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ジャスミンの涙  作者: 相原
2/4

 起きたときには忘れているような、浅い夢を見ていた気がする。

 香奈は目を覚まして、他の学生と一緒に顔を洗った。糧食の朝食を食べて、再びトラックの助手席に乗り込む。

 昨日まで助手席に座っていた男が窓から顔を出してジナに何か告げた。スラングなのか、簡略化しているのか、香奈のインドネシア語の能力では聞き取れなかった。

 四駆が発進する。トラックが動き出す前に、香奈は吐き止めを前哨基地で貰ったペットボトルの水と一緒に飲んだ。

「昨日の煙草の事は、誰にも言わないでね」

「はい、もちろん」

「よく眠れた?」

「眠れた……気がします」

 山間の道に入って、ジナはシフトノブを操作してギアを下げる。トラックを挟むような三台の四駆も、合わせてスピードを落とした。

「……今日は、おしゃべりはよした方がいいかもしれない」

「何でですか?」

 ジナは苦い表情で、黙っていた。


 休憩時間を短縮すると分隊長の乗った四駆から通達があった。

 あまり眠れていない学生たちは黙って従い、どこか血走った目の兵士はいつもに増して目を光らせている。状況をよく分かっていない香奈でも、何かがおかしい事に気づいた。

 殆ど間を置かず出発。乾期でよかったと運転するジナは思う。スコールに降られたら後ろの学生が可哀想だ。

 車列は稜線を超えて、下りに入る。どうしても輸送トラックの足並みに合わせると速度は遅くなる。

「……?」

 ジナは目を走らせた。ジャングルの奥で何かが動いた気がする――

 無線からけたたましい音が鳴りひびく。壊れたように電子音をかき鳴らし、隣の香奈は思わず身を震わせる。

 蛇行して急減速した四駆がふらりと車列を抜ける。薄く煙が上がっていて、砕けた運転席のガラスとそれにこびりつく血が見えた。

「伏せろ!」

 荷台のウィルヤが叫び、発砲する。ジナは硬直している香奈の頭を掴んで無理矢理押し下げた。

 無線が音を立てる。車の無線ではなく、個人携行の無線だ。

『敵襲! 下車して迎撃! 学生を守れ!』

 このまま走った方が安全じゃないのか――いや、そこまで読んでいて今度は道を塞いでいるかもしれない。|捕捉されたとしたら稜線を超えた瞬間だ《、、、、、、、、、、、、、、、、、、》。相手がどこまで本気でこちらを狙っているのか――今の状態では何とも言えない。

 ジナは舌打ちして大きくハンドルを切った。林の中に突っ込んで学生達が悲鳴を上げるが今は無視。トラックを敵の目から隠した。気休めかも知れないが、道路に晒して置くよりはマシだろう。

「ここで伏せてじっとしてて」

 早口でジナはそう香奈に告げて、トラックから滑り降りた。野戦の基本。とにかく姿勢を低くすること――転がるように匍匐の体勢になり、そのまま地を這う蛇のように前進。

 この辺りは完全に原生林と言っていい。巨木を見つけてジナはそれを遮蔽物にして、膝立ちの体勢になる。ファルカタ、と呼ばれるジャワ島に多い、丈夫な材木としても使われる木だ。遮蔽物として申し分ない。

 一瞬、茂みの奥に何か動いたものを見た。ジナはSS-1自動小銃を単発で撃つ。手応えはない。

 兵士が四駆のルーフに汎用機関銃を据えて、薙ぎ払うような連射。

 素人は実弾が遮蔽物に命中すると驚いて飛び出してくる事がある。遮蔽物を信用できないから、信用するだけの知識がないから、そうなる。ジナは倒木の影から飛び出した男の背中に照準を合わせ、撃った。

