月のアイドル大気圏突入
たとえば高層ビルの屋上で、足を踏み外したとする。その後、落ちていく数秒をどう過ごしても、いずれ死が待つ。どう過ごしても、だ。
しかし、そういうときに絶叫する人間と、声も出なくなる人間がいるらしい。モモカは後者だった。
「あ」
口が「あ」の形になっているだけで、ほとんど声は出ていない。
もっとも、地球周回軌道で放り出された場合、初めのうちは落ちていく実感がない。地上までの距離が遠過ぎて地面が迫ってこないし、軌道高度では向かい風もない。ないない尽くしで幸いだ。現実を実感してしまったら気が狂う。恐怖の時間は、高層ビルから落ちるより、ずっと長いから。
くるくる
まずは優雅に回りながら、極地に輝くオーロラでも眺めておけば良い。自分を見捨て、遠く離れていく船に対しては、気付かないふりをする。それが、心の防御というものだ。
「あーあ……」
自由を求めて飛び出した。リスクは承知のうえだった。たしかに地球へ来たけれど、流れ星での突入は、やはり希望と少し違う。
でも、最後にいろいろできたからいいかな、とモモカは受け入れる。
追い求めた自由──それが不自由の反対語ならば、不自由からの開放を求めて死を選ぶのも、また自由だ。
自由を得る方法は、いろいろある。
月面ならば外に出て、ひょいとヘルメットを取ればいいから簡単だ。
地球では、車に轢かれたり、電車に轢かれたり大変らしい。その人たちに想像できるかな。
死因が、地球に轢かれて──なんて。
地球は、車や電車よりずっと速い。こんなの珍しいよ。
「あははは、はー……」
笑った目からフワフワと、涙の粒が浮いていく。すぐに消えてしまうけれど、もうしばらく漂ってくれたら、宇宙に浮かぶ水の星みたいで綺麗なのに。
ユキ。あんなにおバカなお姉さん、見たことなかった。ドジな人。でも、一番かわいがってくれた人。ベアトリクス、直してくれたかな。
アイ。いつも強くて、ときどき弱い。脱出を手伝ってくれたのに、連絡とれなかった。お礼しておきたかった。
イクミさんとミサキさん。どんなに怖くても踏ん張って、1秒後には立ち直って、周りを元気にしてくれる。みんなの、お母……お姉さん。
笑顔の頬を、涙が伝う。
いつの間にか回転が止まっていた。まだ極わずかだが、大気が抵抗をはじめたのだ。自然と頭が先になって、地球の上を飛んでいく。まだ青くない空に両手を広げ、夜を渡る鳥のように──。
「モモカさん」
幻聴なんて口惜しいな。心の中ではぁいと返事をした。
「モモカさん!」
カガに腕をつかまれていた。正面に回り込んで、笑顔をみせてくる。モモカは状況がつかめない。
「え……は」
「モモカさんは汚染されたトパーズに帰れませんからね。来ちゃいました」
「な、ななな、なにしてるの!」
反射的に突き放そうとする。
「でも、こんなところで一人にしておけません」
「バカ! 一人でも多く生き残るって言ったじゃない!」
ガクガクとカガを揺らす。自分も揺れる。
ボロボロとひどい顔で延々と泣く。
やがて力なく──カガの腕にすがった。
「ごめん、ごめんね。カガせんちょ……。
あたし、自由が欲しかっただけなの。逃げたかったの。でも──やっぱり、あたしは人を操る道具だった。人の意思を奪って、人を不自由にする。関わった人が……死んじゃうこともある。今度はカガせんちょまで……」
モモカのヘルメットをつかんで、続く言葉を止めさせた。泣き崩れた顔を正面から見据える。
「わたしがモモカさんに操られてる? ええ、その通り!」
「……っ!」
思わぬ言葉に声も出ないモモカに向かって声を励ました。
「ドクター・ショウハラが言ったことはね、間違いじゃない。でも、彼は大事なことを言ってないんですよ──。人が人を操るのは当然だってことを。
救ってほしいと頼んだら、誰かが助けてくれた。それを“自分勝手な願いで誰かを操った”なんて責めません。だって、それが当たり前の人間なんです。モモカさんだけが人を操る魔女じゃない」
トパーズから持ち出した“私物”が結ばれたテザーを引き寄せた。
「モモカさんに操られたから不自由になった? とんでもない! そもそも初めから不自由なんです。生まれ落ちれば親に縛られ、社会に出ても上司の意向に縛られ、いまだ重力に縛られている。わたしたちの不自由は、生まれつきなんです」
「せんちょも──地球も?」
「ええ、もちろん。不自由を打ち破るには、力が必要なんです。自分に力が足りないなら、他人の力をあてにしてもいい。科学の力を借りたっていい。自由は勝ち取るものなんです」
「でも、そのために来たのに、もう……燃え尽きちゃう。不自由から逃げようとしたら自由落下で死んじゃうなんて、さっき考えたけど。やっぱり笑えないよ……」
言葉と裏腹に笑顔を見せようとした。
カガは真面目な顔で見つめ返す。その目は、まったく諦めていない。
「それなら自由へ向けて落下しましょう。願ってみれば叶うかもしれませんよ?」
「願い……?」
「初めて会ったときにも聞きましたが──どこに行きたいんでしたっけ?」
