(始めは処女の如く)後は脱兎の如し
糸を引き上げて回収し、元通りに格子をはめた。
マリウス市に空気を供給するメインダクトを理解するには、樹木の幹と枝を思い浮かべればいい。形や太さが、ちょうど同じ関係になっている。
枝葉の部分、つまり新しく拡張した郊外エリアは、風速を稼ぐためダクトの口径を絞ってあり、先にいくほど細い。逆に、旧市街に近い幹の部分は、風量が多いから構造的に広くないと成り立たない。
1日に千数百人もの人が使うマリウス市民病院は、計画風量を賄うため広い幹の部分と直接つながっていた。また、こんなところへ元気に飛び込む病人など、まったく想定していないからセキュリティが甘い。
脱出ルートとしては、おあつらえ向きだ。
二人はそういった幹線ダクトの一つに入り込んだ。
少し疲れて座り込んだモモカの頭に、BGがヘッドライトを装着した。手元がぼんやり見える程度の弱い光だ。
ごく小さな声でささやく。
「ゆっくりでいい。音を立てずに進め」
モモカは無言でうなずいた。
ふくらんだ場所だから、空気の流れが緩やかになっている。とはいえ、それでも強い向かい風が吹いてくる。
BGが先になって、匍匐前進を開始した。モモカは見よう見まねで身体を伏せ、這いつくばって追いかける。時おり振り返って待つBGに遅れないよう、頑張って手足を動かした。
(ちょっと、これ大変かも)
映画で見た時は簡単そうだったのに、わずか数分で息が切れる。様子に気付いたBGが前進を止めて声をかけた。
「大丈夫か?」
「うん。ごめんね、遅くて」
「いいさ。それより怖くないか?」
モモカはブンブンと大きく首を振った。
「もっと危ないこともしたよ。ぜんぜん平気」
BGは目を細めて、頭をなでる。手のひらにモモカの汗を感じて、強がり半分だと気付いた。
「何をしたかは後で詳しく聞かせてくれ。Aポイントまでもうすぐだ」
髪をクシャクシャとして、空気を入れてやった。
再び前を向き──BGにとってはかえって疲れるが、ゆっくりゆっくり進む。
その気遣いを感じて、モモカは信頼を抱き始めていた。人となりを想像する余裕も生まれる。
知らない人だけど、優しいし頼もしい。
アイの関係だから、たぶん軍の人よね。
お仕事じゃないのに、わざわざ来てくれた。
これはね、きっとアイのことが好きだから。
そういうことに違いないよ。
恋愛の知識は少女コミックや小説から仕入れたもので、実戦経験はからっきしだから、発想が実に短絡的だ。
だが、結果的には当たらずとも遠からずかもしれない。
あれこれ考えていると気が紛れて時間が経つのも早い。
ダクトは次第に勾配が付き、斜め上に向かって登り始めた。上へ行くほど旧市街だ。
BGが手のひらを見せて停止の合図を送る。ダクトの天井側に耳をつけて様子を探った。
一つうなずくと天板を外す。カタンと動かすまでは、単なるつなぎ目にしか見えなかった。
ヒュオォォ
気圧差で空気が流出していく。
拳銃を抜いて素早く飛び込み安全を確認すると、次いでモモカを引き上げた。
板を戻すと風音が止む。片膝立ちで耳をそばだて、内部が無人であることを検めた。
「ひとまず大丈夫だ。ここで準備をする」
モモカは周囲を見回した。
生活感はないが、本来は居住空間と思われた。スペースはごく小さく、モモカ部屋の前室くらいしかない。壁際には梱包されたままの荷物が積まれ、引っ越し直後のアパートに似ていた。
「ここは?」
「今回のために用意したAポイント、安全地帯だ。街へ出る前に、着替えと食事、装備の交換を行う。まずは、汗を拭いて」梱包の一つを解いて、モモカにタオルと地味な作業服を渡す。「これに着替えろ。あっちの端に洗面所がある」
