造物主に与えられし我が力、顕現せよ
その夜は、空気中にまだ冬の冷気が残っており少し肌寒かった。なので羽毛布団を肩まで引っ張り上げて眠っていたはずだった。
しかしどういうわけか、今は全身が寒くて仕方がない。瞼を固く閉じて無理矢理眠りに付こうとしたが、冷気が肌を撫でて覚醒を促そうとしている。
風の吹きすさぶ音が鼓膜を叩く上に、瞼を透過して日の光が虹彩に差し込む。さらには青臭い草木の匂いが鼻腔を刺激している。五感が受ける限りない情報が、エクソシストのように俺の中から睡魔を追い払おうとしていた。
……うん? 待て。何かおかしい。
俺はベッドの中で眠っていたはずだ。なのに風を受ける感触があるんだ? しかも草の香りを嗅いでいる?
変だ。どういうことだ。
疑問が涌き上がり、瞼をこじ開ける。
日光が瞳に刺さる。眩しく、また瞼を閉じ、今度はゆっくりと開く。明順応した瞳が周囲の状況を教えてくれる。
まず視界に入ったのは広漠たる草原だった。緑色の絨毯が壮大に広がり、こぶのような丘陵がちらほらと見える。ウィンドウズXPのデスクトップ画面のような光景だった。
美しい大自然に心が洗われる気分……にはならず、クエスチョンマークが頭の上にぽこぽこ沸き上がった。
見覚えのない景色だ。まず間違いなく日本ではない。こんな綺麗な場所が日本にあるなら観光スポットとして有名になっているはずだ。ならここは海外か?
取りあえず足腰に力を入れて立ち上がる。
もう一度周囲を見渡すと、草原の一画に人工物が見えた。
丘陵の上に立つ、レンガを積み重ねて作ったような壁だ。あれは間違いなく人の手が入っている。壁の一部はアーチ状になっていて、その下の空間には鉄扉がついている。
あの建造物を的確に表現する言葉を俺は知っている。
あれは城壁だ。
俺の足はいつの間にか、誘蛾灯に吸い寄せられる虫のように城壁に向かっていた。起き抜けで頭がはっきりしていないせいもあるだろう。
歩いているお蔭で血の巡りが良くなったのか、俺の意識が少しずつ明瞭を帯び始める。
草原で目覚める前の最後の記憶は、ラノベを放り出してベッドに寝転んだことだ。
俺の服がTシャツと紺色のジャージズボンという部屋着であることを考えると、寝ている間にここに連れて来られたことになる。ついに親が引きこもりの俺に愛想をつかし、外国に放りだしたのだろうか。
……さすがに現実的じゃないな。
ということは考えられることは一つ。
異世界転移、……ではなく、これが夢と言うことだ。
夢にしては妙にリアルに思えるし、夢の中で夢だと分かってしまうのもちょっと違和感がある。だが夢であると自覚することで夢の内容を自分で操作できる、明晰夢という現象もあるらしいし、これもその類の一種だろう。
夢だと分かると足取りも軽くなる。あっという間に城壁の傍まで着いた。
城壁の鉄扉は開かれており、その前には蟻の行列のような人だかりが出来ている。誰も彼も色合いの地味な衣服を身に付けており、何日も洗濯していないかのように薄汚れていた。どう見ても現代人の装いでは無かった。
開かれた門扉を、荷物を担いだ人々や馬車が慌ただしく潜って行く。
人だかりは城門前に立つ、甲冑を着た兵士達によって止められている。何やら兵士達と会話を交わしてから、ようやく城内に通されていた。関所なのだろうか。
城壁や人々の恰好を見ると、この夢は中世欧州が舞台らしい。そういえば寝る前に読んだラノベもそんな世界観だった。眠る直前の出来事の影響を受けて出来た夢なのだろう。
少し迷ってから、俺も行列の後方に並ぶ。
もしこの夢がラノベの影響で作られたものだとしたら、城内の様子も見てみたい思った。もしかしたらラノベの登場人物と出会えるかもしれない。
行列が少しずつ掃けていくと、鉄扉の先の様子が見えるようになった。
「おぉお」
城壁の奥には、俺が想像した通りの光景が広がっていたので、感嘆の声を抑え切れなかった。
唐突に大声を上げたせいで、前に並ぶ行商人風の人達に怪訝な顔を向けられたが気にならない。
城門の中には誰もが想像する中世欧州の街並みがあった。
木材とレンガ造りの建物が立ち並んでいるが、屋根が低い。高いものでもせいぜい三階建てまでのようだ。そのため空が広く、少し顔を上げただけで青空を一望できる。赤茶色の屋根と蒼穹のコントラストがまた美しい。
頭上の景色に負けず劣らず、街の様子も綺麗だった。
真っ直ぐに伸びた街路の脇にはいくつもの店が軒先を連ねている。玄関に垂れ下がった看板には様々な図柄が描かれ、自分の店を主張していた。
ここはどうやら城下町のようだ。街路は丘陵まで伸びており、その先には荘厳な城が聳え立っていた。
興奮で胸が痛いほど高鳴っている。早くこの城門を通って、城下町を体験したい。夢である事さえ忘れてしまった。
だが早く城内に入りたいという俺の焦りとは裏腹に、目の前の列は少しずつしか進まない。
城門を潜る前に、衛兵のチェックを受けるせいだ。
通行証のようなものでも見せるのだろうかと気になったが、列に並ぶ人々の中でそんなものを手に持っている者はいなかった。
