78seconds
「そういえば、これ社内規定違反なんですよね」
船外作業服を着たカガが、ロックボルトを外しながらモモカに言う。いまどうしても伝えておきたい話ではない。単なる雑談だ。すでに月の引力に捉えられ高速で落下中だが、押し寄せる風も距離感もないため、見た目は緊迫感がない。
《あるんだね、そういうの》
「ええ。船外作業は7日間で2回までと決まってるんですが、これで4日間に3回目です。始末書ものですね」
《アハハハ。あとで弁護してあげるよ》
会話は生還を前提にしていた。
だが実際のところ、船外作業の繰り返しは、カガの身体に影響している。ひどい頭痛に襲われていることを、誰にも告げていなかった。それは血中に空気の泡ができている証拠だ。いつ倒れてもおかしくない。
それでも無茶な行動をしているのは、自分の生還を前提にしていないからだ。
《それにしても、せんちょはなんでも器用にこなすよね》
「けっきょく船長なんて雑用係なんです」
《あとはアクシデントがあったときに責任をとる係》
「あはは、カイナガがうらやましいです。あっちはパイロット一本に決めた専門職ですから、迷いがなくていい」
《あっちは何でも屋のカガをうらやましがってるかもよ》
「そうでしょうか」
そういうものだろう。ないものねだりで自分にないものを欲しがるのは人のサガだ。べつに悪いことではない。欲しがるからこそ次のステップに進める。逆に無理だと諦めれば成長しない。
「ボルト外れました。カイナガに連絡してください」
《はーい。きっと待ちかねてるよ》
その言葉どおり、すぐに船首スラスターから噴射がはじまった。前部の無圧貨物室から先が、トパーズ本体からゆっくりと離れていく。計算上、ここから自由落下すれば、月面の無人地帯に落ちることになっている。ボロボロになりながら、なんだかんだで守ってくれた正面装甲も一緒だ。感慨深さと心細さを併せた感情で、カガはしばらく見守った。
《次いくよ、せんちょ》
「はい、了解です」
後部を振り返ると、与圧貨物室のゲートが両舷とも全開になっていた。わかっていることとはいえ、音がしなかったため、急な変化に少しギョッとする。
船尾まで張ったテザーをつかみ、貨物室に滑り込む。モモカがはじめに浮いていた場所だ。水タンクを取り外しにかかる。
「モモカさん、これ本当に意味あるんですか」
《あるある。ソレ大事》
船内用の水は凍らないよう与圧室に置いてあった。このあと、他の貨物は捨てる予定になっている。逆進までにできるだけ軽くしたいのだ。
*
アイはカイナガに手伝ってもらい、船外作業服を着ようとしていた。
船外服はそれぞれのサイズに合わせてあるため、基本的には個人専用だ。間違えないように、カガはオレンジ色、カイナガは空色がベースカラー。いま着ようとしている赤色のものは、予備だからフリーサイズだ。三席目のエンジニア席には誰が乗るかわからないので大きめになっている。それでも、背の高いアイにはちょうどいいぐらいだった。
「……おい、それジャマだよ」
カイナガがぶっきらぼうに言う。制服のスカートがひっかかるということらしい。仕方なくギリギリまでまくりあげる。
「見ないでよ」
「見てねーよ」
いくら一緒の風呂に入った仲とはいえ、子供のころの話だ。目をそらしてくれているが、かがんだカイナガの頭が正面にあるのは恥ずかしい。見ていられなくて、アイも視線を外す。ディスプレイには先ほど投棄した貨物が円弧状に広がっていた。ときおり太陽光を反射してきらめく。
「静かだね……」
「……ああ」
なんとか会話でごまかしたいのだが、話が続かない。いつもはベラベラとよけいな話をしているくせに、こういうときに限って黙るのは困る。
なんとか下のほうが終わったらしい。
カイナガの頭がせり上がりホッとするが、今度は胸元の前に来てしまう。
なすすべもなく、されるがまま。
天を仰いで(ふぅ……)と息をついてから、視線を下げて短髪頭のてっぺんを見つめた。
(なにか気の利いたことは言えないのかしら、このガキンチョは)
自分のことはまるっと棚に上げ、心のなかで勝手な悪態をつく。
それでも、この状況下で穏やかにしていられるのは、コイツのおかげかとも思う。市民の命を守るために自分の命を危険にさらすのは、軍人のつとめと覚悟していた──はずだった。しかし、本当に我が身に起これば、思ったよりなにもできない。死が目前に迫っているのに無力だ。そんな現実を突きつけられても、パニックにならず、ヒステリーも起こさないのは、安心する人が一緒にいるからだ。