モモカは作業服を広げてみて、率直な感想を述べた。
「これ、かわいくないんだけど」
「かわいくない、から良いんだ。それなら、街を歩いていても違和感がない。まさか、その格好で出るわけにもいかんだろ」
そう言われて、改めて見ればピンクのパジャマ。41号室から出てきたままだ。
「むぅ……」
仕方なく、ヘッドライトを外してリュックを置き、着替え一式を抱えて洗面スペースに入った。
BGの方は、手早く黒ずくめの服を脱いだ。ピンクのパジャマほどではないが、街中で黒ずくめは悪目立ちするからだ。
鍛え上げた胸板がたくましい。
作業服はモモカのものと同じデザインで、よくある工事会社のユニフォーム。着ながら梱包を次々に開ける。軍用レーションとソリブルコーヒーを取り出した。さっそくレーションをかじりながら、空いた手でカップを2つ用意する。給湯栓をひねりコーヒーを溶かす。残ったレーションを口に放り込み、コーヒーで流し込んだ。流れるような早食い。
ここまで1分もかかっていない。
モモカに声を掛ける。
「用意できたか?」
「ええー、まだ無理だよ!」
「まったく、女は準備に時間がかかるな」
全女性に対する一種のヘイトスピーチだ。モモカが遅いのではない。BGが早すぎるのだ。
手持ち無沙汰になって梱包材を丁寧にたたみ、食後のコーヒーとして、もう一杯作り直した。それでも暇なので装備を一つ一つ指呼確認していると、やっとモモカが戻った。
「用意できた」
作業服は上までボタンを留めているが、帽子は後頭部にちょこんと乗せているだけだ。BGがヅカヅカと寄っていき、ギュッと眉まで押し下げた。
「ぎゃー! 前髪が!」
「帽子はきちんとかぶれ。それと、目覚ましに飲んでおけ」
不服そうなモモカにコーヒーカップを渡す。
「もう……って、ニガっ!」
あわてて洗面スペースに駆け戻り、ボウルにぺっとした。
食に無頓着なモモカでさえ飲めない代物。通常は廃棄されてもおかしくない植物の根を焙煎して、無理やり作った代用コーヒーだ。
「子どもだな」
子どもだからではない。マズいだけだ。
「うへぇ……」
「じゃあ、飲まんでいい。レーションを食べておけ」
「ダメだよ、夜中に食べると太るもん」
「──欲しくなったら言えよ」
この非常時にふざけてんのかという言葉は、かろうじて飲み込んだ。改めて女性に対する罵詈雑言を心の中で喚きながら、口元をひくつかせてコーヒーを口に運ぶ。
モモカは悪びれもせず、「それより気になってしょうがないんだけど」と、ワクワクしながら聞いた。
「アイのこと好きなの?」
ブハッ! コーヒー吹いた。
「バカを言うな! オレには妻子があるわ!」
「なんだぁ、そうなの?」
「見ろ、かわいいだろう!」
いつでも見せられるよう、肌身離さず持ち歩いている写真を取り出した。籍を入れて2年経った自慢の妻と、生まれて間もない自慢の娘だ。
「いやーん! かわいい!」
「まったくその通りだ! まあ、それはともかくだな、そもそもアイさん、いや森大尉の相手は、海永の野郎だろ」
「やっぱりぃ? カイナガと怪しいよね」
ニヤニヤしながらモモカがにじり寄る。
BGは根っからの堅物というわけではない。娯楽の少ない軍だからこそ、むしろ恋愛の噂話は大好物という性質だ。誰もいないのに左右を見渡してささやいた。
「怪しいどころか、とっくにくっついてておかしくない。それについては面白い話があるんだが、これを話しだすと長いんでな。向こうに着いて時間ができたら、ゆっくり聞かせてやろう」
「へへっ、楽しみ!」
「よし、出発だ」
