第236話 「イゾラドの丘」
―――――――――目の前には、広大な自然が広がっている。
「いい眺めだろリュート、ここからならレムグランドの自然が一気に見渡せる。
森も滝も草原も・・・見渡す限り、一面が緑豊かな自然になってるんだ。
アビスグランドでの記憶はそんなにないが・・・、これ程の自然はなかったと思う。
オレはこの場所が一番好きなんだ。」
嬉しそうにジャックが語った。
ジャックもリュートも厳しい修行のせいで衣服はボロボロ、全身青あざや擦り傷だらけになっている。
秘奥義習得の為に血の滲むような修行を始めて4週間が過ぎた頃、精神的に限界が来ていたリュートの為にとジャックは自分が気に入っている場所へと連れて来ていた。
ジャックに促され、リュートは丘の端の方まで歩み寄る。
眼下に広がる緑の木々に、クレハの滝もここからなら全てを見渡せる、そして遥か彼方に見えるのは地平線の彼方まで続く草原。
高層ビルも工場も住宅街やマンションも何もない、リュートの目の前にはありのままの自然で溢れていた。
風が心地よく頬を撫で、澄んだ空気を吸いながら深く深呼吸する。
これだけの自然を目の当たりにすると、まるで今までの厳しい修行が嘘のように感じられた。
心が洗われて苦しかった気持ちが一気に吹き飛ぶ、心地よい気持ちになって来る。
リュートの顔に笑顔が戻った、それまでは厳しい修行に耐える為にリュートの表情が常に緊張感で張り詰めていたので心から笑顔になる気持ちになれなかった。
まるで大自然からエネルギーをもらったような、そんな不思議な感覚になって来る。
胸の奥が熱くなって、この一面に広がる自然を目にしたら自分の苦しみがどれ程ちっぽけなものだったか・・・そんな風にさえ思えて来たのだ。
ようやく自然な笑みを取り戻したリュートに、ジャックもまた笑顔で語りかける。
「オレはな・・・、この世界を戦場には・・・火の海にしたくはなかったんだ。
生まれた世界はアビスグランドだが、オレはレムグランドで育ったアビス人。
・・・オレにとってはここが第二の故郷みたいなものだ。
だからこの自然を失いたくなかった・・・、この世界にはオレの大切な人達が幸せに暮らしている。
彼等の幸せを長く続かせたかったんだよ、だからオレは軍に入りアビスと戦う道を選んだ。
少なくとも・・・まだ若かったオレはそれが最善の道だと信じて疑わなかった。
それは今でも後悔してないさ、だけどだからといって自分のして来たことが何の罪にもならないなんて思っちゃいない。
守りたいものの為に多くのアビス人の命をこの手で奪って来た、その罪は変わらないからな。
それでもオレは・・・、この手で大切なものを守りたかったんだ。
この手でしか守れないって、その為の力なんだって・・・。
迷った時は、いつもここに来た。
そして自分にとって何が一番大切か、それを再確認する為にオレはここに来て自分の過ちと向き合った。
リュート、実の所・・・お前には決して間違いを犯して欲しくないってのが、オレの本音だ。
だが人は必ず壁にぶつかる、選択を迫られる、そして決断しなければならない。
その時にお前がどんな風に考えてどんな答えを出すのか、ほんの少しでもオレの言葉を心に留めて・・・
そして思い出して欲しい。
お前が大切にしたいものが何なのか、何を守る為に戦うのか、それと同時にお前のことを大切に思ってお前の為に戦ってくれる
者がいるってことを決して忘れないで欲しい。
それが・・・師匠であるオレがお前に教えられる『戦いの理念』ってやつかな。」
ジャックはリュートに向かって微笑みながら、そう教えてくれた。
これから教える技も大切なものを守る為に得る力なんだと、そう教える為に。
リュートは今、ここにいる。
最愛の師と共に約束を交わした、大切な場所・・・。
思い出の場所に・・・。
だけど、彼はもう・・・ここにはいない。
この丘でリュートに教えた理念を胸に、信念の元に・・・戦い、そして散った。
そう、自分を守る為に。
自分が弱音を吐かなければ、助けを求めなければ、もしかしたらこんな悲しい結末を迎えることはなかったのかもしれない。
そんな後悔だけがリュートの中で延々と繰り返される。
あの時に弱音を吐かなければ・・・!
