第297話 「行き着いた先は…」
七月の蒸し暑い夕暮れ時、日の落ちる時間が遅くなっていることもあり工場地帯で働いている従業員などは仕事を終え皆、帰宅して行く時間帯になっても回りはまだ明るかった。
一組の若い男女がこそこそと周囲の視線を気にしながらブルーシートが張られている場所へと入って行く、鉄筋が中途半端に組まれたこの土地では工事が中断しそのまま放置されている。
中へ入って行くと造りかけの廃工場が目の前に現れ、上を見上げると途中で工事が中断されているのがよくわかった。
二人は笑みを浮かべながら鉄筋が並べて置かれている場所に腰かけ、戯れ始める。
それから数分も経たない内に、上空が突然光を発したことに気付き二人は短い悲鳴を上げた。
見上げると空中に奇妙な「ひずみ」が生じており、それが一体何なのかと目をこすりながら見つめる。
まるで目がぼやけたように一部分だけが歪んで見えたので怪訝に思ってお互い恐怖から手を握り合っていると、その「ひずみ」から再び目が眩む程の光が発せられ再び悲鳴を上げた。
――――――瞬間、「ひずみ」が生じていた場所から突然子供が降って来た。
「うわあああああああああああああああああああああああっっっ!!」
「ひずみ」のある場所はかなり高い位置にあった為、悲鳴を上げながら少年が落ちて来る光景をしっかりと確認する余裕があった男女二人もまた、驚き絶叫を上げて腰を抜かしてしまう。「ひずみ」から突然現れた少年はそのまま地面に向かって真っ逆さまに落ちて行ったので、地面に激突すれば見るも無残な光景を目にすることになる、そう察して二人は両目を固く閉じて視線を逸らせる。
落ちて来た少年、アギトは地面に激突する寸前に目に見えない柔らかいクッションで受け止められたように一瞬空中で柔らかく弾んで、それからゆっくりと地面の上に降りて行った。
激突した音すら聞こえなかったことを不思議に思った二人はゆっくりと目を開け、アギトを見つめる。
青い髪をした少年アギトは全身擦り傷や打ち身があり、衣服もすすけたりして汚れていた。
腰には剣を帯び、とてもじゃないが「普通」の格好をしていないアギトの姿を目にして、男女のカップルは悪夢でも見ているのかと思いながら悲鳴を上げその場から逃げるように立ち去って行った。
「い・・・てて、くそ・・・っ!」
アギトは全身が鉛のように重く、立ち上がることさえやっとだった。
先程自分を見て悲鳴を上げ逃げて行った二人の姿を見た瞬間に、ここが自分達の世界「リ=ヴァース」であることはすぐに理解した。しかし納得している場合でもない。
アギトは気合いだけで立ち上がると周囲を見渡し、それから上空を見上げ、自分の身に何が起こったのか改めて考える。
「ここはリ=ヴァースの廃工場、・・・何でだ!?
そんなことより早く戻らねぇと・・・っ、オレが行かねぇと・・・っ!」
アギトはもう一度上を見上げ、急いで廃工場の階段を駆け上がり――――――いつもリュートと共に飛び降りていた最上階へと辿り着く。そこから下を見下ろし生唾を飲み込みながら独り言を呟いた。
「ダメだ・・・確か異世界間の移動をするには反属性同士でマナを放出し合わないと!
でもここに闇属性持った奴なんているわけねぇし、・・・どうする!」
焦る気持ちを必死で抑えながら思考を巡らせる、今まで単独でラ=ヴァースへ行った試しがないアギトは他にどんな方法で渡ればいいのか全く見当も付かなかった。
そして最終的に最悪な考えへと突き当たる。
「大体ここに戻った方法だって何もわかっちゃいないのに、オレ一人で帰る方法なんてわかるわけねぇよ。
いや、そんな方法なんてないんじゃねぇか・・・?
