その52の3『声の話』
亜理紗ちゃんの声を出す貝は知恵ちゃんの手の中で沈黙していて、知恵ちゃんは貝を持ったまま海に近づきます。すると、貝は水に入りたくないとばかりに知恵ちゃんを引き留めました。
「私はお水に入ると、しゃべれなくなっちゃう」
「貝なのに……」
「ちーちゃんの世界の貝はしゃべらないと思うの」
「……やっぱりアリサちゃんなんでしょ?」
「アリサちゃんじゃないよ」
仕方なく、知恵ちゃんは貝を砂浜に置いて、ゆっくりと水に足をつけてみます。知恵ちゃんの服はパジャマではなく、透明感のある白いワンピースへと変化しています。ワンピースのすそがひらめき、ゆっくりと海水へと入っていきます。
「……?」
「ちーちゃん。冷たい?」
「つめたくはないけど」
足は水に触れています。しかし、ぬれた感覚はありません。ワンピースのすそにも水はしみこまず、水は目に見えているだけで体や服に影響をおよぼしません。そのまま知恵ちゃんは海の中へと歩みを進めます。水の重さも感じぬまま、知恵ちゃんは頭の先まで水へとひたります。
「ちーちゃん。声は出せる?」
「……うん」
「海の中の仲間に、よろしくね」
砂浜から届く貝の呼びかけを受けて、知恵ちゃんは水の中で声を出してみます。海水が喉に入ってくることもなく、すんなりと声が出ます。貝の声も水に揺らされてはいますが、しっかりと知恵ちゃんの耳に届きます。
知恵ちゃんの目の前には海の中へと続く洞窟があり、うっすらと陽の光をうけていた青い水は、次第に灰色へと変わっていきます。もう足元すら見えなくなる……その寸前、暗闇の中に電球のような灯りが浮かびました。
「これで見える?」
「……」
知恵ちゃんの目の前には黒い体の魚がいて、おでこについたツノは光を放っています。その魚も貝と同様、亜理紗ちゃんの声で話しかけてきます。でも、魚の声は口の動きより少し遅く聞こえ、口にあわせて声をつけているように見えます。
「ワタシが、この先の明るい場所までつれていくよ」
「アリサちゃんなの?」
「アリサちゃんじゃないよ。アリサちゃんはカーテンの後ろに宝物をかくしてて忙しいの」
魚のツノから出る光に照らされ、海の中の様子が浮かび上がってきます。足元の砂には様々な貝が落ちていて、知恵ちゃんが近づくと砂の中へと逃げ込んでいきます。水の流れの中に見える粒のようなものは小さな魚の群れで、洞窟にあいているせまい横穴から出ては、別の穴へと入っていきます。自分がどこへ向かっているのかと、知恵ちゃんは黒い魚に問いかけました。
「……この先に、何があるの?」
「出口だよ」
「出口につくと、どこに行くの?」
「アリサちゃんが待ってる」
海の中にある洞窟は一本道で、右へ左へとうねりながら続いていきます。知恵ちゃんが振り返ってみると、裸足で歩いた足あとが、水にこすられて消えていきます。かくれてしまった貝や魚も体を揺らしながら、知恵ちゃんの後ろ姿をながめています。
「ちーちゃん。ここから先は、光がなくなるよ。声を聞いて、ついてきてね」
魚のツノから発せられていた光が暗闇にかき消され、知恵ちゃんの目には何も見えなくなりました。知恵ちゃんは足を止め、前を泳いでいるであろう魚へと声をかけます。
「……どっち?」
「こっちだよ」
「こっち」
「こっちだよ」
魚の声に交じって、いくつもの声が聞こえてきます。どれもが亜理紗ちゃんに似た声をしていて、同じ方向から知恵ちゃんを呼んでいます。何歩か歩いて、また知恵ちゃんは行き先を確かめました。
「どっち?」
「こっちだよ」
「こっちじゃないよ」
「こっち」
「こっちでもないよ」
行き先を示す声に加えて、間違えた道に入らないよう注意する声も暗闇に漂います。呼び声に従って歩いていくと、今度は周囲の声が自然と呼びかけてきました。
「そっちじゃないよ」
「そっちでもないよ」
「そっちではないよ」
「どっちなの……」
正解の道よりも不正解の道の方が多く存在し、なので不正解の道からばかり声がします。惑わされながらも知恵ちゃんは正しい道を探して歩き続け、次第に魚のツノが放つ光が視界に戻ってきました。
「もう出たから、暗くないよ」
「……」
海上から光が降り注ぎ、目の前を泳いでいる黒い魚の姿が輪郭を取り戻します。知恵ちゃんの通ってきた道は暗闇に閉ざされていて、誰が知恵ちゃんに進路の指示を出していたのかは解りません。その暗闇の中からは引き続き、相談するようなひそひそ声が聞こえてきます。
「私、ちょっと道を間違った」
「でも、ちゃんと出られてよかった」
「私も、少し間違ったの。バレてないの」
「……あの、聞こえてるんだけど」
その52の4へ続く






