宿屋の一室にて
地下の闘技場から地上に続く石階段を登って外に出ると、茜色の陽光が目に染みて涙が出そうだった。
薄暗い中にいたせいで、瞳が明順応するまでしばらくかかる。
あの闘技場は元々監獄だった施設を改築したものだったらしく、そのためか、出入口は街外れにあった。
そこからテファーヌの案内で、彼女が現在寝床にしているという宿屋に向かった。
彼女が一国の王女ということは、先程の中年親父とのやり取りで何となく理解出来たが、そんな高貴なお方が宿泊する場所として相応しいとは思えないほど寂れた宿屋だった。
だが宿屋までの中途、テファーヌ達が紺のローブで姿を隠していたことを考えると、お忍びの旅行か何かなのかもしれない。
この時の俺は、そんな能天気な予想をしていた。
一階の宿屋の女将への挨拶もそこそこに、俺達は二階のボロ部屋に入った。
狭い一室だった。虫食いだらけの布団が敷かれたベッドが一台と、その脇にがたついた丸テーブルとイスがあるだけの部屋だ。本当に、王女が外泊する部屋なのだろうか。いや、そもそもテファーヌが王族かどうかも疑わしくなってきた。
「ようこそ、アイバ様。少し狭いお部屋で窮屈かもしれませんが、どうかご容赦ください」
テファーヌが照れ笑いをしながら頭を下げた。
俺がテファーヌの正体を疑ったことに気付いたのかもしれない。
「あ、いえ、色々と、ありがとう」
まあ、テファーヌが何者であっても、あの奴隷商人の親父から助けてもらったのは事実なので、お礼を述べるのが筋だろう。
「いえ、お礼を言われるようなことは何もありません。……それでは、改めて自己紹介をいたしましょう、私は、テファーヌ・ド・オリファンと言います」
テファーヌは羽織っていたフード付きローブを脱ぎ、隠していた高貴な顔立ちを露わにするとにっこりと微笑む。
それから、彼女が自己紹介を兼ねて一方的に話してくれたので、俺はこの世界について学ぶことが出来た。
まず、この異世界の名はローランド大陸というらしい。
ローランド大陸はいくつかの国に分かれており、ここは大陸の中央に位置するオリファン王国。そして俺がいるこの街は、オリファン国の東端にあるオリヴィエの街というところらしい。
テファーヌはオリファン王国の王女の一人。王位継承権の第二十三位ということだが、
「王位継承権を持つといっても、二十三位は王族の中で最下位です。本来、王族は王宮に住まうのが習わしなのですが、私の場合は城下町に近いお屋敷で生まれ育ちました。よく街の子供達と遊んでいたので、今でも王国のお転婆姫などと一部からは呼ばれています」
そう言ってクスリと笑う。
「そのため、確かに王族という立場ではありますが、あまり身分に拘りはありません。だからアイバ様も固くならずに接して頂けると嬉しいわ」
そんなことを言われても、王女様と聞いて平然としていられるような肝っ玉は持ち合わせていない。
「……テファーヌ様、あまりこの者に気をお許しにならない方がよろしいかと。まだ素性も知れぬ男です」
テファーヌの護衛らしい人物が、フードの下から忠告が飛ばした。
「……ジャン。お説教の前に、ローブを脱いだらどう。もう人の目は無いのだから、こそこそしている必要も無いでしょう」
呆れ口調のテファーヌ。
ジャンと呼ばれた護衛は、その指示に従ってローブを脱ぎ、素顔を晒した。
現れたのは、端整な顔立ちだ。肩まで届くブルネットの髪が、窓から差し込む夕日を受けて艶やかに輝く。まつげが長く、艶やかな桃色の唇でありながら、厳格な雰囲気を持つたため中性的な顔立ちだ。
年若い男にも、うら若き女性にも見える。
「アイバ様、紹介いたします。私の護衛の騎士であり、侍女でもあるジャン・デュ・ゲクラン。こんな名前をしているけど、女の子です」
テファーヌに紹介されたジャンは俺を一瞥してから、お辞儀をする。