「できたぞ」
無愛想な顔が目の前にあった。気密チェックを終えたカイナガの両手が首元にかかっている。
実は一度だけキスしたことがある。
中学を卒業するころで、ちょっとした好奇心だった。それ以降はとくに発展することもなく、二人の間ではなかったことのようになっていた。
それがいま、こんなとき、こんなところで二人っきり。
あと少しで衝突する月面が大きく迫っている。
アイは、自分の瞳が閉じていくのに気付いたが、それは自然なことだと思った。
目の前で何かが動いたことは、頬にあたる風の流れでわかった。
「バーカ、そういうことは帰ってからだ」
おでこをコツンとつつき、カイナガがパイロット席に向かっていく。
アイは、その後ろ姿を少し上目遣いで眺めた。
(ちょっとは成長しなさいよ、バカ……)
*
月面を下にして、二機の一式宙域練習機TS-1が飛んでいく。巡航ではないが、最高速でもない。これ以上スピードを上げてしまうと、軌道も上がってしまうからだ。102号機に乗った木津大尉は、もどかしい気持ちだった。
向かう先には元上官の海永がいる。「元」になってしまったのは、木津のミスが原因だ。新人が操縦を誤ることは、誉められたことではないが、仕方のないことでもある。いちいち首にしていては成長できないという理由で、木津は訓練を継続することになった。
一方で、海永は空間宇宙軍を去ることになった。命令不服従とみなされたからだ。軍隊組織は上意下達が大原則であり、勝手な自己判断は許されない。操縦ミスと違い、意思を持って逆らったのだから重罪だ──それはわかるが、拭いきれない負い目を感じた。せめて報いたいと、必死で上達を目指し、いつしかトップに立っていた。その恩人を救うために、いま木津は飛んでいる。
遭難信号を受けて緊急発進したものの、はじめは何かできると考えていなかった。ただ現地の方へ飛び「やるだけのことはやりました」という姿勢を見せるだけかと思っていた。
しかし飛行中に、合衆国軍から「海永と森空軍大尉を拘束せよ」という依頼が来た。拘束というのはお得意のジョークなのだろう。とにかく二人を生きて連れ帰れという意味だと理解した。
続いて政府からも連絡が来た。到着座標と航行速度の指定がついた具体的な指示だった。ただし指定時刻はギリギリで、先入り待機ができない。ワンチャンスにかけろということだ。
そして、つい先ほど入ったのは「操縦の上手い方が、赤色の船外服を救え」という指示だ。遭難したトパーズからの伝言だという。海永からのリクエストだと確信し、木津は「自分がやる」と手を上げた。
おそらく赤色は森大尉だろう。海永は「上手い方が自分を救え」と言う人ではない。
「あいかわらずスケベなんだから」
絶対に基地へ連れ帰り、目の前で言ってやるつもりだった。
*
いま、コクピットにはカガだけがいる。座っているのはパイロット席。この席の主は頑強に抵抗したが、女声三部合唱に負けて、ついに明け渡したのだ──。
「政府および合衆国軍からカイナガとモリと名指しされていマス」
「しらん!」
「私を助けるって約束したでしょ」
「してねぇ!」
《はやくどいてよ。それとも自分の質量は『誤差』だとでも言いたいの?》
「……っぐ、そうだよ!」
《抵抗するなら、その『制服』とって捨てるわよ》
「おい! モモカそれやめろ! だまれ!」
《アイにぜんぶ言うわよ》
「ツヨシくん、制服ってなに……?」
「アハハハ、それは後で話そう、な!」
強く抵抗していたにもかかわらず──可及的速やかに席を空けたのだった。
そのカイナガは、アイと一緒にエアロックにいる。
これからの振動に備え、自分たちの身体をテザーで固定したはずだ。
確かめたいが、双方向通信を切ったため確認できない。
わざわざ通信を切ったのは、彼らの決断が鈍るのを防ぐためだ。
「これからカガを置き去りにして脱出を試みる」
その決断は、逃げる方にとっても残酷なことだった。
「トパーズ、カウントダウンは船内放送で流してください」
「承知しまシタ」
カガは振り返ってコクピットを眺めた。
この船に乗り込んだときには、すでに旧式だったが、やはり愛着はある。
からっぽの船長席がさみしい。
沈むときには、あそこに座っていたかったと思う。
それは感傷だったが、本音でもあった。
「ロケットモーター点火まで10秒デス」
ハーネスの締まり具合を確認する。
座り直して、ゆっくりと目を閉じた。
