一杯突き放された母親の、ショックで歪んだ顔がアギトの脳裏に焼きつく。

 それでもアギトは心を強く保ち、精一杯力強く母親を・・・拒絶した。


「違う・・・、今オレが求めてるのは・・・母親の愛情なんかじゃないっ!」


「アギ・・・ト!?」


 アギトは両手を力一杯握り締め、爪が手の平に食い込んで血が滲む位、力一杯よぎった思いを否定した。

 

「今オレの中にちらついた思いは、『今』のオレが本当に欲しいものなんかじゃないんだ・・・っ!」


「アギト・・・、許されないのはわかってる!

 でもお願い・・・っ! あたしにチャンスをちょうだい、たった一回でいいからっ!

 一度だけでいいからあたしのことを信じて・・・っ!

 ちゃんとするから・・・、もう二度とあんたに手を上げないって誓うからっ!」


 懇願する母親の姿に胸を痛めながら、アギトは涙声で反論する。


「どうして今更なんだよ・・・っ! 何で『今』なんだよ・・・っ!

 今までずっと放ったらかして来たクセにっ、今までずっと無視して来たクセにっ!

 何で今頃になってそんなこと言うんだよ! 何でそんなずるいことするんだよっ!

 オレはずっと求めて来ただろ?

 ずっとずっと・・・っ、あんたに愛してもらおうと努力して来ただろうがよっ!

 それが何だよ、ちょっとオレがいなかったからって・・・今頃になって母親ヅラか、ふざけんな!

 オレはその何倍も、何十倍も長い年月の間・・・ずっと一人ぼっちだったんだぞ!

 家に帰っても誰もいない!

 食事はいつも一人で、賑わせてくれるのはテレビだけだった!

 暗くて静かな家ん中でずっとオレは孤独と戦って来たんだ、一人でずっと我慢して来たんだ!

 なのにあんたはそんなオレのことなんか見向きもしないで、よその男と遊んでばっかり!

 帰って来たと思ったらオレのこと殴ったり蹴ったり、散々死にたくなるような思いさせて来たクセに!

 ――――――許してくれだと? 今度こそちゃんとするだと!? 

 そんなの信じられるわけないだろ、今まで愛してくれなかったクセに!

 今頃になってそんなこと言われたって・・・、信じられるわけがないだろうがっ!」


 今まで抱えて来た苦しみ、悲しみ、怒り、それらを全てぶつけるようにアギトは怒鳴り散らしていた。

 自分でも気付かぬ内にアギトは泣きながら、大量に涙を零しながら母親に向かって叫び続ける。

 アギトの悲しいまでの怒りに、母親からの愛情を渇望し続けて来た苦しみを聞き、アギトの母親もまた涙を零した。

 タイルの敷かれた冷たい路面に膝をつき、母親は初めて息子の本心を聞いた。

 どれだけ憎まれていたか、どれだけ傷付けて来たか、今初めて知って・・・母親はショックを受けている。

 初めて自分に逆らった息子に向かって母親は、まるで息子に救いを求めるように手を伸ばした。

 しかしアギトはその手を取ることはなく、完全に母親を拒絶する。


「・・・オレが今求めるべきものは、あんたじゃない」


「アギト・・・っ!?」


 それから真っ直ぐに母親を見て、アギトははっきりと自分の本当の・・・「今」の気持ちを母親に告げた。


「やっと出来たんだ・・・、本当の友達が・・・こんなオレにもっ!

 初めて出来た友達なんだ!

 そいつが今困ってる・・・、一人ぼっちで苦しんでる。

 オレはそいつを救う為に行かなくちゃいけないんだ、早く戻らなきゃいけねぇんだよ。

 だからこれ以上オレの邪魔をしないでくれ!

 オレは・・・、オレが側に居るべき場所はあんたの隣じゃなく・・・リュートの隣なんだっ!」


 アギトがそう言うと母親に背を向け、最後の決別の言葉を口にする。

 もう二度と、永遠に交わることのない母親に対して・・・。


「だからオレは・・・行くよ、もうここには戻らない。

 オレの居るべき場所はここじゃなかったんだ・・・。

 本当に帰るべき場所は・・・、オレが生きる場所は向こうの世界にある・・・。

 ――――――ラ=ヴァースがオレの故郷なんだ!」


「アギトオオオオオオッッ!!」


 アギトが駈け出すと誰一人として止める者はなく、周囲を取り囲んでいた警官達は唖然としたままアギトが目の前を走り去って行く姿をただ黙って見送っていた。

 母親は追い縋る様に手を伸ばしアギトの名を叫んでいたが、アギトは振り返ることなく駆けて行く。

 


 ――――――さよなら、さよなら母ちゃん!

 あんたの言葉が嘘であろうとなかろうと、オレは・・・それでも嬉しかった。

 どんなに酷い目に遭おうと、どんなに傷付けられても。

 あんたがオレを生んでくれなきゃオレは・・・、リュートに会うことすら出来なかったんだから。

 だから・・・、母ちゃん。

 オレを生んでくれて・・・、ありがとう。


  



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