リュートの奴がどうやってオレ一人をここへ戻したかわかんねぇわけだし。
それにこういう何かの原理とか理屈っぽいこと考える役目はオレじゃなくてオルフェの専門だし・・・っ!
だからってこのままにしておくわけには・・・っ!」
ふとアギトは何かを思いついた、おもむろに懐をまさぐり取り出したのは柄に石がはめ込まれた短剣。
トルディスからもらったこの短剣の石にはリュートのマナが込められている、つまりはこれがリュートの代わりになるんじゃないかと考えたのだ。
剣を手にじっと見つめながら、アギトは心臓の鼓動が早鐘を打ち心の奥底で恐怖を感じている自分に気付く。
確証はない、これをリュートと見立てて飛んだとして・・・それで異世界へ移動出来るかどうかの自信は全くない。
「・・・迷ってたって、始まらねぇよな。
他に方法が思い付かねぇってんなら、これに賭けるしか・・・っ!」
アギトはそう呟いてもう一度下を見下ろす、先程自分がいた場所を見つめ・・・その場所がとても小さく映し出され、今自分が立っている場所がどれだけ高い所にあるのかを実感させられる。
落ちて・・・失敗すれば確実に、死ぬ。
地面に叩きつけられ、怪我どころでは済まないだろう。
アギトは「カガリ」を握る手に力を込める、まるで祈るように・・・念を込めるように。
(信じるしかない、・・・信じるしかねぇんだ!
でないとリュートの所へ戻れねぇ、仲間達と二度と・・・会えないかもしれねぇんだ!)
「――――――そんなのは、絶対にイヤだ!」
そう決意した途端、アギトは勢いよく駈け出し宙を舞っていた。
全身に風を受けて下の方へと落ちて行く、それからカガリを抱き締めマナを放出させる。
ここでアギトが持つ光のマナと、カガリに込められたリュートの闇のマナが呼応し合えば異世界への扉が開かれるはずだった。
「・・・なんでだっ!?」
飛び降りながらアギトは愕然とした、懸命にマナを練り出そうとするが体内を流れるマナを感じ取ることが出来ない。
カガリに自分のマナを込めるどころか自分自身からマナを放出することすら出来ないのだ、途端にアギトは焦り迫り来る地面に向かって絶叫していた。
――――――ダメだ、死ぬっ!!
アギトは両目を閉じて自分の死が頭をよぎり、完全に思考が停止してしまう。
死を覚悟する余裕すらないままカガリを抱き締め歯を食いしばっていると、突然アギトの体は強風に煽られバランスを崩す。
どちらが上でどちらが下なのか、強風に煽られた勢いでアギトの体は前後左右に回転し声を上げた。
そしてアギトの体は強風に煽られたことで落下速度が急激に落ち、地面へと激突する。
だが偶然にもアギトが落下した地面は土が盛り上がって柔らかくなっていたので、即死する程の衝撃は避けられた。
地面に叩きつけられたアギトは呻きながら起き上がろうとするも、落下している途中と激突した直後での不快感や激痛が酷くてすぐに立ち上がることが出来ずにいる。
何度か咳き込み、うつ伏せになって状態が回復するのを待っていると遠くの方から声が聞こえて来た。
「お・・・お巡りさん、こっちです!
子供がっ・・・突然空から降って来て、それで・・・生きてるんですっ!」
「だからそんな話が信じられると思っているのか、大体お前達・・・ここは立ち入り禁止区域だぞ!?
こんな所で一体何をして・・・、うわっ!」
先程の若い男女のカップルが警官を連れて戻っていた、うつ伏せになって倒れているアギトの姿を見た警官は声を上げて驚いている様子だった。男女の方に至っては自分達が言ってることが本当だと言わんばかりにパニックになりながらも指を指して声を上げている。
「ほら、オレ達ウソ言ってないでしょ!?
あの子供・・・廃工場の上から落ちて来てピンピンしてんだ、絶対普通の人間じゃない!」
「それにあの髪・・・、青いわ! う・・・宇宙人か何かじゃないの!?
