第275話 「グリム兄妹」
昔からそうだった―――――――。
頭のいいお兄様、何でも出来るお兄様、綺麗な容姿をしたお兄様。
そんなお兄様があたしの誇りであり、唯一心を許せる相手だった。
―――――――あの女が来るまでは。
穏やかな日差しの中、6歳のオルフェはいつものように召使いのジャックを引きつれて出掛けようとしていた。着替えを済ませて階段を下りて来たフィアナが玄関口の方に目をやると、ちょうど玄関の扉を開けて外出しようとしている兄の姿が。
「待って、お兄様! フィアナも行く!」
まだ3歳になったばかりのフィアナはおぼつかない足取りで手すりにしがみつきながら、大きな階段を一段一段下りて行く。しかしオルフェはフィアナのことを一瞥するだけで、妹を待つことも―――――――声をかけることもせずにそのまま出て行ってしまった。
半泣きになりながら必死に後を追おうとするが階段を下りきった頃には涙で前も見えず、そのまま泣き崩れてしまうフィアナ。
10歳で博士号を取得したオルフェは頻繁に研究所で寝泊まりし、研究に没頭するようになっていた。研究所といっても研究施設ではなく、師であるユリアの屋敷が研究所代わりだった。フィアナも一緒に寝泊まりしたいと駄々をこねたがオルフェは話すらまともに聞くことなく、ただ一言―――――――「ダメだ」と口にするだけである。
年相応の少女らしい内装をした部屋の中で、一人遊びが増えた。
国王陛下の側近を務めている父親が屋敷に帰って来ることは滅多になく、母親も社交界やら何やらでいつも外出していたのでフィアナの面倒を見ていたのは実質メイドだけであった。
時折父親や母親からプレゼントとしてもらったぬいぐるみが増えて行き、ソファの上やベッドの上には動物のぬいぐるみで溢れかえっている。兄であるオルフェ以外に決して心を開こうとしなかったフィアナのことを扱いにくくなってきたメイド達は、一人―――――――また一人とフィアナの相手をしなくなっていった。
―――――――ぬいぐるみと遊ぶ時間が、また増えた。
「まぁ、それは本当? ベア・ブックさん」
フィアナは右手の指先からマナで練り上げた魔力の糸を全身茶色、真っ黒いつぶらな瞳をしたくまのぬいぐるみの手足にはわせ、左手の指先からは真っ白くて赤いワンピースを来たうさぎのぬいぐるみに同じように魔力の糸をはわせると、ふらふらと上下左右におぼつかない調子で揺らしながら、ぬいぐるみ同士が会話をするように―――――――交互に声色を変えながら一人で遊んでいた。
「あぁそうだよ、この実験に成功すればフィアナのお兄様はもう研究の為に屋敷を出て行くことはなくなるんだよ。
でも実験を成功させる為には、どうしても誰かが実験体にならないといけないって言ってたのを聞いたんだ。」
「でも、人体実験にはいつもジャックがなってたんじゃないかしら?
どうして今回は人体実験に付き合わないのかしら、その為の奴隷なのにねぇ。」
「この実験は死ぬ確率がとても高いらしいよ、勇気がないジャックならイヤだって言うのは当然さ。
でもそれだけ危険が高い実験なら、人体実験になった人間はとても感謝されると思うな。
それはもうすごく感謝されるはずさ、―――――――ものすごくね。」
ある日、8歳の誕生日を迎えたフィアナはプレゼントをもらった。
それは金色の髪に青い服を着た女の子の人形、お世辞にも可愛いとは言い難い不格好な姿をしたその人形をオルフェがフィアナへとプレゼントしたものだった。
今までずっとそっけなく、話しかけてもまともに相手をしてくれなかった兄が自分の為に―――――――。
それだけでも心が弾けそうな位に嬉しかったフィアナは、涙が出る程喜んだ。
父や母から送られてきたどんなに高価なプレゼントでさえも、―――――――色あせる程に。
「別に泣く程のことじゃないだろう。」
感情の込もっていない口調でオルフェが言い放つ。
しかしそれでもフィアナは父からもらった高級なビスク・ドールよりも、母からもらった上質なドレスよりも、ずっと振り向いてくれなかった兄がくれた―――――――安っぽく不格好なこの人形の方が、とても嬉しく感じられた。