 着弾の衝撃は殆どなかった。そのまま、ただ力が抜けたかのように男が崩れ落ちる。

 ――熱くなってるな、私。

 ジナは深追いせずに、すぐ身を隠す。背中越しに巨木に命中する弾丸の衝撃を感覚する。危ないところだった、とジナは思った。

 汎用機関銃が吠える。排出されたベルトリンクと空薬莢が四駆のルーフに当たって金属音を奏でる。

 ウィルヤが一瞬だけ片膝立ちの体勢になって引き金を絞った。叫び声が不自然に途切れる。ジナはウィルヤを援護するために連発に切り替えて銃口を振るようにして弾丸を撒く。

 巨大な火炎が一瞬だけ新緑の林に浮いた。ロケットランチャーの発射だ。風切り音と共に飛来したロケット弾が四駆を掠めて林の奥に突入し、木の幹に命中して炸裂。

 兵士の銃撃がロケットランシャーの発射地点に集中した。ジナもそこに銃撃を加える。

 すぐに銃口を下げて、視野を広く保つ。サーチ&アセス、という。銃撃先に意識をとらわれすぎないようにする――意識では分かっていても、難しい。

 反撃の発砲音。どこか精細さを欠いている、とジナは思った。

『追撃は控えろ』

 ジナはその場で逃げていく気配に向けて数発撃った。

「……」

 静寂が戻る。何か聞こえると思ったら、学生たちが鼻をすする音だった。声も出ないのだろう。

 分隊長が斥候を送り、どうやら撤退したことが分かった。手負いになったゲリラは自暴自棄で来るだろう。追撃は好ましくない。

「ウィルヤ、学生達を」

「分かってる」

 ジナは最初に蛇行して、今は何とか停車している四駆に歩み寄った。なぜか、焦げた肉の臭いがした。

「……」

 運転席のドアを貫通した不発の対戦車ロケット弾が、運転手の兵士の脇腹に突き刺さっている。ロケットランチャーは多分RPG-7かその中国製コピーの六九式だな、と分析した。弾種は対戦車用のPV-7。この手のロケットランチャーの弾頭は戦車や装甲車といった装甲が厚くて質量のある標的を撃つために作られている。装甲の薄い四駆のドアでは起爆せず、ぞのまま貫通して兵士の肉体で止まった。起爆していたら全員死んでいた。不幸中の幸いだ。

 まだ濡れた血がシフトノブと車内の無線機にこびりついていた。

「状況はまだ終わっていない」

 分隊長は手早く指示を飛ばす。遺体から慎重に弾頭を抜いて林の中に捨てるのだ。四駆はドアを破られているだけで油圧やエンジンはまだ生きている。遺体をトランクに移す。ひどい匂いだろうが、まだ走れる。少しだけ時間が出来て香奈の事が心配になった。

 アドレナリンが切れない。ジナは不快な興奮を自覚する。人を殺したという手応えが、腕に沁みている。引き金を絞った右手の人差し指が、まだ痙攣している。

 運転席によじ登ると、まだ香奈が身を沈めていた。声もなく泣いている。呼吸に合わせて上下する背中を、ジナは優しく撫でてやった。

 香奈の顔を見てジナの理性が警告した。|それは自分の子供に対しての愛情だ《、、、、、、、、、、、、、、、、》。兵士としても不適切だ。人間としても不適切だ。この子には親がいる。それを横取りしてはならない。分隊長を裏切るのか――

「わたしがこの国に来なかったら、皆死なずに済んだんじゃないですか」

 ジナは黙ったまま、香奈を抱いた。子供のように泣きじゃくる香奈がジナの体にしがみつく。ジナは何か声をかけようと思ったが、諦めて口をつぐんだ。今何か言っても、香奈を傷づける気がした。

 ――私がもっと強かったら良かったのにな。


 内戦で軍規の乱れたインドネシア陸軍でも、もうジナの我が儘は通用しなかった。香奈にヒジャブをかぶせ、荷台に移す。非装甲車両のトラックでは助手席でも荷台でも生存確率は殆ど変わらないが、万が一ジナたちが壊滅してちりぢりになって逃げるとき、イスラム教徒だと誤認させやすくするためだ。吐こうが何だろうが、香奈を生きて返さなければ今回の作戦は失敗になる。

「やばいことになってる」

 舌打ち混じりにウィルヤが告げた。「四駆の一台のタイヤに銃弾が突き刺さってる」

「走れるの?」

「今はな。軍用のスタッドレスタイヤだ。だが長くは持たない。危険は承知で夜通し走ることになった。学生達にも無理を強いるが、これ以上の戦闘には堪えられないだろう。俺たちはともかく、車も、学生も」