柔らかく、そっと抱きしめた。体温は伝わらないが、気持ちは伝わると信じて。
信じてみよう、この人を。モモカが両手を握り合わせる。
「地球──だから、私を……守って!」
カガはうなずいた。二人の船外服を金具で直結したうえ、さらにテザーで結ぶ。離れないよう、しっかり強く。
そして“私物”をモモカに見せた。銀色の金属でできた、円錐形の物体だ。大きさは、両手のひらから少しはみ出す、お菓子の缶ほど。
「これを使います」
「アポ……ロ?」
それは、月に住む人なら誰でも、もちろんモモカも知っているものに酷似していた。静かの海にあるアポロ11号記念館で見学したアポロ司令船──のミニチュア版にしか見えない。心を預けた信頼が、一瞬で疑惑の目に変わる。
「小さいアポロじゃ乗れないじゃん!」
「乗るんじゃありません」
大気圏突入の二大ベクトルは、持っていた軌道速度の減速と、自由落下による加速だが、厄介なのは軌道速度の方だ。
流れ星は横に流れる。
一般的なシャトルや本物のアポロも、同じように突入する。丈夫な船体で守られているのは、断熱圧縮の高温を貫くためだ。単なる宇宙服では耐えられない。
だから、カガが試みようとしているのは、もう一つの方法──低速突入だ。
「風まかせで、ふわふわと落ち葉のように降りるんです。かつて、紙飛行機を突入させようと、予備的な試験までは行なったと聞きます。けれど、実証実験はしなかった。まあ、エドワーズ空軍基地に降りるつもりが、ふわふわとテキサスに着いてしまうようでは、実用的といえませんから」
「この、小さなアポロで?」
「信じてくれますか?」
「──あたし信じる……よ?」
信じていない顔で言った。
「では、そろそろです。あまり早く展開すると大気に弾かれてしまうので待ちました。いきますよ、モモカさん!」
小さなアポロ──カプセル状の金属缶を開いた。さっそく薄い大気に抵抗し、中身が広がっていく。向こうの宇宙が透けて見えるほど透明な膜が、広がって、広がって──巨大な凧になった。バリュートにしては頼りないが、大きく揺るぎない帆だ。錘の位置に二人がぶら下がる。
「金箔を薄く伸ばす金沢の技術、丈夫な和紙を漉く美濃の技術、それを小さく畳んでおく折り紙の技術です」
「こんなの……あり?」
大気をはらみ、ときに一瞬の上昇を交えながら、次第に弾道コースへ移る。元々が軌道速度だ。ふわふわと落ち葉のようにとは名ばかりで、轟々と抵抗する。
成層圏突入。対地速度はマッハ7まで落ちたが、断熱圧縮は起きている。だが、表面温度が摂氏二百度を超えても、発火点には至らない。空気の密度が増すほど、凧に引っ張られる力が強くなっていた。
成層圏突破、マッハ5。眼下には、陸地がはっきり見える。
小さな雲を突き抜けた。氷の粒が、空に糸を引く。
マッハ2.0、1.5、1.2──カガはモモカを守るように抱えた。
「衝撃が来ます。モモカさん備えて!」
ダァン!
二人を中心に、大砲を撃ったような衝撃波が広がり凧を粉砕する。音速の壁を逆向きで突破したからだ。
「せんちょ、凧が!」
「わかってます! ここから本番ですから、しっかりつかまっててくださいね!」
カガはヘルメットの接続部を外した。風圧にあおられ一瞬で飛び去っていく。むき出しの顔に空気が吹き付け、表情が歪む。
さらに船外服の上半身を脱ごうとする。二度、三度と失敗し、思うように離脱できない。ずっと二人を照らしていた太陽が、急速に東の地平線へ沈んでいく。夜の世界に入った。近付いてくる黒い地面を怖がって、モモカが目を閉じる。
バンッ!
船外服が吹き上げられた。金具が当たって、カガの額から血が飛び散る。
「せんちょ!」
「大丈夫です!」
船外服の中に背負っていたバックパックから、ドローグが飛び出す。続いて翼が開いた。
ボン
ガクッと上に引っ張られて急制動がかかった。いわゆるパラグライダータイプの落下傘だ。ベストの着陸地点から北へ数十キロ離れているが、落ちてきた距離を考えれば上出来だろう。
再び太陽がゆっくり昇りはじめ、曙光が視界に入った。また暑くなりそうな気配がする。やがて吹く海風に乗って運ばれれば、近くの海岸につけるはずだ。いったん海へ舵をとった。深い青をたたえる日本海上空で、円を描くように空を舞う。早起きの漁船が、遠くでチマチマと群れていた。
「わー! あたしもヘルメット取りたい!」
「まだダメです。地球の大気は、汚染されたトパーズと、あまり変わりません」
ポンとヘルメットを叩かれると、中でプーッと頬をふくらませ、それでいて気持ち良さそうに、カガをにらんだ。
「ねえ、せんちょ。落ちてくる時に見えた陸地が、猫の手みたいだなって思わなかった?」
「ああ、能登半島」
「おいでおいでしてたよね?」
「ええ、歓迎してますからね」
モモカは器用に前を向くと、まだ緑濃い晩夏の陸地に両手を振り、精一杯の大声で初対面の挨拶をした。
「こんにちはっ!」
カガは笑顔をつくった。二人の他に誰もいないから、いまは地球代表だ。
「地球へようこそ、モモカさん」
遠くでトンビがピーヒョロロと鳴いた。




