#21
ネットを水中から引き上げる時にあらためて思う。
物凄く重い。
コイっていう魚は、長さが同じなら恐らく他のどの淡水魚より重いんじゃないだろうか。
この60センチを軽く超える、しかも丸々と太ったコイを女子中学生が上げるのは並大抵のコトじゃない。
「先輩、やりましたね」
そう声を掛けながら振り返ると、肩で息をしながらぼーっとする先輩がこちらを向いて立っていた。
その目はオレが手にしたネットの中の魚に向けられてはいるが、焦点がまるで合っていない。
「先輩?」
もう1度そう呼び掛けると、やっと我に返ったのか、はっとしたようにオレの顔に目を向ける。
「ああ…。い、和泉君、手伝ってくれてありがとう」
呼吸を整えるため、2、3度大きく深呼吸しながら言葉を吐き出す先輩に、笑いながら軽く首を振って見せた。
「すごい大物ですね」
そう言いながらネットごと魚を先輩に差し出すと、ほうっ、と息を吐き出した先輩が、あらためて自分が釣り上げたコイをまじまじと見つめる。
「よくこんな大きな魚を上げられたわね、私」
「トラウトじゃあ、なかなかこの重量は体験出来ないですからね。カナダやロシアに行けば別かも知れませんけれど」
なかなか現実感が取り戻せないらしい先輩に、さらに現実離れした話をしてしまった。
まあいいか。大物を釣った余韻に浸っている時に、わざわざ現実に引き戻すのも野暮ってもんだ。
その時、夢うつつといった感じだった先輩の目が突然焦点を結ぶ。
「和泉君、その手!」
湖浜先輩の叫び声に、瑞季や大沼先生ばかりか、80センチ近い大物とファイト中のユウまでがこちらを振り向いた。
自分の左手に目を落とせば、掌に2~3センチくらいの綺麗な一文字の傷がパックリ口を開けている。さっきコイを手繰り寄せた時に、掴んだラインで切れたのだろう。
あまりにスパッと綺麗にイッたせいか、傷の大きさの割りに出血はほとんどない。
だけど経験上、こういう傷って後になってすげえズキズキ痛むんだよな。
「ああ、平気ですよ。昔はよくやりましたし」
「何言ってるの!破傷風にでもなったらどうするつもり!?」
オレの平静を装った答えに、即刻先輩の怒号が飛ぶ。
おお、いかにもしっかり者のお姉さまって感じのリアクション。男ってこういう時、怒られてるにも関わらず、思わず内心ニヤケちゃったりしない?まあ、破傷風は予防接種してるから大丈夫なんだけど。
「来なさい!」
先輩は有無を言わせぬ雰囲気でオレの左腕をガシッと掴むと、自分のバッグの所までズルズルと引き摺って行った。
渋々といった空気を醸し出すために、先輩に付いて行く足取りを少し緩めたのは、何も更に先輩の気を引こうとか、そういう小学生じみた心理からでは決してない。背中にグサグサと刺さる瑞季の視線がその理由の大半だった。恐ーい、痛ーい、怖ーい…。
先輩はバッグの中を掻き回して小さなポーチを取り出すと、ファスナーを開いて諸々の医薬品を取り出す。
消毒薬、ガーゼ、脱脂綿、包帯…。しかもそれぞれが清潔さを保つよう完璧に包装されている。
すげえ、もうなんか典型的な「女子」って感じだよ。
オレなんか、タックルボックスの隅に絆創膏を3、4枚放り込んであるだけだしな。それすらも砂だらけ皺だらけで、実際に使えるのかどうか至極疑問だ。
「もう、こんな無茶して。バカなんだから」
そう呟きながら、消毒薬を染み込ませた脱脂綿でオレの傷の血と汚れを拭う先輩の姿に、手の痛みを打ち消して、更にドッサリとお釣りが来るほどの甘酸っぱい気分が沸き上がる。
「すいません…」
余りの照れくささに自分の左手から目を逸らすと、最終局面に突入といった雰囲気のユウのファイトが目に入って来た。
なんかもう、水面の波打ちかたが尋常じゃない。コイが鉤から逃れようと身体を反転させるたび、ゴポンッ、という重々しい音を立ててどでかい波紋が生まれる。
「ピチャン」とか「パチャン」とかそんな軽い音じゃない。「バシャン」とかですらない。
こういう場面を目の当たりにすると、音にも質量があるということをあらためて感じさせられる。
だがそれにも増して驚くべきは、あのサイズのコイを相手取って顔色一つ変えないユウの冷静さだ。
コイが巨体を踊らせるたび必要最小限の動きでロッドを操作し、ラインに掛かる負荷を殺しながら相手の疲労を誘うその姿は、端から見ていてまったく危うさを感じさせない。
「よし、終わり!」
先輩の言葉に、ユウのロッド捌きに見とれていたオレはハッと我に返る。
左手にはいつの間にか巻かれた包帯。大袈裟な気もするが、オレを心配する先輩の気持ちの表れと思うとちょっと嬉しい。
「さ、和泉君。私達も応援に行きましょう」
巻かれた包帯の上からオレの手を握り、小浜先輩がユウ達の方に走り出した。




