迷宮漂泊
モモカは、足を引きずりながらも、かろうじて前に進んでいる。工事用のユニフォームは乾いた汗で白く塩を吹き、苦しそうにあえぐ顔はホコリで汚れていた。
背負っているランドセル型の船外作業服は、簡易で軽量なものだ。しかし、基本的には無重力の宇宙空間で使うように設計されている。だから、月の低重力とはいえ、長時間に渡って背負い続けていると、その重ささえ大きな負担になる。つまり、残り少ない体力を削っている。
そのうえ、病院を出てから食事も、水さえも口にしていない。
ただでさえ子どものように小さな身体は、もう限界だった。
前日の未明──。
銃声に振り返ったとき、一瞬BGの元に戻るべきか迷った。だが、合流に成功したところで、かえって足手まといになるのは目に見えている。せっかく囮になってくれたBGに報いるためにも、単独で行くしかない。そう決心した。
「アイに言われなきゃ、誰の助けもなく一人で逃げるつもりだったんだ。こんなの予定通り……だよっ!」
あえて強気を口に出して自分に言い聞かせる。
すくむ脚を両手で叩いて励ますと、全力で走り出した。ときどき振り返って背後を気にしながら、必死になって北を目指す。
しかし、走りに走って到着した通路の北端は──丁字の突き当りになっていた。
「何よこれ……」
見上げると、天井近くに古い案内表示が掲げられている。北口を示すサインはなく、右に行けば東口、左に行けば西口と読み取れた。
「……北に、出られないじゃない!」
現実的に選べるのは、東か西かの二択だ。迷った挙げ句、モモカは東に走った。理由はない。女の勘だ。
これといった分かれ道もなく、30分ほどで東口に着く。
ゲートの脇に張り付き、ヒョコっと頭を出すと、慎重にあたりの様子を探った。エアロックの手前に、談笑する男女がいるが、追手らしき姿は見えない。出ようと思えば、出ることはできそうだった。
「でもさー。北に向かえって言われたんだから、東口じゃないよーな……? もうちょっと調べた方がいいよね」
別のゲートを探しに移動を開始した。
実は──惜しかったのだ。
東口を出て左のエアロックを登れば、すぐにマリウス北側の月面に出られた。目印になる獅子像があるし、マリウス市警の東駐屯地で道を尋ねてもよかった。多少迷ったところで、月の夜は長い。まだ何日も夜が続く。無事に月面建機に着けたはずだ。しかし、初めて来たモモカは知る由もない。
次に着いたのは中央東口ゲートだ。東口より少し小さい。
「ちゅうおう……東口?」
モモカは混乱した。位置関係が全くつかめない。
「とにかく、ここは北じゃないっ!」
西に走った。東がダメなら西だ。
やがて狭い通路に入り、人影が見えれば隠れ、階段を登り降りしながら、ひたすら走った。少し広い場所に出たところで、疲れ切って膝に手をつく。息を整えて顔を上げると、そこは──新市街だった。
「ココもカラダも、どちらもKO寸前です」
どこかからともなく、下らない幻聴が聞こえた気がした。黄色いキモノも見えた。クラっとめまいを感じて、おでこを右手で支える。
だが、幸いそこは見知った場所に近い。
助けを求めようと、連邦大使館に向かった。いつも「モモーシュカ、モモーシュカ」と可愛がってくれる、おじいちゃん大使がいるからだ。
あと1ブロックというところで、怒鳴り声が響いてきた。
「とっととモモーシュカを連れて来い!」
ほら呼ばれたでしょ、ではない。モモカはすぐに街路の奥へ飛び込んだ。
そっと頭を出して遠目に様子をうかがうと、武装した兵士が整列している。頭を引っ込めて、耳だけをすませた。
「まだ確保できないのか! まとめて永久凍土に送るぞ!」
「ちょ、ちょっと大使! お声が高い! 中へお入りください!」
モモカが隠れた場所まで聞こえる大声は、聞き間違いようもなく連邦大使のものだ。いつも優しいはずのおじいちゃんが、敵に変わったことを知った。
