上
香奈は初めて銃声を聞いた。
自分のすぐ隣には現地の高校生が立たされていた。肌が浅黒くて、少しエラが張っていて、それでも笑顔が可愛い女の子だった。名前はリアニ。いつも薄紫のヒジャブ(ムスリムの女性が頭から被る布)を被っていた。
目をつむっていた。恐ろしかった。頭がおかしくなりそうな恐怖の中で、銃声とその噴煙の匂いが香奈の鼻孔をくすぐった。雷管の爆粉が燃えた匂いだ。アジ化鉛とトリニトロレゾルシン鉛。香奈にはその匂いが鼻の奥までこびりついているかのように感じた。
すぐに、血の匂いが鼻粘膜に突き刺さる。それから炸裂したように飛び出した脳梁の、生魚の臓腑を彷彿とさせる匂いだ。大脳と小脳のカクテル。ぽたぽたとそれが落ちる音が、銃声で馬鹿になった耳の奥で聞こえた気がした。
香奈は薄目を開けた。別の男が持ったスマートフォンのカメラのレンズが冷たくこちらに向けられている。体が震えている。叫びたい。泣きたい。それなのに体が言うことを利いてくれない。隣に立った若い男が持つ木材と黒金の自動小銃が目に焼き付いた。銃口付近に取り付けられた銃剣は、剣というより槍のようだった。特大の針。香奈は思わずそれが胸に突き立てられた自分を想像する。
嬲るように、そっとその銃剣が首に添えられた。何か風の抜ける音がする。自分の喉からだ。ひゅーひゅーとか細い呼吸の音。
すっとその切っ先を滑らせると、針の切っ先が浅く首を切った。極度の緊張のせいで痛みはない。ただ金属が自分の肌を薄く切り込んでいく冷たい感覚だけがした。動脈までは届かない、完全に相手の怯えを愉しみだけの斬りつけ方。その状況を撮影してどこかに配信しようとしているのだと、嫌でも分かった。自分の血が、ひどく冷たく感じた。現地の高校の制服の襟元を血が少し汚した。
香奈の喉からは、もう声も出ない。ただ浅い小さい呼吸の音と早い鼓動だけが、自分の中で響いていた。
香奈は思う。ここはムスリムの国だけれど――なんでもいい。神様。わたしが何か悪いことをしましたか? どうしてこんな目に遭わないといけないんですか――
正直、気の進まない狙撃だ。
ジナ・バトゥバラはインドネシア陸軍では珍しい女性兵士だ。匍匐の体勢で二脚を立てた狙撃銃を構えている。インドネシア国産、Pindad社製SPR-3狙撃銃。7.62x51NATO弾が弾倉には一〇発。ボルトアクション手動排莢式。
インドネシア国産のスコープの品質はそこそこだ。だが、一昔前にインドネシア国軍で流行っていたソ連製に比べればよっぽど良くなったと先輩はいう。やや辺縁が歪んでいる視界は、自分の経験でカバーする。
ジナが一番気に入らないのは弾丸だ。本当ならもっと精度のいい狙撃銃はあるのに、汎用機関銃と銃弾を共有できる、という理由だけでこの狙撃銃が選ばれた。狙撃は緻密な作業だ。一発の銃弾を放つだけで、銃身が汚れて次の弾丸の弾着は揺らぐ。一応弾道特性を示したカードは作ってきたが、それでもマッチグレード(狙撃用に最適化された弾丸)に比べれば、精度は落ちる。バラで入っている弾薬箱の機関銃用の弾丸は、弾頭が微妙に傷ついて弾道が逸れる。
反乱軍の男が日本人女子留学生の隣にいた現地のインドネシア女性学生を撃ち抜いた。可哀想だが、分隊はまだ位置に付いていないから仕方なかった――そう思いたかった。ジナは発砲と銃声の間隔で、相手までの距離の概算を図る。二〇〇メートルちょっと。
ひょっとしたらこの救出作戦で一番リスキーなのは今この瞬間かも知れない。ジナは思う。雨が降っていないのが幸いだ。湿気は銃弾を引っ張る。微かな横風、距離、それから温度まではジナの慣れた環境だ。あとは、弾丸だけ。
「距離二〇六メートル。微風。0.4m/sが二時方向から」
観測手のウィルヤが告げる。ジナが照準を調整。
反乱軍の男は嬲るように銃剣で日本人女子高生の首をなぞる。男が持っているのは中国製五六式ライフル。ロシア製AK47のコピーモデルだ。切っ先には特大の針のようなスパイク式の銃剣。難しい状況だ。この状態で発砲すると弾着時の筋反射で引き金を引いてしまう場合がある。
となると狙うのは脳幹かその周辺。筋反射が起きないところ――延髄から脳への接続部。軍の狙撃手は下腹を主に狙うから、今回の狙撃はかなりシビアなものになる――
『位置に付いた』
分隊の仲間から連絡。狙撃を迷っている時間はない。
こんな時ジナは自分がムスリムであることを捨てた事を後悔したくなる。祈る神がいないのだ。――アッラー、ブッダ、主、なんでもいいから、人を救いたいだけなんだ。手を貸してくれ。
低い銃声だった。叫んだら殺されると思ってつぐんでいた口から、「ひぐっ」と情けない声が出た。
目は固く閉じたまま――鼓動の音が聞こえた。続いていた。
――まだ、生きてる?