着てる服とか持ち物とかもおかしいし、絶対そうよ! お巡りさん早く捕まえちゃってよね!」
周囲の騒がしさにアギトが顔を上げると、警官が警戒しながら自分に近付こうとしているのが見えた。
アギト自身も自分に起きている事態や状況が把握出来ず、ラ=ヴァースに戻ることが出来ないという焦り、そして全身の痛みから冷静さを保つことが出来ずにいる。
そのせいで、思わず抵抗してしまった。
「オレに、触るなっ!」
怪我を負った野生の動物のように怯え、手を差し伸べようとした警官を払いのけるアギト。
息を切らしながら疑心に満ちた眼差しで目の前に居る者達を見据えるアギト、尻もちをついたまま後ずさる。
「君、彼等の言っていたことは本当かい?
あそこから、廃工場の上から飛び降りたのか?
怪我をしているみたいだけど、大丈夫・・・」
「オレに近付くなああああっっ!!」
そう叫ぶとアギトは手に持っていたカガリを抜き取り、刃を警官に向けた。
少女の悲鳴が周囲にこだまする。
両手でカガリの切っ先を警官に向けたまま、アギトは立ち上がりその場から逃げ出す。
警官は腰に装着していた無線を使い、本部に連絡する。
「緊急事態発生、青い髪の少年がナイフを手に逃走中!
酷く混乱している様子で危険極まりない、至急応援を!
繰り返す、青い髪の少年がナイフを持って逃走中、被害者が出る前に至急応援を!」
どうしてリ=ヴァースに戻って来たのか。
なぜマナを練ることが出来ないのか。
自分の身に何が起こっているのか何もわからないままアギトは、逃げるように駆けて行く。
何から逃げているのか自分でもわからない。
混乱の中アギトは助けを求めていた。
助けて、助けて、――――――誰か助けて!
オレはこれからどこへ向かえばいい?
どうすればラ=ヴァースへ戻れるのか、その方法を誰か・・・。
誰でもいいから、頼む・・・オレがどうしたらいいのか誰か教えてくれっ!
焦りと混乱から最初の内はどこへ向かったらいいのか分からず、アギトはただがむしゃらに走っていた。
人々が往来する街中を走り抜けながら自分を見つけては追いかけて来る警官に何度か出くわし、彼等をやり過ごそうとアギトは逃げ回る。思えばわけのわからない出来事の連続であった。
友を救う為に奮戦していたはずなのに、そのリュートから拒絶され気付けばリ=ヴァースに強制的に送還され・・・戻ろうと思っても自分のマナすら練ることが出来ず、挙げ句に数人の警官から追われる羽目に遭っている。
なぜこんなことになったのか。
アギトは必死に人混みの中を走り抜けながら、警官にカガリを向けたことを今頃になって後悔していた。
いくらパニックに陥っていたとはいえ警官に刃を向ければ危険人物扱いされても当然だ、しかし今になっては捕まるわけにはいかない。掴まって事情聴取やら何やらの為に警察署で拘束されるわけにはいかないのだ。
アギトは早く、一刻も早くラ=ヴァースへ帰らないといけない。
まだ諦めたわけじゃない――――――友をもう一度説得する為に、仲間達を救う為に。
向こうの世界ではきっと自分の存在が必要なはずだ。
生まれて初めてだった、こんなにも誰かに必要とされているなんて・・・自分から必要とされていると実感出来るなんて。
だからアギトはこんな所で足止めを食うわけにはいかない、急いで帰るべき場所へ戻らないといけなかった。
警官の手から逃れる為に街中を走り回るが目的地も定まらない中、むやみやたらに走り回るのは自分自身を追いこんでいる行為に他なかった。逃げ回れば逃げ回る程、警官の人数がだんだんと増えて行ってるように見える。
やがて警官の中から自分の名前を呼ぶ者さえ現れる始末だ。
――――――おかしい。
アギトやリュートに関する「情報」はヴォルトやらフォルキスやらで操作しているはずだ。
もしかしたら警察署にはアギトに関する何かしらの記述が形として残っていたのだろうか?