一体何をそんなにもたもたしているのか。
俺はつま先立ちして、列から頭を出すと先頭の様子を伺う。
「造物主に与えられし我が力、顕現せよ」
列の先頭にいる中年の男が、衛兵に対して暗号のようなことを呟いていた。
すると男の右手からふわりと光の球が現れ、中空に浮かんだ。ピンポン玉ほどの大きさで青い色に光っている、不思議な光景だった。
それが何らかの証明になっているのか、衛兵は警戒を解いて頷き、男を壁の中に通した。
次の女性も同じことを呟き、手のひらから光の球を出した。ただし今度の色は緑色だった。
その後も同じ様子が繰り返された。光の球はいくつか種類があり、俺が確認できたところでは、赤、青、緑、白、黒の五色だけだった。色の種類ではなく、光の球を出せるかどうかで城内に入れるかを判断しているようだった。
……これは、間違いなく魔法だ。
予想はしていたが、これで確信が持てた。この夢は単なる中世欧州ではなく、ファンタジーのおまけ付きだったのだ。呪文を唱えて魔法を使うという、お決まりのパターンのようだ。
そうなると光の球は魔法の一種で、色の違いは属性の差異を現していると考えられる。
赤が炎、青が水を司るといった具合なんだろうか。
「さあ、お前の番だ」
ラノベの設定が目の前にあることにウキウキしていると、あっという間に自分が先頭になっていた。衛兵が兜の下から冷たい双眸を覗かせている。
これはまずい。
ただでさえ、周囲から浮いた服装をして不審者丸出しなのに、城下町に向かう列の流れを止めてしまったら変な警戒心を与えてしまう。
列に並んでいる間に何とか暗記していた呪文を声に出そうとした。
「ぞ、ぞぞ、ぞうぶつしゅ、しゅしゅしゅ」
俺はこの瞬間まで自分が吃音であることを忘れていた。
だがしっかり思い出させてくれた。
声が喉に引っ掛かり、発音が出来なかった。
『造物主』。『ぞ』『ぶ』という濁音と、『しゅ』という拗音が入った単語。俺の苦手がオンパレードの言葉だった。
「ぞ、ぞう、ぶつしゅしゅしゅしゅ」
慌てて繰り返そうとするが、ドツボに嵌ってしまった。
そうして俺は、理解した。
これは現実だ。
絶対に夢ではない。
なぜって?
頭の中では言うべき言葉が分かっているのに、唇と舌と喉が痙攣したように絡まる感覚。
発音が失敗したことを即座に理解し、リカバリーしようとする焦りのせいで、全身の毛穴から噴き出す汗の臭い。
奇特な者を見るような周囲の白くて冷たい視線。
俺がこれまでの人生で幾度となく味わったこの感覚が見事に再現されていた。否定したくても、俺の本能が絶対に否定を許さない。
世界に溢れる情報が五感を通して容赦なく訴えかけて来た、これは現実である、と。
「貴様、『忌み子』か。主人はどこにいる? ……まさか、野良の分際で真昼間から城門を潜ろうとしたのか」
「間違いない、不貞ぇ野郎だ、自分の立場ってもんを分からせてやる」
周りが何やら騒ぎ立てていた。俺の後ろに並んでいる人達は蜘蛛の子を散らしたように逃げていき、衛兵は敵意を目に宿して槍を構えている。
どうしたというのか。俺が何をしたと言うんだ?
光の球を出せなかったことが彼らにとってそんなに一大事なのか。
「すぐに捕らえろっ。囲め、囲め、絶対に逃がすなよ」
隊長格らしき衛兵が命令を下すと、部下達が隊列を作りながら動いてあっという間に俺の周りを取り囲んでしまった。もう逃げる余地はない。目と鼻の先で槍の穂先が光っている。衛兵があと少し足を踏み込んだだけで、俺の全身がハリネズミのようになってしまうだろう。
「ち、ちちちち、違う、お、俺、俺は別にっ」
害意が無いことをアピールするため、ホールドアップする。
だが彼らが俺を見る眼に変化は無かった。
「皆の者、この不届き者の『忌み子』に鉄槌を。神の寵愛を受けられなかった下賤なる者に制裁を」
隊長の号令を合図に、衛兵達が「うおおおお」と耳を劈く鬨の声を上げて俺に迫り来る。
反射的に目を閉ざし、頭を庇うように両腕をあげる。
それからのことは詳しく覚えていない。
地面に引き倒されると、槍の穂先が無い方の先端で叩かれ、突かれた。無数の暴力が嵐のように襲ってきて、俺を掻き回していった。みぞおち辺りを蹴られたせいで、悲鳴すら上げられなかった。ひたすら痛覚に耐えるだけの時間は、永遠のように感じられた。
いじめの経験は俺の人生で数え切れないほどあるが、暴力的なものは久しぶりだった。
それでもせいぜい軽く叩かれたり、ランドセルを突き飛ばされたりしたぐらいだった。いじめをする側としては遊びのつもりだっただろう。いじめられる方としてはたまったものではないけど、確かに冗談半分の暴力だったんだろう。
だがこれは違う。
はっきりとした敵意を持った暴力で、全く容赦がない。これまで俺が受けたいじめなんて、ぬるま湯と変わらなかったのだと気付かされる。
やがて痛覚が肉体の許容量を超えると、暗闇が俺の意識を呑み込む。意識の糸がプツンと切れて、五感の全てが無に帰った。