「そう……なんだ。おじいちゃん、BGも殺しちゃったの、かな……」
急にランドセルが重くなった。
いったん旧市街に戻り、中央東口、東口を通ってコの字型に迂回。トボトボと、来た道を逆にたどる。
視界が霞んだ。こらえる。
「絶対に、泣くもんか……」
戻ってきたのは、丁字の分かれ道。ふりだしに戻る、だ。
今度は西へ向かうが、もう走る気力がない。下を向いて、右足……左足……右足……左足……と機械的に足を出す。もはや惰性で動いている──。
そのとき、パッと光が射して、モモカは眩しそうに視線を上げた。
広い空間に出ていた。
そこにあったのは、これまで見たなかで一番大きい、巨大なゲートだ。人間に適したヒューマンスケールを超えていて、しばし呆然とする。そして、眺めているうちに、ある思考がつながった。
「これって、もしかしたら機械用かも?」
目指しているのは月面建機。月面で使う建設機械を製作して供給する公社だ。それならば、マリウスに搬入するにも大きなゲートが必要になる。
目的地が近いと確信した。
勢い込んで西ゲートを出る。フワフワと足取りも軽くなった気がしたが、気は抜けない。空間の奥に明かりが見えた。壁際に沿って近づくと、マリウス市警の西駐屯地だ。手配されている可能性は低いが、脱走中の身だけに気分は落ち着かない。出入り口をチラチラ気にしながら、足早に通り過ぎようとすると、いきなり背後から声をかけられた。
「どうしたの、お嬢ちゃん」
「ぅひゃい!」
のけぞって、ピョンと飛び上がる。
振り返ると、人の良さそうな若い男性が、笑顔で見つめていた。マリウス市警の制服。階級は巡査。
モモカがいくら有名人といっても、実際に会ったことがあるのは主に高級官僚クラスだ。まして、汗にまみれた小汚い格好では、田舎の子どもが迷子になっているようにしか見えなかった。
「どこへ行きたいのかな?」
「あ、あの……。き、北口を探してて!」
「北口? ああ、西部北口かな? それならマリウス・プロムナードを通って行くといいよ。少し遠回りだけど迷いにくいし、地表に出ないでいい」
「マリウス・プロムナード。巡査さん、ありがとう!」
ペコリと頭を下げた。
北へ抜ける道がわかった! やっと市街から出られる!
力が湧いてくる気がして、再び全力で走る。接続通路の階段を駆け下り、マリウス・プロムナードに入った。時間帯のせいか、人通りは皆無だ。隠れる必要もなく、順調に飛ばしていけると思った。
あと少し。本当にあと少しだった。
ここに来て、モモカの身体は限界を迎えた。足がもつれて、うまく走れない。
「あれ……? 頭も……痛い?」
いったん止まって首を傾げ、足を引きずりながら歩き出す。
新市街で感じた幻聴、めまいやふらつきは前兆だった。
脱水症だ。
頭痛があり、フワフワするなど身体感覚もおかしくなっている。すでに深刻な事態だった。
マリウスに限らず、宙域の施設はカラカラに乾燥している。水資源に余裕がなく、空気中の湿気さえ回収されるからだ。
そのなかを、水分も取らず、緊張状態で走り続けた。脱出時にトイレ探しで困らないよう、あらかじめ水分を絞っていたのも良くなかった。
そもそも、モモカの身体は、ベースが生まれつき弱い。筋力はトレーニングで鍛えられても、内臓そのものを鍛えるのは難しい。それでも、見ため元気に活動できたのは、常に最先端の医療者に囲まれ、手厚いケアに守られていたためだ。
足が出なくなって膝をついた。のどがへばりつき声が出ない。
あれ、おかしいな。
無理して「上」を下見したのは、この日のためなのに。
これじゃ、これまでの準備がムダになっちゃう。
あれ、ダメだよ、ダメだってば……。
上半身が崩れた。遠くなる意識のなか、ひとつ気付いた。いや、本当はとっくに知っていた。
そうか、あたし、カゴから出たら、ダメ、なんだ、ね?
一人では、生きられ、ないの、ね?