安堵感で腰が抜けた。力が抜けて前のめりに倒れて――凄まじい弾丸の嵐がジャングルから飛んできた。周りにいた反乱軍の男達の銃声に思わず耳を塞いだ。涙があふれてくる。気が狂いそうな程の銃声。インドネシア語の叫び声、スラング、悲鳴。
どれだけの間そうしていたのか分からない。香奈はしばらく経ってようやく、自分の背中を叩く手に気づいた。
顔を上げると髭面の男が笑っていた。インドネシア国軍の迷彩服。自衛隊のお祭りで見た自衛官の迷彩と比べて、なんだか鮮やかに香奈は感じた。
「救出が間に合って良かった。カナ・カンザキ。私たちは貴方を助けるためにここに来た。日本人留学生の救出。君が助かって、本当に良かった」
生き残りの女子学生は一度襲撃された高校の教室に集められた。かつてはここに監禁されていたが、反乱軍はもういない。生々しい血痕が残っている。インドネシアは公立高校は男女別学が多い。
香奈も一緒だ。首の傷からの出血はすぐに止まった。
「静粛に。あまり時間がないから簡潔に言う。我々はここボゴールからジャカルタを目指す。反乱軍の一部には航空機も配備されているらしい。ヘリで一瞬とはいかないし、途中に襲撃を受ける危険性もある。偽装したトラックの乗り心地は悪いだろうが、理解して欲しい」
インドネシア検定を取っておいてよかった、と香奈は思った。あるいはこの分隊長は香奈にも分かるように簡単なインドネシア語で喋ってくれているのかもしれない。
「二〇分後、出発する。今すぐ急いで荷物をまとめてくれ。トイレを済ませて、用の済んだ者からトラックに乗車」
狙撃手はある程度の自由が許される。人材として貴重である事と、狙撃手は変わり者が多いからだ。米軍の影響を受けたインドネシア陸軍では狙撃手を教育するためのマニュアルまであるという。
ジナは歩哨の任を免れて、煙草を吸っていた。本来ムスリムの女性は煙草を吸うことは許されないが、インドネシアでは希少価値さえある無宗教は別だ。大量に買ってベストの隙間に詰め込んできたガラム・シグネチャー。ジナはインドネシアに世界に誇れる物はあまりないと思っていた。強いて言うならアブラヤシの生産量くらい。しかし煙草は旨い。インドネシアは世界に煙草を誇るべきだとジナは思う。
「気にくわねえ」
隣で煙草を咥えていた観測手のウィルヤが呟いた。
「なにが?」
「日本という国がだ。てめえの国の国民くらい、自分で助けろってんだ」
「内戦が始まっても、在留邦人を見殺しにする国も多いよ。日本はまだまともだと思う」
ジナは煙草の先に伸びた灰を落として、ブーツで踏みにじった。
「もし本気で助ける気があるなら、特殊部隊でも寄越すだろう。国軍も国軍だ。別に死んでも良いけれど、生きていたら運が良い、くらいの気持ちだろうさ。クソッタレが」
ウィルヤが唾を吐く。確かウィルヤも内戦が始まって呼び戻された予備役だ。
「いちいち文句を言ってても始まらないよ、ウィルヤ」
「お前は日本が好きか?」
「別に好きでも嫌いでもない。韓流ドラマが好きだから韓国の方が好きかな」
「俺もだ」
煙草を地面に捨てて、ブーツで火を消す。喫煙所代わりの物陰から出て、車に向かって歩く。
がちゃがちゃと銃が擦れる。狙撃手が狙撃に専念できる程の余裕はインドネシア陸軍にはない。狙撃用のSPR-3に、歩兵が使うPindad社製SS-1自動小銃。ベルギー製FNC自動小銃のコピーだ。どちらも長銃身。
近年の軍隊では短いライフルが流行っている。インドネシアでは、そうではない。先進国では十二分な航空支援が受けられるが、発展途上国はそうもいかない。インドネシアは国土の割に領海が広く、航空機は慢性的に足りていない。自然、遠くの敵は原始的に銃弾で撃ち倒すしかない。短い銃身では遠距離射撃の精度が落ちるからだ。
車は全部で四台。軍用の四輪駆動車が三台と、女子学生達を輸送するための大型の輸送トラック。