あの時に助けを求めなければ・・・!
あの時にジャックの後を追いかけていれば・・・!
もしかしたらジャックを失わなかったのかもしれない、そう思うと悔しくてたまらなかった。
自分のことが憎らしくてたまらなかった、どうして自分の方が生きているのか、なぜ何事もなくこんな所でのうのうと息をしているのか、そう考えると自分が生きていることですら苛立ちが募って来る。
自分が大人しく死を受け入れていれば、こんな思いをしなくて済んだのかもしれない。
胸が苦しくなって来る。
まるで仲間から、自分が生きていることを責められているような気になって来る。
オルフェはジャックと親友同士だった、子供の頃から知っていた仲だと聞いたことがある。
彼の冷たい瞳の奥では、きっとリュートのことを責めていたに違いない。
「なぜ君の方が生きているんです?」
氷のように冷たい言葉が、リュートの胸をえぐるようだった。
たった一言でも、彼の言葉にはとてつもない重みがあった、静かな口調でもリュートに止めを指すには十分な威力がある。
オルフェと同様、ミラもジャックのことを『先輩』と呼ぶ位なのだから長い付き合いだったに違いない。
彼女は決してリュートを責めたりしなかったが、心の底ではリュートのことが憎らしくて仕方なかったはずだ。
「君がジャック先輩に助けを求めなければこんなことにはならなかったはずなのに・・・。
ミアやメイサが可哀想だわ。」
リュートのことを非難するミラの顔が目に浮かぶようである。
しかし彼女にはその言葉を発する権利がある、悪いのはリュート・・・全てリュートが悪いのだから。
自分の夫を死の淵に追いやったリュートのことを、ずっと側で励ましてきたミア。
その心中は決して穏やかではなかったはずだ、ジャックを失い・・・リュートのことを心の底から憎んでいてもおかしくない存在。
ジャックの死を聞かされた時のミアのことすらリュートの視界には入らなかった、リュートは自分の精神を保つことで精一杯で・・・他の者に気を使う余裕など全くなかった・・・。
単なる言い訳にしかならないかもしれないがそれでもリュートは、ずっと自分に気を使ってくれたミアに対し・・・何もしなかった。
いや・・・、何も出来なかった。
言われるのが怖かった、そう・・・ミアから逃げていたのだ。
「・・・どうしてあなたの代わりに、夫が死ななければいけないの?」
そう面と向かって言われるのが、怖かった。
恐ろしくてたまらなかった、だから逃げたのだ・・・全てから。
ジャックの死を受け入れたくない、回りから辛辣な言葉をかけられるのが怖い。
それはまるで、自分が生きていてはいけないのだと・・・そう責められているようだった。
自分のせいでジャックが死んだのではないと思い込みたかった、回りから非難の目を向けられるのがイヤだった。
何より・・・自分の存在自体が、この世に全く必要なかったのだと・・・そう突き付けられるのが恐ろしかった。
僕ハ・・・、タダ『ディアヴォロ』ヲ倒ス為ノ・・・道具ニ過ギナイ・・・。
自分の存在価値が、それだけしかないのだと・・・そうハッキリと言われるのが苦しくて逃げ出したのだ。
逃げて逃げて・・・逃げてばかり、現実から、真実から、仲間から。
イヤだ・・・っ!
誰か、助けて・・・。
僕のことが必要なんだって言って・・・、誰でもいい・・・。
ディアヴォロのことなんか関係ない、『僕』がこの世界に必要なんだって・・・。
嘘でもいいから、・・・『僕』は生きててもいいんだって・・・ここにいてもいいんだって・・・。
誰でもいいから・・・、お願いだから・・・っ!
「―――――――――リュートっ!!」
「――――――――――――――――――っっ!!」
咄嗟にリュートは顔を上げて、声のした方へと振り返る。
そこには黒いワンピースを着て息を荒らげたザナハが、嬉しそうな・・・泣き出しそうな顔で・・・。
リュートを見つめながら、名前を呼んだ。
今、リュートが一番会いたくない人物が・・・リュートの目の前に現れた。