月面加速器
「いま思えば初手から間違えていました」(船長・加賀友理さん)
「コリンズ・リニア・カタパルト」は、月面最大の超電導加速器だ。
月で採れた資源は、だいたいここから打ち上げる。ときには船も上がっていく。メインは長さ55kmの直線加速路で、月ウサギの耳元を横にまっすぐ──より正確にいえば静かの海に近い月の赤道上に沿って──伸びている。光の加減でキラッと光り、地球からでも見つけやすいから子供にも人気だ。予備加速路は直径3kmの円形で「q」の形で直線路とつながっている。
工学的には、空気がない月ならではの打ち上げ手段だ。地球で同じことをすると、圧縮熱で高温化するか、空気抵抗で墜落する。
経済的には、月は建設資源としての鉄に恵まれ、電力もそこそこ確保できているから可能だった。15年の歳月をかけて建設しただけの価値はあるということだ。
もっとも──毎回ロケット燃料を消費できるだけの経済力は月にないと、いってしまえば身も蓋もない。いまだに月は貧乏なのだ。
その貧乏な月においてさえ、時代遅れになりつつあるのが貨客船だ。文字通り「貨物と乗客を混載して飛ぶ船」だが、経済効率が悪いのだ。貨物はオートパイロットの無人機に載せて打ち上げれば済むし、人は人だけで運んだほうがいい。
それでも貨客船を使い続けているのは、一応それなりの需要があることと、何よりスクラップにするのは「もったいない」からだ。けっきょく貧乏が悪いのよというところに戻る。
そして、その時代遅れの貨客船の中でも、とりわけ年代物であるトパーズが、コリンズの予備加速路に進入した。
「JS1213Cトパーズ、コリンズコントロール、クリアドフォーローンチ」
「トパーズ、クリアドフォーローンチ」
ポートサイド(左舷)を下にした、つまり横向きに寝た状態で、円周上を滑り始める。船が寝ているため、月の弱い重力でも、中にいる人間は左に傾く感覚を持つ。しかし気になるのは最初だけだ。速度が上がるに従って遠心力のほうが強くなり、床面方向に押し付けられるようになる。
予備加速が終わるときの遠心力は1.2Gを超え、左向きに引っ張られる月の重力より7倍大きい。だから、段々と座席にすっぽりとはまる感覚になっていく。いつも通り、何の問題もない打ち上げシークエンス……のはずだった。
「緊急コール、JS1213Cトパーズへ、こちらコリンズ管制」
「コリンズ管制へ、トパーズ交信可能」
「ちょっと加速が悪いなぁ。原因を調べるね」
「了解、待機する」
コリンズ建設時、わざわざ予備加速路を設けたことには意味がある。何かトラブルが起きてしまったとき、対応するチャンスが増えるからだ。
円周上をグルグルと回っている予備加速中なら止めることもできる。しかし、直線加速に入ってしまったらそうはいかない。加速時間は45秒しかないから気付いたところで何もできないこともある。不具合があるのを承知で「打ち上がってしまう」という、危険極まりないことになるわけだ。
そういう意味で、予備加速中に問題が見つかったことは悪いことではない。しかし、管制官のロディが告げたのは意外な原因だった。
「ねぇ質量60kgオーバーだよ。なに食べてきた?」
船長のカガと、パイロットのカイナガは顔を見合わせる。そして同じタイミングで視線を下げ、お互いの身体を見るが、とくに異常はない。そもそも、貨物込みの機体質量は厳格に管理されているのだ。浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「ありえないでしょう」
「なんだそりゃ」
「こっちが聞きたいよ。でも速度が上がってないのは本当だし、なんとかしないと月面宙返りで帰ってきちゃうよ。打ち上げやめてストップする? それとも無理やり加速しちゃう?」
「いちおう聞くけど、ロディはどう思うんだよ」
「ボクならカネで決めるかな。いまさら止めてもキャンセル料かかるし、急加速の方がマシだよね。それはそれで追加の電気代かかるけどさ」
「がめついねぇ。そんで追加料金はいくらなんだよ」
「二千ドル」
ただでさえ積載貨物は半分で、しかも客席は空っぽという、採算ギリギリのフライトを強行したトパーズだ。二千ドルも取られたら始末書では済まない。
「てめえはアホか、それともロディか。それじゃ飛べねぇよ。割引を要求する!」
「えーやだよぉ」
「いいじゃん頼むよ、おまえとオレたちの仲じぇねぇか」
「どちらさまでしたっけ?」
「くっそぉ! てめえやっぱりロディだな!」
しかし、その間にも予備加速は進んでいく。もう時間がない。
「ちっ。わかったよ……。追加料金を払うから間違いなく打ち上げてくれ」
「まかせてオッケー!」
実際のところ、いつも軽口を叩いてばかりか「余計なことをする」と、船乗りから悪評の高いロディも、さすがに焦っていただろう。99.99……9が10コならぶテン・ナインの万全が求められる宙域航路において、イレギュラーは願い下げなのだ。
月離脱まで60数秒しかない中で、ロディはプロの仕事をした。なにしろ、いつもならコンソールに足を上げ、片手にドリンクを持って適当に対応しているはずが、きちんと椅子に座り、コントロール画面を正面から見つめて手を動かすという快挙を成し遂げたのだ。この一年の記録によれば、6ヶ月ぶり3回目だという。
しかし、プロ意識もそこまでで、やはりロディは余計なことをする男だった。
「設定オッケー。まあ、慣れた『運転手』と荷物だけなら耐えられるんじゃないかな。あとボクから少~しサービスしといたよ! じゃあねグッドラック!」
「おい!サービスってなにを言っ……」
言い終わる前に最終加速路に入り、直後にガンッという衝撃的なGがかかった。
「ちょ、ちょっと、待て!」
元空軍パイロットのカイナガでさえ思わず声を漏らすほど加速が強すぎる。
今日の離床質量は60tほどだから、仮に質量60kgオーバーが本当だとしても、わずか0.1%程度の差しかないはず。しかし、通常加速の最大5Gに対して、今は体感で8Gほど出ているだろう。戦闘機のドッグファイトを超えるほどで、明らかに見合っていない加速だ。
それどころか、このままいけば予定の秒速2.4kmを大きく超えてしまう。
「くぁぉぉおお!」
わずか数秒だが、耐えられる限界──ふと、一気に加速がなくなり、無加速の慣性運動に変わった。後方へのGに耐えていた身体が、前につんのめる。
「なんなんだ! ちくしょ……」
身体が自由になったカイナガが吠えようとするが、言い終わらないうちに再びガンッと急加速が始まり、危うく舌を噛みそうになる。
ゴぃンっ!
後方の与圧貨物室で、何かがぶつかった。固定装置が外れて貨物の一部が飛んだのかもしれない。
思わず振り返ろうとすると、また無加速、急加速、無加速……と、1秒ごとに繰り返しながらガックンガックンと進む。こうなれば誰にでもわかる。バカ管制のロディの野郎が、わざと嫌がらせの加速設定をしたのだ。
「あ!の!や!ろ!う!」カイナガの声も1秒ごとのガクガクになる。「ぶ!ち!こ!ろ!」
呪いの言葉が完成する寸前──トパーズはふわりと無重力に投げ出された。カタパルトを離れ、月周回軌道への慣性飛行に移ったのだ。パイロットの習性としてカイナガが素早く計器を確認すると、速度計は予定ぴったり秒速2.4kmを表示している。いますぐロディに文句を言っても「ボクの発進技術スゲーでしょぉ?」と軽口を叩くだろう。
それでもカイナガは、怒りを込めて呪いを完成させた。
「……す!」