 ウィルヤは煙草を咥えて火を付けたが、ジナは何も言わなかった。「二日走れば、ジャカルタには着く。政府がようやく内戦状態だと認めたおかげでPKOのマレーシア軍とシンガポール軍が航空機を飛ばしている。その圏内までたどり着けば俺たちの勝ちだ」

 車列はかなり飛ばしていた。運転席はともかく、後ろは大変だろう。軍用車両は極端にサスペンションが固いから、乗り心地は悪い。この人数を運ぶには仕方なかったとは言え、ジナは香奈の事が気になってしまう。

 ――だめだなあ、私。


 ウィルヤはジナの事を分かっていた。努めて下らない話題を振り、ジナは軍規違反を承知で煙草を吸った。どうせ予備役なのだ。もしこの程度の事で不名誉除隊になっても、別にジナの人生設計に変わりはない。バイクタクシーの運転手か、飲食店の店員に戻るだけだ。

 八時間運転して、一瞬だけ止まって運転手を交代する。助手席に座ると急に疲れが出てきた。アドレナリンが切れて、瞼が重い。

 ちらりと後ろを振り返ると、荷台と運転席を隔てる小さな窓越しに香奈と目が合った。泣き疲れて充血した目と、死んだような表情。

 三二歳にしてジナは今更大人とは何かを理解した気がした。家族、とりわけ年上に敬意を払うインドネシアにいても、ジナはちっとも大人の役割を理解していなかった。それは|子供を安心させるために無理をして笑うこと《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》。

 小さな窓を開けて、荷台に向かって叫んだ。明るい口調を心がけた。

「皆大丈夫? あとちょっとだからね。どうしてもトイレに行きたくなったら私に言ってね」

 小さな声が返ってくる。香奈が窓に顔を寄せた。

「トイレとか大丈夫?」

「大丈夫、です」

 ジナは考える。こんな時どんな話をすればいいのか。まさかウィルヤみたいに分隊長の女事情なんて話すわけにはいかない。

「……私ね、夢があるんだ」

 ウィルヤの手が胸ポケットの煙草に伸びて――やっぱり、元のハンドルに戻した。

「私、韓流ドラマが好きでさ、韓国で整形したいんだ。それにテコンドーの黒帯も欲しい。今は四級の青帯なんだけど、黒帯を取って、それをネタに韓国の男優を結婚するの」

 香奈が控えめに笑った。「すごい、格闘技出来るんですね」

「香奈もやればいいのに。格闘技楽しいよ」

「……日本に帰ったら、やってみます」

「寝たら分隊長に怒られるから、ちょっとおしゃべりに付き合ってね」

 笑顔が可愛い日本人だ、とジナは思った。良い家庭を持てるだろう。

「分かりました……そっちの男性は、なんていうんですか?」

「ウィルヤ」

 ウィルヤは片手をハンドルから上げて、親指を立てて見せた。

「スシー、カラテー、ナルトー、アー……スモーレスラー!」

 ジナも少し笑った。少しは英語も出来るのに、全く喋れないという体で行くようだ。香奈の表情に少し余裕が出てきてジナは安心した。

 後ろの荷台では学生達が眠りこけている。緊張も度が過ぎれば疲れ果てて眠る。香奈がそうではないのは、多分まだ現実味が湧かないからだ。あるいはショックが大きすぎたのかもしれない。

「後ろの子達は、皆寝てる?」

「はい。すごいですね、皆酔わないし」

「インドネシアの高速道路はすごいよ。アスファルトがべこべこなのに、すごい飛ばすんだ。いつもは割り込んでくるバイクがいないから、めちゃめちゃに速いのにすごい揺れる。まあ、軍隊の車は皆すごい揺れるけどね」

 香奈が不思議そうな顔をした。「そういえば、ジナはいつから軍隊にいるんですか?」

「私は予備役だよ。パートタイマーみたいなもの。内戦が始まって呼び出されたの。普段は……色々やってる。バイクタクシーの運転手とか、食堂の店員とか」

 香奈が眠くなるまで、ずっと下らない話をした。インドネシア陸軍のジョーク。分隊長の噂。日本の流行っている物。

 もっと大切な話をしたかった。人が死んだのはあなたのせいじゃないと言いたかったのに、言えなかった。現実から逃避しているのは香奈もジナも同じだった。外が明るくなってきた頃ようやく香奈は荷台に戻って眠った。

