闘技場
目が覚めたのは全身の痛みのせいだった。
特に背中と脇腹がハンパじゃなく痛い。
閉じていた瞼をこじ開けて、光情報を捉える。
周囲は真夜中のように暗い。それにジメジメとした湿気を感じる。洞窟の中かとも思ったが、横たえる身体の感覚としては平べったい床の上に寝かされているようだ。もし洞窟なら小石がゴロゴロと転がっていて、とても寝っ転がれないだろう。そうなると人工物の中にいることになる。
視覚が暗順応して、周囲の様子がおぼろげながら見えてくる。
粗末な木製のベッドが壁際に置かれ、薄汚れた布を被っていた。薄暗い空間の中で唯一光が差し込む方向には、錆び付いた鉄格子がきっちりと嵌められていて、俺が抜け出せる隙間はなかった。
地下牢、という表現がピッタリだ。映画や漫画でよく見る光景だが、実際に自分が中に入ってみると居心地の悪さがよく分かる。
狭苦しい上に、出入り口は鉄格子になっているため密閉性が無く、外気がモロに流れ込んで来る。今が夏場ならば、蒸した熱気が溢れ返っていただろう。だが幸いなことに今の気候は春に近いらしいので、耐えられないほどの熱さでは無かった。
しかし今いる場所のことなどどうでもいい。
問題は先程の出来事が夢じゃなかったことだ。
まさか本当に異世界に来てしまうとは、思わなかった。
これから先、どうしていけばいい。どうやったら元の世界に戻れる。いや、そもそもこれからどうやって生きていく。衣食住は? 生活環境が中世レベルだとしたら、とても現代人が生きていけるとは思えない。
……落ち着け。冷静になれ。
まずは現状を見極めないと。
両目を瞑り、深呼吸を一つする。
困った時、焦った時には深呼吸というのが、小学生の時に通った吃音矯正セミナーで習った教訓だった。吃音の改善にはまるで役に立たなかったが、それでも気持ちを切り替えることの大切さを学べた。まさか異世界転移後でも役に立つとは思わなかったが。
通っていた当時は馬鹿にしていたセミナーだったが、その評価を改めるべきかもしれない。
少し落ち着いたところで、周囲を伺い、集めた情報をクリアな思考で精査する。
地下牢に閉じ込められているものの、両手両足の自由はある。拘束されているわけではなかった。
ゆっくりと鉄格子に近づき、地下牢の外を覗く。
人の姿は見えない。全体的に石造りの空間で、木製の机と椅子が置いてある程度の違いの他には地下牢の内部とさほど変わらないようだ。
「ほお、目覚めたかね」
すると野太い男の声が掛かった。
恰幅の良い中年男性が薄い闇の中から、突き出た腹を揺らしながら現れる。ファーのついた毛皮のコートを羽織り、太い首と指には宝石の細工が凝らされた貴金属のアクセサリーを身に受けていた。だが首が太いため、金属のアクセサリーは首輪のようにも見えた。成金親父、というイメージにピッタリの恰好だった。
「ふんふん、門番の衛兵に簡単に捕らえられたにしては、悪くない身体つきではないか。やせ細っているわけではなく、かといって豚のように太っているわけでもない。鍛え上げれば、それなりになるのではないか?」
そういう自分こそ、豚のように鼻を鳴らしながら、俺の身体を見回している。
「あんた、俺に、何す、す、すすすすすする気だっ」
怒りに任せて怒鳴りつけようとしたが、やはりこんな時でも吃音はついて回る。むしろ感情のままに喋ったせいで、余計に酷かった。全く、情けない。
中年親父は俺を怪訝な眼付きで見る。
「なんだ、その反抗的な態度は……。私は貴様を買ってやったのだぞ。従者でもない忌み子が正門を通ろうとしたのが間違いなのだ」
よく分からないが、この親父は俺に恩を着せているらしい。
忌み子、というのはどういう意味だろうか。あの時の事情を考えると、魔法が使えなかったことが問題なのかもしれない。魔法が使えない人間は差別される世界なのだろうか。これもファンタジー世界ではありがちだな。