「ありがとうお兄様、フィアナ・・・とても嬉しい。
他のどんなプレゼントよりもお兄様がくれたこのお人形の方が、ずっと素敵に見える!」
するとオルフェは無表情のまま言葉を返した。
「あぁ、それは僕からじゃないよ。
お前の傀儡師としての能力に興味を持った先生が、お前にって手作りした傀儡用の人形さ。」
「―――――――え?」
頬ずりするように人形を愛でていたフィアナの手が止まる、嫌悪感を露わにしたその顔でオルフェを見つめた。
「本来なら傀儡師本人のマナを込めながら傀儡人形を作らないとダメらしいんだけど、先生はお前の能力の向上を
目的としてわざわざお前のマナに同調するように作ったんだって。
物を作るのは得意じゃないからって、指を傷だらけにしてまで作ってた―――――――」
そこまで言ってジャックから制止されるオルフェ。
「オルフェ、それは黙ってろって先生が言ってたじゃないか。
あくまでお前からのプレゼントってことにしろって、先生が・・・っ!」
「あぁ、そうだっけ? まぁ別にどうだっていいだろ、誰が渡しても結局は同じ『物』なんだし。」
するとフィアナはさっきまで愛でていた人形を床に叩きつけると、声を荒らげ号泣した。
「こんなもの、いらないっ!」
慌ててジャックはフィアナに歩み寄ると宥めるように背中をさすったりハンカチを差し出そうとするが、それを全て拒絶してフィアナは更に大声を上げて泣きじゃくった。オルフェはそんな妹の姿を目にしても全く心を動かすことなく溜め息をつきながら床に転がった人形を拾い上げると、人形の頭を引きちぎってフィアナの足元に投げ捨てる。
それを見たフィアナは一瞬泣き止み、ショックを受けたように首と胴体が引きちぎられた人形をただ黙って見つめていた。ジャックもその行動にはさすがに驚いたのか、絶句したままフィアナとオルフェを交互に見つめる。
「こんな物、いらないんだろう? なんだったらこのまま燃やしてやろうか。」
そう言ってオルフェが右手をかざすと小さい炎が現れて、人形の方へと狙いを定める。それを見たフィアナは無意識に足元に転がっている人形を拾い上げると、オルフェから隠すように―――――――かばうように抱き締めた。
「―――――――お兄様なんか大っ嫌い!」
胸が苦しくなりながらもフィアナはありったけの怒りを、生まれて初めて尊敬してやまなかった兄オルフェに向かって言い放った。そのままフィアナは駆けるように部屋から出て行くと、行く当てもないままひたすら走った。
どれ位走ったのかわからない、でも息が切れてこれ以上もう走れないという位まで走ったフィアナは、随分屋敷から遠く離れた場所にまで来てしまったと思っていたが―――――――子供の足で駆けても、さほど屋敷から距離が離れた場所まで行けたわけではなかった。
周囲を見渡すと規則的に植えられた木々の間でフィアナはそのまま大木の根元に座り込むと、無残にも引きちぎられた人形を見つめながらオルフェに言われた言葉を頭の中で繰り返した。
(ただの『物』―――――――、ただの・・・)
―――――――そう、これはただの『物』なんだ。
フィアナの部屋にたくさんあるぬいぐるみと同じ、姿形が違うだけでただの『物』であることに変わりはない。そしてフィアナはなんとなしに指先から魔力の糸を紡ぎ出して人形にはわせると、ぎこちない動きをしながら地面の上を歩かせた。
こうして糸で操れば他のぬいぐるみと何も変わらないと言うことが証明される、意思も何もない・・・ただフィアナに操られるだけの存在、―――――――ちっぽけな存在だ。
師であるユリアが死んでからというもの、14歳になった兄はすっかり変わってしまった。自らレムグランド国の軍人に志願しそこで魔法科学の研究員として入隊する。軍内部で研究されている内容とは別に、オルフェは個人的な研究も並行して行なっていた。
軍人となってもユリアと共に進めていた研究だけは、やめることはない。