「……お前はあの子の事を特別扱いしすぎだ」

「分かってるよ」

 ジナは煙草を咥えた。どこかで香奈を自分に重ねている。程度の差があっても、同じような背景を持っている。農家の六人兄妹の下から二番目のジナは、香奈とは違う理由でも十分な教育を与えられなかった。

 他のインドネシア人の学生に対して不公平だと、自分でも思う。作戦の最優先目標はカナ・カンザキだ、という反論もあるが、自分が行きすぎていることを自覚している。

 三二歳のジナ。普通のインドネシア人だったらとっくに結婚して子供もいるだろう。ジナは独り身だ。無宗教がどうこう、というより根本的に一人が好きだった――

 ――違うな、とジナは思った。

 多分自分は家庭を持つ自信がないのだ。どこかで普通になるには足りない『何か』がある。『何か』が欠落しているのは自覚しているが、それが何なのかは分からない。その『何か』が埋まれば、結婚も出産も出来るのだろう。

 その『何か』を飛ばして『普通』にしてくれたのが、香奈なのだ。

 香奈には香奈の人生がある。どんな親でも、親は親だ。ジナは香奈の親にはなれない。

「……こうなったら本気でテコンドーの黒帯目指すかな」

「いいんじゃないか。陸軍出身なんてのは、噛ませ犬にしては上出来だ」

 ふんとジナは鼻を鳴らした。


 香奈は夢を見ていた。

 香奈は一人でトラックの荷台で眠っている。突然銃撃を浴びて飛び起きる。昨日襲撃された時も、全く同じことを考えていた。木材と黒金の銃。兵士達を撃ち抜いて、特大の針のような銃剣がジナの胸に突き刺さる。

 ジナは血の涙を流しながら崩れ落ちて、周りには一緒に過ごした現地の学生の死体が転がっている。組み伏せられて、跪かされて、スマートフォンのカメラのレンズを向けられる。

 男達は嬲るように銃剣を首に沿わせる。夢の中だ、夢の中だ。早く目が覚めてくれと思うのに、体が動かない。

 銃の引き金が引かれる。弾芯が頭にめり込んでいく感覚を、鮮明に感じる。硬膜、軟膜、くも膜を破った弾丸が、香奈の大脳をかき回す。歪んでいく視界と、明滅する記憶。

 ――あんたなんて中卒で働けばいいんだ。

 母親の言葉。

 ――一度言われたことが出来ないのは動物と同じだ。

 父親の言葉。

 ――あなたのせいで、私たちは死んだんだ。

 誰かの言葉。言葉になることさえ許されなかった言葉。


「大丈夫?」

 友達に揺さぶられて、香奈は目覚めた。嫌な汗をかいていて、ずっと着替えていない血のこびりついた制服が気持ち悪かった。

「うん、大丈夫……ごめんね」

 香奈は慌てて取り繕った。自分はお客様(、、、)として高校で扱われていることは、ある程度自覚していた。今はお荷物(、、、)だ。これ以上心配をかけさせる訳には、いかない。

「休憩だって。トイレとご飯。危ないところは、抜けたみたい」

 何時間兵士達は走り通しだったのか――胸が痛くなる。自分なんかのために大勢が苦労して、人が死んで、それから――

 悪夢が蘇ってくる。トラックを降りて、ジナの姿を探した。ウィルヤと何か話し込んでいる。邪魔する訳にはいかない。兵士なのだ。

 食欲はなかった。食べた方が良いと分かっていても、手が伸びない。心配されるのも申し訳ない。いたたまれなくなって、トイレを口実に皆の元から離れた。

「……?」

 無意識に、手がポケットに伸びた。――あのときから入れっぱなしの、カッターナイフ。

 ごくりと唾を飲んだ。

 ジナは、切っちゃダメとは言ってなかった、はずだ。

 ジナに頼り切りでは、いけないんだ。

 ジナに甘えてちゃ、ダメだ。

 木の陰に隠れて、深呼吸をした。カッターの刃を出して――手首ではなく、袖を捲って腕に添えた。

 切っ先で、ひっかくように。刃の先を見るのが怖くて、顔を外に向けて、ただ手を動かした。

 冷たい金属が食い込む感覚、そのすぐ後に鋭い痛みがやってきた。傷を見ると、わずかな細い線が白い腕に浮いていた。

 ぽつぽつと、赤い雫が出来ていく。傷からしみ出すわずかな血が、小さな血の粒を作っていく。

 ――やってしまった。

 心の傷は心だけの傷に、といっていた事を今更思い出した。自分の都合良い記憶だけをクローズアップして、切ってしまった。ジナが見せてくれた自分の自傷跡が、目に浮かんだ。