BGは自分の背丈より大きなバックパックを用意していた。低重力に任せて、このくらいの大荷物を持ち運ぶのは珍しくない。モモカのリュックも丸めて詰め込んだ。
「あたしは?」
「大丈夫、オレが持っていく。いや、船外作業服だけは自分で運べ。使い方は知ってるな?」
トパーズに密航したとき持っていたのと同じ、ランドセル型の簡易宇宙服だ。もちろん知ってるとモモカは答え、ISS-8に乗り込んだことを話して聞かせた。
「おいおい、そんなことまでしたのか……」
「えへへ」
モモカの無謀に呆れつつ、身につけた装備をチェックしていく。
「おい、ヘッドライトはどうした?」
「ん? えーと、着替えるときに外したから……」
洗面スペースの前に転がっている。トトトと走って拾ってきた。
「ちゃんと付けておけ」
「前髪がペッチャンコになっちゃうもん」
そう言って嫌がると、許可も待たずにBGのバックパックへくくりつけた。
「おい!」
「また必要になったら、ちゃんと付けるから」
「まったく……」
もうヘイトも出ない。ここまで来ていれば、まあいいだろうと諦めて、ドアから通りに出た。
旧市街のなかでスラムと呼ばれる一帯だ。
地球のそれと違い、ストリートチルドレンが溢れているとか、極端に治安が悪いということはないが、貧富の差を感じさせる底辺エリアだ。勝手な増築も横行しているため、通路は狭く見通しが悪い。
モモカは、病院の外に出たとしても、各国大使館をはじめとするマリウスの綺麗な部分や、送迎車が通れる大通りしか目にしない。こういった場所は初めてだから、物珍しそうにキョロキョロしながら歩く。
小さな交差点に差しかかったところで、BGが急に止まった。よそ見をしていたモモカが後ろから追突する。
「きゃっ、なに?」
「しっ……」
モモカを物陰に伏せさせると、後方に単眼鏡を向けた。
「まだ遠いが、追手がいる」
「追手……病院の人?」
「おそらく違うな。銃器を持ってそうだ」
「じゅ……!」
BGは現状を整理した。
目的地まで、まだ距離がある。二人で進めば、いずれ追い付かれるだろう。
Aポイントに戻るか。いや、袋のネズミだ。病院には戻れるかもしれないが、前には進めない。
残るは、二手に分かれて、モモカを先に逃し、オレが足止め──か。
「いいか、よく聞け。オレが囮になる」
「え……」
「このまま北へ市街を抜けて、月面建機を目指せ、行けるな?」
「ダメだよ。一緒に行こうよ」
「しっかりしろ、モモカ。テザー1本で宇宙を飛んだんだろ。その時のクソ度胸を思い出せ」
正面からモモカを見つめ、白い歯を見せて笑う。なぜか力が湧いてくる、不思議な笑顔だった。
「そうね、あたしなら大丈夫よ……ね」
「たかが10キロだ。イケるいける。ほら、走れはしれ!」
モモカを立たせ、パンと尻を叩く。
「ひゃっ!」
「また後でな」
すぐに南へ駆け出していった。少しでもモモカと距離を取って、それから迎撃するつもりだ。
遠ざかるBGをチラチラと気にしながら、ようやくモモカも北を目指して走り出した。脱走を図っているのはBGではなくモモカ自身だ。駄々をこねて困らせたくない。そのくらいの自覚はある。
後方はるか遠くから(さあ、こっちだ)というBGの声が聞こえた。わざと音を立て、囮になっているのだ。
絶対に逃げ切らなきゃ。
モモカが走りに走ってスラムの端に着くと
タン(タン、タン……
一発の銃声が、こだまを伴って響いた。
振り返って荒い息を抑え、じっと耳を澄ます。
追加の銃声も、そしてBGの声も聞こえない──それが意味するところを想像してしまい、足がすくんだ。