実験に必要な魔物を狩りに町の外へ出て、フィアナが傀儡の能力で魔物を捕縛した後にオルフェの魔術で完全に息の根を止める。もしくは傀儡の能力で魔物の自由を拘束し、生きたまま実験に用いる。そんなことを繰り返していたのに、ユリアが死んでからオルフェは実験の為だけに生物を殺すことをやめてしまったのだ。
魔物を狩ればそれを使って生物実験が出来る兄の役に立てる、魔物を狩りに行く時だけ兄は自分と一緒に行動してくれる。それだけがオルフェとの繋がりだと思っていた。
しかし魔物狩りをやめてしまえばその繋がりがなくなってしまう、兄との距離がまた開いて行ってしまう。
フィアナに不安が増した。
―――――――だから思いついてしまった、『自分自身を実験材料にする』ということに。
兄がユリアとどんな研究をしていたのか、フィアナは知らない。しかしオルフェはその研究が実を結ぶことを心から望んでいた。そうすることでユリアに対する贖罪が出来ると、そう信じていたのだ。
自分から兄の関心を全て奪ったユリアのことが、フィアナは大嫌いであった。しかし兄が喜んでくれるならフィアナは何でもしてやりたいと心から願っていた。それで兄が自分の方に振り向いてくれるなら、関心を持ってくれるなら、愛を得られるならどんなことをしてでも叶えてやりたいと切に思っていた。
オルフェは何度も無機物による実験を繰り返し、ようやく成功率が安定してきたとミラに話していたのを聞いていた。そしてフィアナも無機物実験をしている場面を何度も見て来たので、どうやって実験を行なうのかその過程がしっかり頭に入っていたのでオルフェがやっていたことと全く同じ手順で、フィアナは自ら人体実験を行なった。
―――――――そして・・・。
激しい痛み、生きたまま全身が炎に焼かれるような感覚、動悸は激しくなり呼吸困難に陥る。
すぐ近くで誰かが自分の名前を叫んでいるのが微かに聞こえてくるが、それに応える余裕などフィアナにはなかった。
「ああああああああああああああっっ! たす・・・け・・・うあああああああああああああああっっ!」
ただ激痛と混乱によって絶叫し、のたうち回るしか出来ないフィアナは両手の爪で自分の胸元や首筋、腕などを何度も引っ掻き爪で抉り―――――――爪の間には血と肉がこびりついていた。
「オルフェ―――――――、どうしようっ! このままじゃフィアナが・・・っ、フィアナの体は!」
激しく床の上でのたうち回っているフィアナに癒しの魔法をかけようとするが、余りの暴れように近付くことが出来ず涙ながらに訴えるミラ。それを見ていたジャックがフィアナの体を押さえつけて無理矢理回復魔法をかけさせようとするが、それをオルフェが制止した―――――――睨みつけるジャック。
「何でだオルフェ! このままじゃ本当に死んでしまうぞっ!」
「いえ、これは肉体の分離による拒絶反応です。
もしこの状態で回復魔法をかけようものなら、全身を巡るマナの乖離が進んで完全に消滅してしまいます。」
「じゃあどうしろって言うんだ、このまま彼女が苦しんでいるのを黙って見ていろって言うのかっ!!」
ジャックは殆ど殴りかかって行きそうな勢いでオルフェに食ってかかった、しかしオルフェはそれでもなおフィアナのことよりむしろこの状態の結末を期待しているかのような態度で、ずっと装置に向かってデータの打ち込みをしていた。そんなオルフェの姿に愕然としているミラはジャックと目で合図し、研究室から出て行こうとした。
「どこへ行こうというんです。」
目ざとくジャック達の行動を把握していたオルフェが威嚇するような口調で止めた、ミラもジャックも―――――――一瞥するような眼差しでそっけなく答える。
「ゲダックを呼んで来るんだ、あの人ならこういった状況に的確に対応する術を持っているだろうからな。」
「彼ならもうこのレムグランドにはいませんよ。」
「それなら探しまくるだけだっ! このまま黙って放置出来るわけないだろうが、お前はこれを見て何も感じないのかっ!?