逃げ回りながらアギトはふと過去の記憶を思い出す、そういえば以前アギトとリュートは二人して警察署の世話になったことがあった。その時に書類やら何やらに名前などを書かされたことがある。
青い髪と言えば世界広しと言えどもアギトとリュート以外に存在するはずがない、少なくともアギトはそう思っていた。
「この世界」で青い髪をした人間なんて異常だ。
ヴォルトやフォルキスの影響を与えた人間はアギト達の身近な人物のみ、警察署にアギト達に関する資料が残っていてそれを元にアギトの存在を割り出したとしてもなんら不思議はなかった。
警官達がアギトの名前を呼ぶ理由を結論付けても何の解決にもならないが、そうやってひとつひとつ頭の中を整理することでアギトは冷静さを取り戻そうとしていた。
今はとにかく冷静になることが大切だ、このまま何の考えもなく走り回った所で時間の無駄でしかない。
警官達をやり過ごし、ラ=ヴァースへ戻る方法を早く考え出さなければならない。
少しずつ思考が冴えて来た所で、アギトは目的地を設定することにした。
このまま警官に一人で抵抗してもどうにもならない、誰かを巻き込む形になったとしても第三者に助けを求めた方が良いのでは?
どちらにしろ時間は取られる、それなら大人の力を借りてこの場を切り抜けるしか方法はないかもしれない。
以前にも経験済みだった、大人は子供の言い分なんてちゃんと聞いてくれやしないものだ。
それなら常識を持った大人がアギトの味方をすることで、少しでも時間を稼ぐことが出来るのではないだろうか?
(あんま気が進まねぇけど・・・、おじさんおばさんに助けを求めるか!)
アギトはせめて警官とモメてしまった事態だけでも収拾させる為に、リュートの両親に助けを求めることにした。
周囲を見渡し自分が今どこを走っているのか位置確認をすると、向かう先をリュートの家の方へと方向転換させる。
ここからリュートの家へ向かうには、まずはアギトのマンションを横切る必要があった。
それなら裏道などを大体把握しているから警官をやり過ごしながらリュートの家へ向かうことは可能だ、そう察してアギトは自分を取り囲もうとする警官の間をすり抜けたり、オルフェやジャックとの修行で身に付けた体術によって軽く警官をあしらったりしながら、誰一人怪我を負わせることなくアギトはひたすら自分のマンションを目指した。
ついでに家に置きっ放しにしているアイテムや何かも回収したかったが、そんな余裕はどこにもないと踏んでアギトは久し振りの自宅をそのまま通り過ぎようとしていた。
どうせここでの思い出は何もない、執着も愛着も・・・楽しく過ごした記憶なんて何もない。
アギトは自分のマンションを目で確認するだけで、そのまま足を止めることなく通り過ぎるつもりだった。
「――――――アギトっ!」
そう叫ばれたアギトの心臓は引っくり返った、それ位驚いていた。
何の未練もなく通り過ぎようとしていたとは思えない程、アギトはぴたりとその場で足を止めて硬直している。
急に体の震えが止まらなくなり、走り回っていた時に流した汗とは全く異質な汗が頬を伝う。
鼓動が早くなって、途端に頭の中が真っ白になっていった。
そんなはずはない・・・、こんなタイミングで出くわすはずがない。
アギトはゆっくりと恐怖に向かい合った、振り向くとマンションの前には一人の女性が立っている。
茶髪のロングヘアー、派手にカールされた髪、そして派手な服。
しかしその顔は疲労でやつれており、アギトが知る人物とは少し違って見えたがそれでも心と体だけはしっかりその人物のことを覚えている。
恐怖を、苦しみを、深い悲しみを自分の心と体に深く刻み込んだ人物を、アギトは決して忘れない。
「母・・・ちゃん」