ジナはこの分隊唯一の女性だ。学生を安心させるために、輸送トラックの運転手を買って出た。足下にはSS-1自動小銃。助手席にはウィルヤ。
ジナは後ろに向かって叫んだ。
「荷物で色々圧迫されてると思うけれど、我慢してね。もう少しで安全なところに着くから。きっと家族も逃げ延びてるよ、大丈夫」
ウィルヤは何かを言いたそうにしたが、口をつぐんだ。先頭の四駆が発進したので、ジナはシフトノブを操作して発進させる。大型輸送トラックの重い挙動になんだか慣れない。
さめざめと泣く女子学生の声が、少し居心地が悪かった。道路の状況も悪い。ジナは気を利かせてトイレに行きたい者はいないか、具合の悪い者はいないか、何度か呼びかけた。
「……お前の出身は、どこだったっけ」
「スマトラ。ウィルヤは?」
「東ジャワ。……スマトラは……その」
「最前線だよ」
ジナは何でもないことのように言う。「家族は……まあ、半分生きてればいいかなって位かな。あんまり期待してない」
「宗教を捨てるのは勝手だが、家族は大切にした方が良い」
ジナは鼻を鳴らした。
「そりゃどうも」
「色々あったのは察する。だけどお前は良い奴だ。きっと良い男が見つかるさ」
ジナは今更になってウィルヤが心配してくれている事に気づく。信仰心はインドネシアではかなり人徳の一部として見られるのだ。それに外国よりずっと家族のことをずっと大切にする。そういう意味ではジナは結婚には全く向いていない。
「別に、大丈夫だよ。そのうちキリスト教徒か観光客でも引っかけるつもり」
「そうかい」
ウィルヤが煙草を取り出したのを見て、ジナはそれを手で制した。
「高校に通えるようなインテリは煙草吸ってる人を怖がるよ。やめといた方が良い。例の日本人もきっとそうだろうし」
「そういうもんか」
「国軍の顔に泥を塗るつもりかって、また言われるよ」
「あのクソ教官か。俺たちは予備役で呼び出されただけだってのに、ばかすか殴りやがって、気にくわねえ男だった」
しばらく、無言でトラックに揺られていた。ジナはあまり小うるさいのは好きではないし、訓練の時から一緒に狙撃訓練をしていたウィルヤとの沈黙は、嫌いではなかった。必要な時に必要なだけ喋る。しゃべり疲れるまでには心地よい沈黙が戻ってくる。
昼頃から車で走って、順調だった。二時間走ったら少しトイレ休憩を挟む。野小便は内戦中だから仕方のないことだ。分隊員が蛇やサソリがいないか確認してから、すぐ歩哨に戻る。ジナの提案だ。
二回目の休憩まで三十分と言ったところで、荷台から声が聞こえた。
「おねえさん、あの……」
「どうしたの?」
「日本人の子が、吐いてます」
ウィルヤが面倒臭そうな顔をしているのを無視して、ジナは続ける。
「次の休憩まで持ちそう?」
「うーん……どうかな」
女子学生が英語で日本人に問いかける。青い顔の日本人は、小さく頷いていた。
「もう少しだから、頑張って」
「……はい」
やっぱり日本人の英語は妙なアクセントがある。言葉遣いが妙に硬いのだ。イエスは違う気がするんだよなあ――ジナはそう思いながら前に向き直る。
「お優しいことだ」
「優しくは無いさ」
「やっぱり英語は放浪してた頃に学んだのか」
「ジョグジャカルタで居候してたころ、大学の講義に潜り込んで」
ウィルヤの手が胸ポケットの煙草に伸びて――虚空を彷徨ったあと、SS-1自動小銃のグリップに戻った。
「本当に、お前は変わり者だ」
「自分でもそう思うよ。本当に不思議」
休憩の時の香奈はひどいものだった。
時々、トラックから身を乗り出して吐いた。日本から買っていった酔い止めが効かない程の揺れ。何度か落ちそうになって友達に支えて貰った。腹の中は空っぽなのに、それでも吐き気が来る。胃液が鼻まで逆流してひどく痛い。苦しい。
眠ろうと思って目を閉じると、反乱軍の男が持っていた銃剣が瞼の裏で光るのだ。首に沿わされた銃剣の冷たささえ、追体験している気がした。固まってきた首の傷をひっかいて乾いた血が爪に挟まる。その血を爪で取り出す。下を向いているから、また酔う。