だが彼女が俺に対して不信感を持っていることは明白だった。抜き身の剣のように鋭い眼光が、俺の一挙手一投足に注がれている。この場で俺が少しでも変な動きをしたら、すぐにでも床に組み伏せようと考えている眼だ。
「テファーヌ様。彼が何らかの手品を使って、無詠唱魔法を演出して見せた可能性があります。今は世情が混乱し、不安定な世の中ですから、彼がテファーヌ様のお命を狙うために近づいたということも考えられます」
どうも、俺は信用が無いらしい。いや、まあ、当たり前だが。
「でも、私があの地下闘技場に行ったのは、単なる偶然よ。……大体、荷運びのための従者を見繕う必要があると言って、嫌がる私をあそこに引っ張っていったのはジャンでしょう?」
「それは、そうですが……」
テファーヌの反論に、ジャンが言葉を濁す。
「ほら、これでアイバ様の疑いは晴れたわね。それじゃあ、これからはちゃんと仲良くしてよ」
子供のように笑ったテファーヌが、親しげにジャンの肩を叩く。
一体、二人はどういった関係なのだろう。
単なる姫とその護衛、と呼ぶには少々パーソナルスペースが近い気がする。
テファーヌからジャンへの接し方はまるで年の近い姉妹のようだ。それにジャンからテファーヌに対する言動も節度をわきまえているようでありながら、それなりに砕けた態度のように見える。
「さて、今度はあなたのことを聞かせていただけないかしら、アイバ様。まずは単刀直入に聞きます。……あなたは、千言万語の紡ぎ手なのですか?」
脚の高さが揃っていない丸いテーブルの上に身を乗り出したテファーヌが、眼をキラキラさせて問いかけて来た。
……時々、耳にしたその名称、千言万語の紡ぎ手。
何のことか、さっぱりわからん。
「……えっと、その、わか、りません」
吃音が出ないように、言葉数を少なめにして答える。
「ふぅん、自覚はないのですか? でも、あなたは無詠唱魔法を使ったではありませんか。それこそ証拠なのではないですか? これまでにも、あなたは無詠唱魔法を使ったことはないのですか? ご出身は? ご両親は? 今まで何をしていましたか?」
テファーヌの詰問がどんどん増えていく。
……どうやって答えるべきだろう。
これまでに経験したありのままを告げることは可能だ。だがそれを信じてもらえるか。それに何より、俺の吃音が出ないかどうかが問題だ。
小さく息を吸って、気持ちを落ち着かせてから、口を開く。
「俺は、この世界のにん、……人ではありません。べ、……他の世界から来ました」
『人間』というところを『人』、『別の世界』という単語を『他の世界』と入れ替えることで吃音が出ないようにする。この言葉の言い換えは、小学生の高学年になってから覚えた、吃音への対処法だ。
無論、根本的な解決ではないし、言葉を選びながら話すことになるので会話のテンポも遅くなる。そのせいで同級生の会話の輪に混ざることも出来なかった。学生の会話は中身よりも掛け合いの速さが重要だったから。
だけど、これが一番、俺が落ち着いて話せる方法だった。
テファーヌとジャンは、俺の遅々とした話し方について文句を言うことは無く、静かに聞いてくれた。俺の話し方よりも、話の内容の方に興味があるのだろう。
俺は、魔法のない世界から来たこと、無詠唱魔法とやらがなぜ使えたのか分からないことといったことを、洗いざらいぶちまけた。
全てを聞き終えたテファーヌは納得したように頷く。
「うん、やっぱり、伝説で伝わる通りね。異なる世界からやって来た異邦人。無自覚ながらもなぜか扱えてしまう無詠唱魔法。まさに全てが符合するわ」
「……そうでしょうか。トリックや演出によって、彼が無詠唱魔法を使ったように見せかけることは可能でしょう。……もし、本当に彼が千言万語の紡ぎ手ならば、手っ取り早く証明してもらいましょう」