もしそういう事情があったのならば、確かに俺はこの親父に助けられたことになってしまう。大変不本意だが。
「……そ、れで、あんたに買われた俺は、なんでこんなところで捕まっている?」
「貴様は私の商品になったわけだ。逃げ出されては困るのでね。いくら稼ぎの良い闘犬だって、首輪に繋がれる。そういうことだ。貴様の試合はもう間もなくだ、せいぜい目立ってくれよ」
試合、ということは、俺はこの後何らかの競技に出されるのだろうか。闘犬という例え話を持ち出されたことを考えると、心中穏やかというわけにはいかない。
その後、中年親父の背後からガタイの良い男達が現れると、鍵を開けて俺の檻の中にのっそりと入って来た。その丸太のように太い腕から逃れる術など無いため、俺の必死の抵抗も空しく、檻から引きずり出されてしまう。
「命を失うほど過激な試合は禁止されている。遥か昔に比べれば温いものだろう? 危ない時には、周囲の者が止めに入る。だから安心して試合に挑むといい」
そう高笑いした親父が去ると、俺はそのまま引きずられるように歩かされた。
地下牢の中と変わらない、日の当たらないジメジメした道がひたすら続く。俺はどこに行くのかと、両隣で俺の腕を抱える男達に聞いたが、何も答えてくれなかった。
心臓の高鳴りが次第に高まっていくのを感じる。これから行く先が愉快な場所ではないことは、十分に察している。命の危険はない、と言っていたが裏を返せば、それ以外の危険はあるということだ。
膨れ上がる恐怖心が、俺から足の感覚を奪っていく。歩くことが困難になっても、男達は俺を決して放さずに引き摺っていくため、向かう先が変わることは無い。
やがて俺が辿り着いた先は、地下牢よりも狭い小部屋だ。明かりを生む松明が壁に掛けてあるぐらいで、それ以外のものは何もない。扉も二つだけ。俺が入って来た木製の扉と、その向かい側、俺の目の前にある鉄格子だけだった。
その鉄格子の隙間からその奥に広がる空間が姿を晒し、歓声が小部屋に流れ込んで来る。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。やっちまええええええええええ」
耳を劈くほどの叫声が何重奏となって聞こえる。
その声の凄まじさと、鉄格子の合間から見える円形状の空間で、俺はようやく自分が置かれている立場を察した。
いわゆる地下闘技場のような場所に、俺はいるらしい。
……冗談だろ。
門番の兵士に痛めつけられてから、それほど時間が経っていない。自分が異世界にいるということを認識したばかりなのに、もうこんな次のイベントが用意されているなんて。
だが、これは間違いなく現実だ。
乾いた喉を少しでも潤すため、唾を飲もうとしたが、口内が砂漠のように乾燥しているせいでそれすら出来ない。
ゆっくりと鉄格子に近づき、その隙間から中の様子を伺う。
実は俺の勘違いで、鉄格子の奥には陸上競技用のレーンが引かれているのではないか、という僅かな可能性にかけた。
だが真っ赤な血が、地面に広がっているのが視界に飛び込み、俺の希望的観測は霞と消える。
そこは、世界遺産のコロシアムを縮小したような空間だった。
円形の競技場と、それを取り囲むように作られたすり鉢状の観客席。
競技場の中では、剣を構える血まみれの人間と、大型犬、いや狼か? 四本足のイヌ科のような生物が戦っていた。
試合は、明らかにイヌ科の生物の方が有利だった。四本足の体躯を活かし、人間を翻弄するようにその周囲を走りつつ、隙を見つければ即座に飛び掛かり、その爪と牙で皮膚をこそぎ取って、すぐに距離を置くというヒットアンドアウェイ戦法を繰り返してる。
人間の体表の傷口からは絶えず血液が流れ出ており、立っているだけで精一杯であることは誰の目にも明らかだった。