「5、4、3、2、1、点火」
ガンッという衝撃とともにシートに抑えつけられた。
2基あわせて225kNの固体ブースターが咆哮を上げる。高速で落下していたトパーズに逆進がかかり、速度計が目まぐるしく変化した。
噴射時間は120秒。まだまだ続く。
エアロックにいる二人を心配する。カイナガはともかく、アイは空軍所属とはいえ戦闘機乗りではない。強烈なGで気絶してしまったら、その後に脱出できなくなる。なんとか持ってくれよと願う。それからのことは、また別の話だ。
コンソールを見る。衝突予定時間の見積もりが繰り上がっていく。これがゼロになることは、つまりトパーズが月面に接触していることを意味する。軟着陸であろうが、衝突してしまおうが、どういう形であれだ。逆に数字が増えるほど、最後の瞬間までの時間が増える。もっとも増えたからどうだというわけでもない。つかの間の延命だ。
後方を確認したいが首を動かせない。船尾カメラを呼び出して、正面のディスプレイに映しだす。2機のTS-1が近付いてくるのが見えた。あれがモモカのいう「タクシー」だ。二人を拾って基地まで送り届けてくれる。ただし、拾うのは神業だろう。まったくモモカの提案は無茶苦茶だ。
「ロケットモーター燃焼終了まで10秒デス」
ディスプレイを元に戻して、速度計を確認した。
月面との相対速度がゼロになろうとしている。
トパーズは一瞬だけ「月の上空5千メートルで浮遊停止」するのだ。
脱出のチャンスは、その一度だけ。
再び自由落下をはじめるとき、衝突予定時間の見積もりは78秒になるはずだ。
TS-1が船尾方向から上がってきて、真横に並びつつある。
「5、4、3、2、1」
「脱出っ!!」
二人には聞こえるはずもないが、カガは思わず叫んでいた。
*
ロケットモーターの振動が止まると同時に、後ろからツヨシくんに押し出された。
目の前にはエンジンをアイドリングさせたTS-1がいる。102号機に拾ってもらえと言われていた、その機体だ。コクピットのキャノピーは開いていて、ヘルメットをかぶったパイロットが距離を測っているのも見える。
自分も、TS-1も、トパーズも、すべてが同時に自由落下している。だから、落下速度は増しつつあるのに、相対的には並んだまま。頭では理解していても、やはり不思議な感じがする。スカイダイビングと同じことだというけれど、向かってくる風がないから変な気分だ。
視線だけ動かして足元を見る。もう近すぎて「月」という感じはしない。
真っ白な砂漠の上に浮いているだけだ。
本当は落ちているのに、落ちている気がしない。
それでいて足場もない。
ツヨシくんは「ただ浮いていろ。どうせできることはない」と言っていた。
たしかに、なにもできない。
人まかせで拾ってもらうのを期待するしかない。
ないないない。ないないづくしだ。
TS-1が近付いているのはわかる。だんだん大きくなっているから。ただ、近付くほどズレが気になる。遠くにいるときは簡単だと思えたのに、近くになるほどスレ違うんじゃないかと心配になる。
あのパイロットも、もう少し近付く努力を見せればいいのに。もっと必死さを見せて欲しい。そうすれば、こっちだって安心する。もし失敗しても許せる。
そう、努力してくれたならスレ違っても許せるのに。
ほら、通り過ぎちゃう。
チャンスは一回だけなんでしょ。
それを逃したら……ダメ……じゃない……。
失敗を確信したアイは、涙が出そうになって、目をつぶった。
「ツヨシくん……」
そうアイがつぶやいた──のは、木津がタ・タンと2回スラスターを操作した後で、もうTS-1の後席に吸い込まれていた。
「ツヨシくんって海永先輩のことッスか」
アイがハッと目を開ける。
「妬けちゃいますねぇ。どうスか、もうチューとかしたん……てっ、いてっ」
木津は後頭部をアイに攻撃されながら加速を開始した。
*
飛び去っていくTS-1を確認して、ホッと一息ついた。衝突予定時間の見積もりは68秒になっている。その間わずか10秒のことだったが、祈るような気持ちでディスプレイを見つめていただけに、カガは全身の力が抜けていくように感じた。
とにかく二人は無事「タクシー」に乗ってくれたのだから、あとはここから離れてくれればいい。月面でなにが起ころうと──仮にそれが大規模な爆発であろうと、十分な距離があれば対処できるだろう。
《あたしたち二人になったね》
「心強いかぎりですよ、モモカさん」