フィアナはお前の妹だろう、―――――――本当に何も感じないのか・・・?」
少しだけ間が空き、それからオルフェの眼鏡が装置から発せられるランプの明かりに照らされて怪しく光る。
「この実験に成功すれば―――――――双つ星を人工的に作れるということが証明され」
最後まで言わせずジャックが殴り飛ばした、元々身体能力の面からジャックに敵うはずもないオルフェはそのまま床に倒れ込み切った口元を袖で拭き取る。
ジャックは悲しみと怒りの入り混じった表情を浮かべながら、息を切らしてオルフェを見据えていた。ジャックがオルフェを殴ったのはこれが初めてだった、しかしそれでもオルフェはやめようとしない。
「先生の仮説が正しいものだったと証明されれば世界の在り方を変えることが可能になる、その為の実験だった。
そしてその実験を行なう為にはどうしても人体実験をする必要があった、―――――――今の僕では他の人間を実験に
使用するなんて出来ない。―――――――先生と約束したから。
いつかは自分で実験するつもりだった、でもそれをフィアナが肩代わりしてくれたんだ・・・僕の為にね。」
「・・・オルフェ。」
オルフェはゆっくり立ち上がると視線を真っ直ぐと―――――――、親友であるジャックへと注ぐ。その瞳には強い意志が込められていた。決して曲げることのない強い信念が。
「だから実験は続ける、失敗しようと成功しようと・・・どのみちフィアナに訪れるのは『死』だけなんだから。」
「―――――――っ!」
その言葉を聞いてジャックは更に動揺する。
しかしそれはミラも承知していたのか―――――――黙ったまま辛そうにうつむいていた。
「双つ星は一度消滅してから再生する、つまり人としての死を迎えてから新たに生まれ変わるんだ。
先生が自分のせいで死なせてしまったという『ヴェルグ』という名の戦士の魂―――――――、彼を双つ星として
転生させる為に・・・先生は残りの人生全てを賭けてでも、双つ星を生み出そうと必死になっていた。
僕はそれを叶える義務がある、いや―――――――僕自身が望んでいることでもある。
このままフィアナのマナが完全に乖離して消滅するのが先か、それともマナの再生に成功して人としての死を
迎えた後に生まれ変わるか―――――――僕達は見守ることしか出来ない。」
オルフェの強い意志を聞いたジャックは握り締めていた拳の力を解いて、心許ない口調で訊ねた。
「もし―――――――、もし失敗したら・・・?」
「実験が失敗したら、その時は―――――――。」
闇のオーラによって憎しみが更に膨れ上がり、フィアナは人形に全てのマナを注ぎ込んで戦いを挑んできた。外見はもはやドルチェと比較にならない程に幼く退化し、5歳位の子供になっている。蒼白になりながらフィアナが操る人形は宙を舞いドルチェのみを襲い続けた。人形の攻撃をドルチェはくまのぬいぐるみ「ベア・ブック」を操ることによって、こともなげに全て防いでいる。
そんなフィアナの状態を見たジークは舌を打ちながら呟いた。
「ちっ、闇のオーラで憎しみを増幅させても―――――――あいつ自身にもうマナが残ってないのか・・・。」
両腕を構えながら傍観者を決め込んでいるジークに攻撃を仕掛けようとするアギト、しかしジーク自身もかなりの手錬なのか両手に持った脇差でことごとく弾かれ苦戦している。ドルチェとフィアナの戦いも気になるが今はジークを叩くことで事が治まるのであればそれに越したことはないと判断し、アギトとザナハの二人でジークを相手にしていた。
いつもならば無駄な動きを一切しないオルフェ―――――――『ジークを倒すことで先に進める』という方程式が組み上がっているはずであったが、オルフェがアギト達に加勢することがなかったので思議に思ったアギトは、ふとオルフェの方へと視線を走らせる。
「フィアナ! それ以上マナを消費し続けていたら、自身の肉体が完全に消滅すると言っただろう!
お前は一体何にこだわっている、何が目的なんだ!?」
オルフェの叫びが辺り一面に響き渡った、いつも冷静沈着で滅多に声を荒らげることのないオルフェからすれば非常に珍しい行動である。フィアナがドルチェを相手に戦っている、それでもオルフェならば間に割って入ったりドルチェに加勢しても良さそうなものだったが、なぜかオルフェもミラも―――――――二人の戦いの間に割って入るようなことはしなかった。
戦いの行く末を見守るように、フィアナとドルチェ―――――――二人にしか決着をつけることが出来ない戦いとでも言うように。
―――――――お兄様、本当にわからない? あたしの欲しいものが一体何なのか、本当にわからない?
その瞬間、フィアナの黒く濁った瞳から―――――――一粒の涙が零れた。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねえええっ! 死んじゃえこの偽物おおおおおっっ!」
フィアナは何もない上空を見上げる程に興奮しながら悲鳴に近い絶叫で憎しみをぶちまけた、それがフィアナを蝕んでいた闇のオーラを更に増幅させて残りわずかだったはずのマナが急激に上昇し―――――――操っていた人形に絶大な力を与えた。
それを見たドルチェがすかさず反応し、焦燥を滲ませ叫ぶ。
「―――――――いけないっ!」
自らの生命力をマナへと変換し、殆ど暴走に近い魔力を放出したフィアナ。その魔力を注がれた人形は溢れんばかりのマナで出来たオーラを全身に纏ってドルチェが操るベア・ブックへと突進して行った。
これ以上生命力を使い続けたら本当にフィアナが死んでしまう、そう察したドルチェが取った行動―――――――それは。
フィアナの人形と交戦していたベア・ブックへの魔力の糸を断ち切り、額に角を生やした白馬・・・ユニコーンの姿をしたぬいぐるみへと持ち替えたドルチェは、その鋭い角で自分の心臓を貫いた―――――――!
「ドルチェ――――――――――――――っっ!!」