まだ、マリウスから、出てもいない、のに──
頭から帽子が落ち、バタリと横向きに倒れた。
*
「タバコなんて、ほんとバカバカバカ」
「それ、ずっと言い続けるのかよー?」
「あんたがガンで死ぬまで言ってやる」
「しつこいね。そんなだから独り身なんだ」
「あんたもでしょ!」
月面都市は喫煙にうるさい。隠れタバコまで検挙・摘発するのだから、ある意味で中学校レベルだ。あまりにうるさいので吸う人は少ないが、それでも喫煙したい人は、月面建機あたりに行く。材料として炭酸ガスが欲しい所には、だいたい専用の回収装置──喫煙所があるのだ。
それにしても、電気スクーターを使って往復1時間である。
途中ヒマだからと、自分は吸いもしないのにイクミに付き合わされたミサキはご立腹だ。それでも一緒に行くのは、接客業のCAはストレスが多いという思いで強く一致しているからだ。ストレスどころか、この前など危うく死にかけた。
だから、イクミはタバコを吸ってストレス解消。
ミサキは好き放題に悪口を言ってストレス解消。
ウィン・ウィンというか、要するに仲良しなのだ。
「ちょーっと待って。ストップ、ストップ!」
「なぁに、おしっこなら帰るまで我慢なさいな」
「あっちになんかいた!」
イクミが急ターンして引き返す。左折して更に加速した。
「あ、ホントだ。なにアレ」
追うミサキにも見えてきた。口では「なに」と言ったが疑問の余地はない。
人が倒れている。
イクミは、キーっと車体を滑らせ、すぐ脇に急停車する。ミサキは、確実にルルルと止めて、それから駆け寄った。
「……大丈夫そう?」
すでにイクミは呼吸を確かめ、頸動脈に手を当てている。
「意識ないけど、とりあえず生きてる」
「そう、良かった……。あら、カワイイ子!」
「バカ! 緊張感!」
「どうするの?」
「放っておけるか。後ろに乗せるぞ、手伝え」
「わーい、女子お持ち帰りだー!」
「張っ倒すよ! そっち持って!」
*
オレンジ色の照明が明るい部屋で、モモカは目覚めた。
はじめに感じたのは、芯から来る頭痛。
そして少しのめまい。ゆっくり世界が回っている。
天井が見えた。ソファの上で、仰向けに寝かされている。
胸に手をあてると、作業服のボタンが外され、シャツが広げられていた。
ハッとして両手で下を確かめる。ちゃんと着ていた。とりあえず安心する。
マリウス・プロムナードで倒れた……ような気がしたが、あやふやだった。巡査さんに道を聞いたのは覚えているけれど、その後が思い出せない。
(なんで、こうなってるの?)
上半身を起こしてみる。
たぶんホテルの一室だ。誰もいない。
それより、とにかくのどが渇く。
(お水欲しい。できるだけ、冷たいやつ)
透明なガラスの向こう、ショーケースのように、色のついたボトルが並んでいる。その中で興味深いものに目を引かれた。取り出してみる。
真っ白な粉……氷だろうか?
触ると冷たい。嫌な匂いはしない。他に並んでいるのも飲み物っぽいから、口に入れても平気だろう。そう判断した。
かぶりついてみる。
(ひゅおぉぉ!)
スプーンも使わずかじり続ける。
「あまーいっ!」
思わず大きな声を出すと、バンっとドアが開いて、イクミが入ってきた。声を聞いてモモカが起きたことに気付いたのだ。
「あ、それ! あたしのかき氷!」
猛ダッシュで走り寄ると、モモカを背後から巻くように抱きかかえ、膝の上に乗せた。お尻ペンの体勢だ。それでも、モモカはかき氷から手を離さず、かじり続ける。美味しいから夢中というだけではない。こういう叱られ方をしたことがないので、何をされるか気付いていないのだ。
その態度にイクミはカーッとなって、モモカの下をまるっと膝まで引き下げた。
「ちょっ! ひゃあっ!」
さすがにモモカは悲鳴を上げて、かき氷を放り出す。乙女のピンチな部分を手のひらで隠した。
それに構わずイクミは大きく振りかぶる。
バッシーンっ!
右手を思い切り叩きつけた。お尻ではなく太もも。いちばん痛いやつだ。
あまりの衝撃に、モモカは目を見開いて固まる。口をパクパクするばかりで、声も出ない。
「いいじゃないの、元気になったんなら」
あきれ顔のミサキが、料理皿を手に入ってきた。
「いや、ちゃんと叱らないとダメだ」
「あんたね。つまみ食いで他人のことなんか言えないでしょ?」
「ん? まあ、そうだな」
あっさり認め、モモカの服を戻して開放してやる。
モモカは両手を重ねて身を守りながら、ソファの上を後ずさりした。少し涙目。
「これしかないけど」
にっこり笑ったミサキがモモカに差し出したのは、ジャガイモのおにぎりだ。丁寧にマッシュしたジャガイモを三角に握って、大月温泉名産のトロロ昆布を巻いてある。味付けはシンプルに塩。隠し味に砂糖を少し入れた。
見知らぬ人からの食物に戸惑うモモカに向かい、イクミが命令口調で言う。
「話はあとだ。まずは食え。死んじまうぞ」
モモカはびくっとイクミを見て、次いでミサキを見た。ミサキは大丈夫という風にうなずいている。しばらく迷ったが、そっと手を出し、おずおず口に運ぶ。
パクと一口。パクパクと二口。
やがて、ポロポロと大粒の涙をこぼし、泣きながら食べ続ける。
「あらあら……」
「ありゃあ。なんにしろ、こりゃ訳ありだな」
ミサキはうなずき、そっとモモカに寄り添った。
「任せて。お姉さんたちが何とかしてあげる」