こんな痛々しい光景からは、目を背けたかった。けれど、次にあの場に立つのは俺であることはもう疑いようがない。そうなると、少しでも情報を得るためには、この試合を観察し続けざるを得ない。
そう理性が囁き、俺はそれになんとか答える。
競技場の周囲の壁面に、様々な武器が立てかけられていた。両手を使わないと持ち上げられないくらいの大剣から、短いナイフ、槍や斧の類もあった。どうやら自分で武器を選べ、ということらしい。
……引きこもりの俺に、何の武器を使えというんだ。
剣道も槍術も出来るわけがない。馬鹿々々しい。絶望的過ぎる。
せめて、他に何かないのか。祈るように辺りを見渡すが、それ以外に武器になりそうなものは無く。逃げ道も見当たらなかった。
その時、競技場から一際大きな歓声が上がり、俺の視線は再び空間の中央で対峙する犬と人間に戻った。
どうやら犬が人間に止めを刺しに来たようだ。
開いていた距離があっという間に詰められて、犬の牙が人間の左のふくらはぎに突き立つ。
人間の絶叫が尾を引いて辺りを駆け回る。次はお前の番だぞと、暗に語っているように俺には聞こえた。
脚に怪我を負った人間は、ついに二足で立つことも出来ず、地面に垂れ込んだ。そこに居ぬが馬乗りになり、そのナイフのように鋭利な牙を首元に伸ばす。
あんな牙で喉笛を食いちぎられたら、一溜りもない。
誰か、止める奴はいないのか。
俺の願いが通じたのか、犬の口が人間の首を喰らう寸前に、観客席から一人の男が競技場に降り立ち、右手を突き出した。
「火焔は盛りて、命を喰らう」
まるで詩を謳うような調子で呪文らしきものを唱えると、男の右手から炎が火炎放射器のように噴き出した。赤と橙色に塗り分けられた巨大な舌のような炎は、辺り一面を舐め尽くす。
炎に驚いた犬が咄嗟に人間から離れ、競技場の中を逃げ惑ったが、やがて屈強な男達によって取り押さえられた。
これが、あの中年親父が言っていた、命の危険はないから安心しろ、という言葉の意味だろうか。
確かに、犬に殺される寸前に、横やりが入ったことで命は助かった。だが、全身に付けられた傷と、そこから流れ出る血の量を考えれば、安心など出来るはずも無かった。
「さあ、さあ、皆さま、十二番の試合はどうでございましたか? 北方育ちの大狼を相手に、十分な健闘だったかと思います。ぜひ、皆様の旅のお供にいかがでしょうか? 荷運びに、野犬や盗賊からの護衛、どんな仕事にも役立つでしょう。さあ、さあ、札をお上げくださいっ」
犬に鉄製の首輪とリードが付けられ、安全が確保されたタイミングで、先程の中年親父が悠々と競技場に入り、観客席に向かって大声で呼びかけた。
それに呼応するように、観客席から数字を告げる声と共に、木製の札が上がった。数字の大きさがどんどん増えていき、それにつれて札を上げる観客も減っていた。
どうやらこの競技場は単なる見世物小屋ではなく、競売のような役割を持つらしい。購入した奴隷と大狼が戦ってる姿を見せ、その働きぶりで観客に値段を付けさせているのだろう。
流石、中世風異世界。完全な人身売買だ。
競りが終わると、大狼と戦った人間は男達に連れられて、俺がいる方とは別の鉄格子に連れていかれた。おそらくこの後、一番高い値段をつけた観客の下へ行き、労働をさせられるのだろう。そこで何をさせられるのか、考えたくもない。
だが、考えざるを得ない状況が、すでに俺の目の前に来ていた。
「さて、次の十三番の試合にはぜひともご注目頂きたい。先日、白昼堂々、この街の正門に現れたかと思えば、門番の衛兵を何人もなぎ倒し、無理矢理街に侵入しようとした暴れん坊でございます」
……随分、話が盛られている。
「さあ、始めっ」
中年親父が掛け声を上げ、観客席に引っ込むと、それに代わって俺の眼前にあった鉄格子がスルスルと持ち上がる。
それは、戦いの幕が上がったことを示していた。俺の意思とは無関係に。容赦なく。