本心から出た言葉だ。たとえ声だけの存在であろうと、独りにならないのは気が楽だった。
「私もついていマス」とトパーズが口をはさむ。
《ゴメンこめん。そうだ、三人だった》
「ひどいデス。私たち『チーム』なのでショウ」
《わるかったってば。トパーズさんにも、ひと仕事してもらわなくちゃね》
「おまかせくだサイ」
アハハハと笑いあう。カガは微笑みを浮かべて、やりとりを聞いていた。しんみりされるより、こうして笑っていく方がいい。
ミラージュに押し込まれた直後、トパーズの見積もりは「地球換算で少なくとも3百メートルのビルから自由落下」だった。いまは月面上空5千メートルから落下中、地球換算なら高度8百メートルから落ちるのと同じだ。どうなるかが明白なだけに、かえって期待することなく覚悟を決められる。
それに、自分の仕事はやりきったという満足感もある。
最終突入速度が当初の見積もりより上がったのは、マリウス周辺の人口密集地を避けるために推進剤を使った結果だ。
「第一は月面の被害を最小限にすること。第二は一人でも多く生き残ること」
そう目標を立ててから3時間足らずでクリアした。
(悪くない──)
カガは目をつぶって、およそ1分後に迫った最期のときを待つ。
《カガせんちょ、やるよ》
そうだった。その前にモモカの「いいかんがえ」に付き合わなければならない。本当にガチャガチャしていて、しんみりなんてさせてくれない娘だ。
(やれやれ……)と目を開けて、腕をぐるっと回す。両頬をパンパンと叩いて気合を入れた。
「イェーイ! 今日もかっ飛ばしていくぜ!」
《アハハハ、なにそれ》
「いきますよ、モモカさん! いつものお願いします!」
《わかった! えーこほんこほん》
《──大丈夫だよ。このチームなら》
《今回も、きっとうまくいく》
《カガとトパーズとあたし。三人のチームは無敵だよ──》
《チーム・トパァ~ズ、ファイ!》
「「オォー!!」」
カガは楽しげに腕を振り上げた。
《トパーズさん、カウント!》
「衝突まで、25、24、23」
「タンク放出!」
カウント22で、船尾に移動してあった水タンクを打ち出す。
尾栓が外れ、トパーズが落ちてゆく先に氷の帯を作り出した。
「21、20、19」
「後部スラスター開放!!」
《レーザー発射あっ!!》
ピカッ
はじめ──トパーズの下方に小さな火の玉が生じた。
しかし、それは急速に成長し巨大な火の球となっていく。モモカの指示で照射された軌道上の3Sレーザーが、噴射ガスと氷を相転移させ、プラズマ火球を作り出したのだ。
放出される莫大なエネルギーが押し寄せる。
展開したイオンスラスターや、羽根のように広げたカーゴベイが帆の役割をして、トパーズに飛翔する力を与えた。
狂った奔流に押し戻され、トパーズの船体が苦しみもがく。
姿勢を制御しようと、カガがスラスターを操作する。
上昇気流のようなエネルギーの風。
一瞬でも乗りそこねれば真っ逆さまに墜落。
一瞬でも気を抜けばプラズマに巻き込まれる。
あまりにも危うい賭け。
それが、モモカの「いいかんがえ」だ。
《がんばって! カガ!》
「落下速度、低下!」
《いけそう!?》
「なんとか!」
二人が希望を持ちはじめたときだった。
「プラズマ火球、消失しマス」
「……え?」
《ちょっとウソでしょ!》
「3、2、1、プラズマ火球、消失しまシタ」
「ここで!?」
《やだ、やだやだ~!!》
──たしかに、はじめは上手くいっていたのだ。
だが、いくらなんでもぶっつけ本番すぎた。
途中で総エネルギーを使い果たし、トパーズは飛翔する力を失った。
そのとき月面上空およそ100メートル。
トパーズはゆっくりと船尾から落ちていき、月面に刺さったあとパタリと倒れた。
*
《……んちょ、カガせんちょ。起きてよ、お願いよぉぉ……》
コクピットにモモカの泣き声が響く。
カガの身体は、パイロット席の下に横たわっていた。
ところどころディスプレイが割れ落ち、破片があたりに散らばっている。
スラスターは自動停止し、音も振動もなにも発していない。
静寂のなか、モモカの声だけが聞こえていた。
パイロット席の下で、白いものが揺れている。
モモカが大月温泉で買った、きつねの御守だ。
もらったと聞いていたが、カイナガこんなところに付けていたのか。
「きつね──」
《……せんちょー!?》
「きつねの御守──効きましたね、モモカさん」
《アハハハ、よかったぁ、えっぐ、ほんどに良がっだぁアハハハ》
モモカは泣きながら笑った。