休憩でトラックを降りて、動かない地面をひどくありがたく感じた。喉が痛くて、頭が揺れるような感覚が未だに残っている。
ひどい気分だった。五分間の休憩が終わったら、またトラックで揺られるのか――
見かねた助手席の兵士が席を替わってやると身振り手振りで教えてくれた。申し訳ない、と思ったけれど、学生達は何も言わなかった。心配そうに、自分の水を分けてくれたり――
――わたしは、本当にこの国に来て良かったんだろうか。
「|どっちがいい《Which do you like》? |インドネシア語、英語《bahasa or English》?」
三〇代ほどに見える女性の運転手の兵士がいきなりそう言ったので、香奈は驚いた。
「英語喋れるんですか?」
香奈は女性の方を見ると、女性は手で香奈の頬に触れて前に向けた。
「また酔うよ。前見てな」
「……はい」
「ジナ・バトゥバラ。あなたは?」
「カナ・カンザキです。ええと、ミス・バトゥバラ」
ジナは小さく苦笑した。「ジナでいいよ。堅苦しいのは苦手」
今更になって、香奈はジナがヒジャブを被っていない事に気づいた。
「ジナは……キリスト教徒ですか?」
「いいや、無宗教。日本は……仏教だっけ」
仏教、と対外的には言っている。実際香奈は神社と寺の違いもよく分かっていない。
「そうです。無宗教の人って、わたしインドネシアで初めて会いました」
「まあ、珍しいからねー。煙草も吸うし、酒も飲む。礼拝もしないから昼まで寝てたりもする。宗教って言うのは難しいね」
ジャングルのような森を突き抜ける舗装されていない道は、森の中に消えていくようだ。ジナの顔を見て話したいけれど、助手席でぶちまけたらそれこそ迷惑になる。
「そういえば、英語はどこで学んだんですか?」
「若い頃放浪してたんだ。バイクタクシーの運転手やりながらあちこち回ってた。ちょっと長く居候してた親戚の家の近くに大学があったから、そこに潜り込んでね」
「……潜り込んで」
大分昔の日本でも、そういうことがあったという。最近ではあまり聞かない。
「高校はチェックが厳しいけど、大学はそういうの適当なんだ。英語もやったし、心理学とか経済学、農学も工学もやったよ。全部中途半端だし、使うところもないけど」
「……すごいんですね」
「香奈は大学行くの?」
喉の奥に何かが詰まったようだった。
言わない方が、良い気がした。
「……わかりません」
絞り出すように香奈がそう告げると、不思議そうにジナが首を傾げた。
「日本は豊かなのに、なんで?」
ジナのそれは、純粋な好奇心だと自分に言い聞かせた。なぜか分からない。目の前で、すぐ隣で、友達を殺された事がショックを与えて自分をさらけ出したいと思わせるのか。
「……親が、反対してるんです。女なんて大学いかなくていいって。わたしがインドネシアに高校で留学したのも……大学にいけないなら、高校は留年してでも何か……何か得たいって思って、頑張って奨学金を貰って、それで決めたんです」
――そのせいで人が死んだんだけれど。
「なるほどねえ」
ジナの口調はあくまで軽い。香奈はこの女性がよく分からなかった。分隊長にも言われたように、邦人救出の体で派遣された部隊なのは分かる。最重要な香奈の安全と心身の健康を気遣っているのか、それともただおしゃべりなのか。
「|私も似たようなもんだよ《、、、、、、、、、、、》」
おっと、とジナが小さくハンドルを切って道路の大きなくぼみを躱す。
「インドネシアでは無宗教って結構珍しいし、色目で見られるんだ。残念だけど私はそのステレオタイプなんだよねー」
しばらく何でもない話をした。インドネシア料理の話、日本の話。インドネシアに来て驚いた事――多分ジナは自分に気を遣っているのだ、と香奈は思った。努めて明るい会話を提供している。重くなりすぎた空気を振り払うつもりなのだろう。
