その72の3『蜃気楼の話』
冷やし中華の甘じょっぱさのおかげで、うだるような暑さの中でも不思議と食が進み、めんの一切れも残さずに知恵ちゃんは完食しました。ですが、冷やし中華の上に乗っていたさくらんぼの食べるタイミングが解らずに残していたところ、スープにひたって微妙な味になってしまったことだけが一抹の後悔となりました。
「知恵。晩ご飯はカレーでいい?」
「いいよ」
「なにか、カレーに入れたいものある?」
「ハンバーグ」
知恵ちゃんの要望はカレーの具材の範疇を超えていたので、お母さんは夏野菜のカレーを作ると勝手に決めました。食後の胃に空きを見つけて、知恵ちゃんはソーダ味のアイスをかんでいます。それを食べ終えた頃合い、家のインターホンが鳴りました。
「知恵。アリサちゃんが遊びに行かないかって」
「……?」
あれだけ暑い思いをして帰ってきたのに、また遊びに行くのかと知恵ちゃんは困惑しています。でも、玄関にいる亜理紗ちゃんは大きな水筒を持っていて、その中身に知恵ちゃんは興味を引っ張られていました。
「アリサちゃん。それ、なに?」
「ゆらゆらを調べに探検に行くから、水筒をもらった。中は麦茶」
「私も準備する」
自分も水筒に入れた飲み物を飲みたいと考え、知恵ちゃんはお母さんに水筒がないかと聞いてみます。お母さんが出してくれたものは亜理紗ちゃんの持っているものよりも細いものでしたが、それに詰まるだけの氷とスポーツドリンクを入れてくれました。水筒の内側は金属でできていて、振ればカランカランと氷の音が聞こえます。
「知恵。また外に行くの?」
「これは玄関で飲むだけ」
「行ってきなさい……」
汗だくで帰ってきて着替えたばかりなので、知恵ちゃんは外に出たがりません。亜理紗ちゃんと一緒に玄関で水筒のジュースを飲んでいましたが、また着替えればいいからとお母さんに外で遊んでくるよう勧められました。
「……暑い」
亜理紗ちゃんに習って、知恵ちゃんも麦わら帽子を被って外へ出ます。太陽の傾きは少なく、隠れて歩ける影も多くありません。近所の家の庭からはみ出ている木陰の下で、知恵ちゃんは亜理紗ちゃんに行き先を尋ねます。
「どこ行くの?」
「暑そうなところ」
「……どこ?」
「校庭とか……」
暑い場所をと考えたところ、亜理紗ちゃんは真っ先に学校の校庭を思い浮かべました。ただ、そこへ辿り着くまでの間にもコンクリートの上などには空気のゆがみがあり、遠目に観察していれば段々と見えないものが見えてきます。
「……ちーちゃん。木だ」
「木?」
車道の真ん中に、ぼやっとした木らしきものが立っています。それをすりぬけて、車は問題なく走り去っていきます。やっぱり近づくと幻は消えてしまい、それが本当はなんだったのか確かめようがありません。そうして通学路を行き、学校の横を抜けて2人は校庭へと入りました。
「……ちーちゃん。今日は誰もいない」
「部活動もないのかな」
校庭には子どもの姿は全くなく、先生もいませんでした。校庭の黄色い土は高温をまとっているのか、太陽の熱を受けて輝いています。校庭の中央に空気のゆらいでいる場所を見つけ、2人は水筒の飲み物を口に含みながらながめていました。
「……穴みたいなのがある気がする」
「……穴?」
亜理紗ちゃんが校庭の中央を指さし、そちらへ知恵ちゃんも目をこらします。校庭の真ん中には洞窟の入り口を思わせる横穴が開いていて、でも校庭に穴なんてあるはずがありません。亜理紗ちゃんは水筒を知恵ちゃんに手渡し、あつあつの校庭へと足をふみいれました。
「行くの?」
「行ってみる」
ゆっくりと歩いていきます。亜理紗ちゃんが洞窟の穴へ近づくと、空気のゆらゆらの中にある洞窟の入り口は消えてしまいました。知恵ちゃんのいる場所まで戻ってくると、消滅した穴は復活します。
「……」
亜理紗ちゃんは体育の授業でも出さないであろう全力疾走で、校庭に開いている穴へと駆け寄ります。でも、また知恵ちゃんの近くに戻ってきて、くやしそうに水筒の麦茶を飲みました。
「……」
「アリサちゃん。何してるの?」
今度は校舎の影に身を隠し、そこから駆け出すようにして走り出しました。校庭の中央まで行って、また亜理紗ちゃんは歩いて戻ってきます。くっと勢いよく冷たい麦茶を飲みながら、亜理紗ちゃんは謎の横穴の入り口へと目を向けました。
「油断させてもダメだったか……」
「あれ、油断させようとしてたんだ……」
その72の4へ続く