 罪悪感より、申し訳なさより、この傷では浅すぎる(、、、、)という言葉が浮かんだ。

 ――もっと深く切らなきゃ、いけない、気がする。

 そんなのはおかしいと言っている自分もいる。ジナがダメって言ってたと叫ぶ自分もいる。なぜだか分からないけれど涙があふれてくる。

 自分のすぐ隣で撃ち殺された友達。襲撃で死んだ兵士。足りない(、、、、)。この傷では足りない。

 刃を長く出して、沿わせるように。軽く押し込んでみて、これで本当に切れるのか不安になった。これで贖罪になるのか(、、、、、、、、、、)

 どうにでもなれという気持ちで、瞼を固く閉じて刃を引いた。

「……」

 遠くで話している女子学生の声が聞こえた。自分の呼吸、自分の鼓動。少なくとも二人の人間を死に追いやる原因になった自分の鼓動。

 腕に割れ目のような傷跡が出来ている。赤黒くて、すぐに血が垂れてきた。右手の指先でそれを掬った。なぜかそれが他人の物であるかのように感じる。

 しばらく、それを見つめていた。煙草を吸ったときのように、心の中が穏やかだった。

「おい、蛇が出るから危ないぞ」

 インドネシア語の声が聞こえて香奈は飛び上がりそうな程驚いた。

 ウィルヤ。目を丸くして、腕の傷と香奈の顔を代わる代わる見た。

「……小便が済んだなら、飯を食ってこい」

 香奈は後悔する。今更、遅い。

 ――大変なことになってしまった。


 あ、これは腕切ったんだな、とジナは思った。

 助手席にジナが移動して車列が発進。後ろに向かって学生たちに声をかけた時、不自然に香奈は顔を逸らせた。どうしたんだろうと思って話しかけたら、やけにこちらに話を振ってくる。なんだか、実家にいた頃一番下の弟が悪いことをして隠そうとしているときにそっくりなのだ。日本人はわかりやすいんだな、とジナは思う。

 ジナは自分が初めて腕を切った時を思い出した。バイクタクシーの運転手仲間はどうしたんだと心配してくれた。親には怒られた。自分はおそらく香奈の中ではどちらでもない。気づかないふりをするのがいいのか。あるいは、優しく話すのがいいのか。いや、どこまで優しく話しても、絶対に叱られたと思うだろう――ジナはずっと考えていた。

 ――あなたは何も悪くないのに。


 困った、とウィルヤは考えていた。

 運転には慣れている。前の四駆を追いかけるだけでいいなら楽な物だ。そんなことより香奈の自傷を見たことの方が気がかりだった。

 そういう人がいる、ということはなんとなく知っていた。インターネットのおかげだ。しかしウィルヤは女に振られても中学校で怒られても、煙草でやり過ごしてきた。その気持ちはさっぱり分からない。

 わざわざ自分の腕を切って、何になる? ジナと香奈の会話を聞きながら、ウィルヤは首を傾げる。痛いだけじゃないか。ジナが自傷していたことは何かの拍子に聞いた気がするが、無神論者の変わり者だからと深く考えたことはなかった。

 ジナに相談した方が良いだろうか。いや、この子娘はある程度インドネシア語が出来るらしい。ジャワ語なら分からないだろうか? この女は放浪していたからジャワ語も出来るかも知れない。

 ウィルヤの脳内で最悪の想定。カッターナイフで首を掻ききってこの日本人が死ぬ。それはまずい。だからといってジナにそれを話すのは、まるで母親が子供に言い聞かせるのを促しているようじゃないか――これ以上この奇妙な 関係を続けさせるのは、良いことだとは思えない。

 夜通し走ったおかげで今日の夜か、明け方にはジャカルタ付近の勢力圏までには到達しそうだ。――そこまでの時間で自殺するほどエスカレートするか?

 ウィルヤは息を吐き出した。

 ――なんだかなあ。


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