パッと顔を輝かせて両手を合わせるテファーヌとは対照的に、ジャンの目が疑わしそうに歪んでいる。
うう、怖い。これが女の子だとはとても信じられない。
しかし、無詠唱魔法の証明なんて。
さっき使った炎を噴き出す魔法をこんなところで再現したら、大火事になってしまうのではないだろうか。
困惑している俺をよそに、ジャンは自前の革鞄から一冊の本を取り出し、俺の前に突き出した。
「……この本をどこでもいいから開いて、そのページを読み上げてみろ」
何か特別な本なのだろうか。
本というよりも、紙の束を紐で結んだだけのように見える。
古文書とかの類なのかもしれない。
そう思いながら、古めかしい紙をめくる。
そこには奇妙な文字が綴られている。
これがローランド大陸の言語なのだろうか。中世欧州風ファンタジーだと、アルファベットのような文字のイメージがあるが、ここに記載されている文字は違う。
いくつかの種類の部首が集まり一つの文字を構成しているようなので、どちらかと言うと漢字に近い。中国語の本や漢文を読んでいるような気分だ。
こんなの読めるわけがない。
……。あれ、待てよ。
だが、実に奇妙なことが起こる。
(……デュランダル同盟に属するテュルパン市の北西に伸びる山岳には、バシリウス金属が眠っている。この金属で打った剣は、決して折れることのない不滅の刃を得る。……)
漢字のような異世界文字を視認した時、その文字の意味が頭の中に浮かび上がったのだ。
母国語である日本語を読んだ時とは違う。だけど英語の教科書を眺めながら必死に翻訳しようとした時とも違う。脳裏に文字の意味がふわーと湧き上がるという、実に不思議な感覚だった。
「北西に伸びる山には、……ば、バシリウス金属が眠っている……」
頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしたら吃音が出ると思ったので、少し改変しつつ内容を読み上げる。
「……まさか、……こ、こっちの本は?」
驚嘆したように息を呑んだジャンが、今度は別の本を読めと突き出して来た。
それもまた異なる文字だった。こちらは筆記体のアルファベットに似ている。恐らく世間一般が思い浮かべるファンタジー世界で使われる言語に近いのではないだろうか。
「……ヴ、ヴ、ヴ、ヴェイヤンテフ国に住まう我らエルフの一族は他国の干渉を受けずに、自然と共に生きることを望む」
こっちも浮かび上がった言葉をそのまま口にする。
しかしファンタジー世界の固有名詞は、どうしてどれもこれも読み難いのだろう、吃音泣かせである。
有難いことに、テファーヌ達の興味は別のところにあるようで、俺の吃音など気にした様子は無かった。
「古エルフ語が読めるのなら、もう間違いは無いのではなくて? 彼が千言万語の紡ぎ手であることは、もう疑いようはないわ」
「……ええ。驚くべきことですが。……信じざるをえません」
ジャンの目から疑いの眼差しが引いていく。
よく分からないが、認められたということで良いのだろうか。
「あ、あの、今のは?」
「……試すような真似をして、申し訳ありませんでした、アイバ様。……ですが、これではっきりしたのです、あなたは私達の世界に伝わる伝説の英雄と同じ力を持っています。千言万語の紡ぎ手、ああ、まさか、この時、この場で出会えるなど、運命としか呼び用がありません」
ピタリ、と俺の右手がテファーヌの両手に包み込まれる。
や、柔らかい、まるでマシュマロのようにふわふわで、摩擦係数が存在しないかのようにスベスベだった。
「せ、せせせっせ、せんげん、ばんごって、ななな、何ですか……?」
このどもりは吃音ではなく、童貞特有の女体耐性の無さによるものだった。自分の純情さが憎い。
「……そうですね。異なる世界から来たあなたには、事の次第を最初からお話した方がよいでしょう」
そうしてテファーヌは語り始めた。