普通なら二時間走るところを、三時間走った。インドネシア陸軍の前哨基地があるのだ、という。夜はそこで過ごす。とはいえまだ安全ではない。点と線を確保しただけのインドネシア陸軍の目をすり抜けるゲリラ化した反乱軍はいくらでも潜んでいる。
大きなテントの中の軍用の簡素な二段ベッド。学生も皆疲れているからと、与えられた糧食を食べて冷水で交代で水浴びをした後、すぐベッドに入った。
香奈は二段ベッドの下だった。一メートル先の天井を見つめていた。目を閉じたら、あの光景が浮かんでくる。
特大の針のような銃剣。重くて冷たい銃声。血と火薬の匂い。後ろに立っていた男の潜み笑い。自分を見つめるスマートフォンのカメラと、首筋を伝う血の冷たさ。
眠れなかった。気づいたら手が首筋の傷をがりがりひっかいていた。
|なぜか自分を傷つけたかった《、、、、、、、、、、、、、》。
香奈は枕元に置いてあった自分のバッグの筆箱からカッターナイフを取り出す。日本から持ってきた物は空港の手荷物検査に引っかかって、インドネシアで買い直したものだ。中国のメーカーのロゴが付いている。それをポケットに忍ばせてベッドからそっと立ち上がった。
そろりそろりと歩いていくと、二段ベッドの上に寝転んでいた友達と目が合った。
「|どうしたの《What`s wrong》?」
「トイレ」
なぜかインドネシア人は英語でもトイレの事を英語でもbathromでもrestroomでもなくtoiletという。テントから出ると監視塔のサーチライトとあちこちのライトのおかげで思ったほど暗くはなかった。
小さくて汚いトイレにそろりと足を踏み入れると、小さな嗚咽が聞こえた。一つしかないトイレは使用中。香奈はいたたまれなくなってトイレを出る。
トイレの裏に回った。光を背にするようにして身をかがめて、ポケットからカッターを取り出す。一応買っただけで殆ど使いどころがなかったから、新品のようだ。灰色の刃を、そっと左の手首に押し当てる。
刃の冷たい感覚が、心地よかった。
「手首はやめといたほうがいいよ。腕にしときな」
びくりと背筋を震えた。ジナが煙草を咥えている。何か言い訳しようとして、何も出てこない。魚のように口がぱくぱく動いた。
「まあ、切らないのが一番良いけど、それも酷でしょ」
香奈は複雑な気持ちになる。残念なような、安心したような。
――叱られる方がよかった。
ジナは黙ったまま香奈の隣に腰を下ろした。甘い煙草の匂いが、血の幻臭をかき消してくれるようだった。
「切るなら切っ先でひっかく感じ。長く出して滑らせるように切ると、刃物によっては深く切れて本当に死んじゃうかもしれない。いや、これは冗談じゃなくてさ」
「……なんでそんなこと知ってるんですか?」
困ったようにジナは煙草を咥えたまま首を傾げて、両手で迷彩服のボタンを外した。迷彩服をはだけさせて、下着のTシャツの裾を捲る。
古い傷跡だった。三ミリほどの太さの傷が二本小さく膨らんでいる。ケロイド化した傷跡を、香奈は初めて見た。その上に一ミリほどの細い傷跡が赤くなって無数に走っている。かなり乱暴に切ったらしく、傷跡は平行ではなく交わっているものも、化膿したように跡が残っているものもあった。
「子供の頃の悪い癖」
ジナは苦笑して、煙草の煙を吐いた。香奈は絶句して、自分の手首を見下ろす。
「……放浪してたって言ったじゃん。一応、理由があってさ」
遠い目をしたまま、ジナ。
「私、中学生の時に強姦されてさ、ムスリムは婚前交渉がダメだから、しかたなく無宗教になったっていうのがあるんだ。ムスリムのカップルは……まあたまに結婚前にヤっちゃう人もいるけど、そういう場合は最後まで添い遂げる。キリスト教もちょっと調べたけど、なんか違うなあって」
「……そう、なんですか」
