マリウスの洞
現場に救急隊が到着したとき、カガは意識不明の重体に陥っていた。外傷はほとんどなかったが、深刻な急性減圧症と低酸素血症を起こしていたからだ。
それまで無理な船外作業を繰り返していたうえ、墜落の衝撃でトパーズに残った最後のエアロックが損傷し、気密が破れたのが痛かった。はじめのうちはモモカと会話できていたが、次第に気が遠くなっていき、モモカの叫び声を聞きながら気絶した。モモカが着陸予定地点に救命ボートを事前手配しておかなければ、間違いなく手遅れになるところだったという。すぐにマリウス市の病院へ搬送され、集中治療室に入れられた。
三日後に目を覚ましたとき、窓ガラス越しにのぞき込んでいたカイナガは無精ヒゲで山賊のようになっていた。
カガの第一声は「色気がないですね」
黙って寝ていれば格好良い男だから、それを伝え聞いた看護師たちが争うように世話を焼きはじめ、それまで毎晩徹夜で付き添っていたカイナガを「きったねーの」と不機嫌にさせたのだった。
その後も、カガは病室のベッドで事情聴取を受け、カイナガは現場の実況見分に連れ出されと落ち着かない日が続き、二人が開放されたときには墜落から一週間が経っていた。退院した足でマリウスのメインストリートに向かい、指定されたカフェの前でアイが来るのを待つ。律儀なもので「御礼をしたいから」ということだった。
「そういえば今日はキレイにしてるんですね」
カガが自分のアゴあたりをなでてみせる。カイナガの無精ヒゲがないことを言っているのだ。
「そりゃあ、久しぶりに落ち着いたしな」
「モリ大尉に会うからでしょう?」
「バ、バッカじゃねーの!?」
予想通りの反応を得たカガは、満足した様子で街を眺める。何度も訪れているから特に目新しいものはない。しかし、自分たちが命がけで守った街だと思うと、やはり特別なものに思えた。
マリウス市は、どの国にも属さない国際管理都市だ。それだけに政治外交的に便利な面もあり、各国の大使館が置かれて、事実上「月の首都」のように扱われている。行き交う人も多彩で、人口も多い。メインストリートは華やかで、地球産の高級服飾店などが並ぶ。一見すれば美しく活気のある街だ。
──それが表の顔だが、根深い裏の面もある。各国大使館が集まっている街、それはすなわち政治的な駆け引きの舞台だ。表で握手を交わしつつ、裏では老獪な魑魅魍魎が権謀術数を繰り広げている。また、多彩な人々といえば聞こえがいいが、それは地位や貧富の差が激しいという意味でもある。
表裏を象徴するのが、よく市民が使う「マリウスの洞」という言葉だ。
もちろん一義的にはマリウス洞窟のことを指す。もともと月面に開いていた自然な洞窟だ。竪穴と横穴が続いていて「住んでください」と言わんばかり。天然のシェルターだから、人類が植民をはじめるのに最適な場所だった。
やがて元の洞窟では足りなくなり、縦横に拡張した結果、いまの姿になった。そのため、裏の意味には「迷路のような」とか「人を惑わす」というニュアンスが含まれる。
実際の使い方は人によってさまざまだ。天然のギフトだと思って飛びつくことをいましめたり、美しい見た目に注意しろとか、裏があるから気をつけろとか──おそらくマリウス市民にとっては、日々肌で実感していることなのだろう。
しかし、いまのカガは思うさま感慨にひたり、表の美しさを愛でたい気分だった。
傍らに立つカイナガを見る視線も、いつもより優しくなる。
もともと腕の良いパイロットとして、気の合う友人として好意を持っていたが、昏睡中はずっと付き添ってくれたという。口調こそラフだし、普段の服装はだらしないが、心根が気持ちいい男なのだ。
今から会うモリ大尉にしても、今回の件で見かたが変わった。
お堅いだけの軍人だと思っていたが、意外と表情豊かだし、怖ければ涙も流す。妙な言い方だが普通に人間だと知った。カイナガとも、お互い憎からず思っているようだし、今日は少し後押ししてみるか──などと、余計なことまで考える。
要するに、カガは浮かれていたのだ。
「来たぜ」
カイナガの言葉で現実に戻り、視線の先を探す。行進のような歩き方で近付いてくる女性がアイだとわかった。
「月面で、あの歩き方はすごいですね」
「普通は浮いちまうのにな。訓練したらしいぜ」
「訓練?」
「月面でも地上と同じように力を伝える技とかなんとか」
「行進のために?」
「まさか」
アイはカガの前にビシっと立ち、敬礼を寄こした。
「カガ船長、お待たせいたしました」
「いえいえモリ大尉、時間ぴったり──いや1分前です」
「なんで制服なんだよ」
「公務の帰りなのよ。ISS-6に行けなかったから、ここで仕事」
「ああ、それは申し訳ないことをしました」
「とんでもありません。勉強させていただきました」
「おい、そういうの店に入ってからにしろよ」
「そうですね。では行きましょうか」
カガが先に立ち、ドアを開いてアイを待つ。レディーファーストが染み付いているからだ。しかし、アイは微笑を浮かべたまま動こうとしない。カガが手を差し出し、入るよう促しても動かない。笑っているだけだ。
「……?」
「おい、これマズいぞ──。逃げるぞカガ船長!」
──そう、カガは浮かれていたのだ。危険なほどに。おそらく、一週間の入院生活で看護師たちにチヤホヤされたからだろう。船乗りが持つべきカン、危機察知能力を失っていた。
カイナガはそこまで腑抜けていなかったが、相手が悪かった。逃げようと振り返った動きが仇になり、アイに襟首をつかまれる。ジタバタしているところに、それは現れた。
「おまたせー」
今日はガバッとしたチェックのパーカーを着て、同柄のこんもりしたベレー帽を乗せている。遠足に行く小学生みたいだ。
「せんぱい! 時間ぴったりです!」
アイは満面の笑顔になり、いつもより明るい声を出す。そして、いまさら逃げようとするカガの首根っこを、カイナガとは逆の手で捕まえた。両手に男二人をぶらさげる。これが「月面でも地上と同じように力を伝える技」だ。訓練の成果が出ている。
「じゃあ入ろっか」
「はい!」
モモカを先頭に、アイが男どもを引きずっていく。