「そう。放浪してたっていうのは本当だけど、本当はジャカルタのレイプ経験者の互助グループに行くのが目当てだったんだ。でもまあ、何にも良くならなくてさ」
ジナは短くなった煙草を地面に押しつけて火を消した。新しい煙草を咥えて、すぐ火を付ける。
なぜか香奈はその甘ったるい匂いに安心した。
「まあ、なんだろう。私は自分の友達を撃ち殺されたことは無いし、香奈もレイプされたことはないでしょ? 私に香奈の痛みはわかんないよ」
「……」
「心の傷は心だけの傷にしておいたほうがいい。できるだけでいいからさ」
ジナは自分の煙草を一本抜いて、香奈に差し出した。
「え……」
「吸ってみなよ。病気みたいなものだけど、合法だよ」
「……」
「自傷跡がある女の子より、煙草吸ってる女の子の方がまだ好かれる。人前で吸わなきゃバレないしね」
少し、迷った。香奈は校則違反はスカートの丈が短かったこと以外はなにも悪いことはしていない。ポイ捨てだってしたことがないのだ。
少し悲しそうに笑うジナが、なんだか印象的だった。
蜜に釣られる蝶のように、香奈は手を伸ばして煙草を受け取る。
「咥えて。息を吸いながら、火を付けるんだ。煙はまだ吸わないで」
香奈は煙草を咥えたままこくんと頷く。ライターの火が、妙に暖かに感じた。咥えているだけでフィルターが甘い。
「いいね、ちょっとだけ煙を吸って、その後口を離して綺麗な空気と一緒に吸うの。喉が痛かったら、途中で止めて良いからね」
子供に教えるような口ぶりでジナが言う。香奈は言われた通り、少しだけ煙を口に含んで煙草を手に持って、新鮮な空気と一緒に喉に煙を送った。
ざらついた、瘴気の塊のような煙が喉にぶつかった。匂いが肺までゆっくり染みこんでくる、不思議な感覚。違和感が大きくなってきて、煙を吐き出した。
「……」
「どう?」
「変な感じだけど、不思議です。ちょっとだけ頭がくらくらする」
「この煙草は強いから、肺までは入れない方が良いよ」
ジナは自分の分の煙草を深々と肺に入れる。香奈も合わせて喉まで煙を入れる。
何も考えなくて良い静寂があった。
ゆっくりとしたペースで吸っている香奈の煙草が半分ほどの長さになって、ジニが再び口を開いた。
「さっきはああは言ったけどさ、|依存症になっても、心を病んでも、自分を切ったりしてもいいからさ、あなたには生きていて欲しいよ《Even you are addictive to something, even you are mentally ill, even you harm yourself, I just hope you to still alive》」
ジナは香奈をテントに送り届けて、ほっと一息ついた。
「ジナ・バトゥバラ二等兵」
「……」
黙ったまま振り返ると、複雑な表情で唇を噛む分隊長がいた。
「……隊長」
「固くなるな」
分隊長に先導されるまま、近くの倉庫に入った。月明かりも届かない暗闇で、隊長は口を開いた。
「軍規でも保護した民間人に煙草を吸わせてはならないとは言っていない。未成年の喫煙を取り締まる警察もいない。国軍には警察権もない。何しろ日本人が相手だ。私もとがめる気はない」
「……はい」
隊長の顔は見えない。何かを言いかけては、それを自分で止めている気配がした。ジナはただ待った。
「……気持ちは、分からない訳ではない。だが、相手を君自身に依存させるのは、やめた方が良い。伍長としてではなく、一人の人間としての意見だ」
「……」
「煙草はただ燃えるだけだ。何も解決してはくれない。彼女の苦難は彼女が乗り越えるしかない。助けるな、とは言わない。彼女の自立を損なうな」
「分かりました」
闇の中で分隊長の目が少し光って見えた。どこか遠くを、あるいは未来を見るような遠い目をしていた。
「トラックの助手席に彼女を乗せるのは健康上の理由で許す。命令だ。|彼女と別れるとき涙を流すな《、、、、、、、、、、、、、、》」




