#1
本作は、「太公望とお姫様」、「太公望とお姫様 外伝 ~釣姫恋愛戦記~」の続編となっています。ご覧頂ける場合は、前2作を先にお読み頂けると幸いです。
吉冨けいた
カリッ、カリッ、カリッ、カリッ…。
部屋の中に、彫刻刀が木板を削る音が規則正しく響く。
オレは自分の部屋の中央にある新聞紙が敷き詰められたテーブルで、近所のホームセンターで購入した420円の木板の上にかがみ込んでいた。
手にはホコリだらけになって物置から探し出して来た小学校時代の彫刻刀。これがまた錆びかけていて使いにくい。
木板には7文字のアルファベットが鉛筆でレタリングされていて、オレはウンザリしながらそれを浮き彫りにしている最中だった。
「なあ、部の看板、木のプレートを彫って作ろうって言い出したのは、一体誰だったっけか?」
オレは横に座ってニコニコしながら頬杖をつき、この地道で、かつ苦難に満ちた作業を見守る女の子に話し掛けた。
「はいは~い。私でーす♪」
まるで幼稚園児のようなテンションで手を上げながら、オレのクラスメイト兼、部活仲間兼、そしてまた彼女でもある川原瑞季が明るい声で答える。
「うん。その言い出しっぺさんが、さっきからまったく作業に従事することもなく、傍観を決め込んでいるのは何故なんですかね?」
オレの最初の質問がなされた意図を、相手が十分に理解しつつもわざとスルーしていることは明白だが、オレはチクリと皮肉を込めながら儚い抵抗を試みた。
「え?だって、こんな小さいプレートじゃあ、2人一緒に作業するの無理じゃない?」
瑞季がキョトンとした顔で、首をかしげながら聞き返して来る。
「なるほど、一理あるな。だが今の理論、その唯一の作業者に当然の如く任命されたのが、お前じゃなくこのオレである根拠には一切触れられていないぞ」
「だって、克之がそんな手に怪我しかねないような危ない作業を、私にさせるわけがないってコト分かってるもん」
少し声のトーンを落としつつ、唇を尖らせて上目遣いにオレの顔を見る瑞季の様子は、悔しいが確かに庇護欲をそそられる。
今度は甘え口調+上目遣い攻撃か。
くっ!こいつ、余計なスキルばっかり上達しやがって!
「もん」じゃねえだろ、「もん」じゃ!カワイイんだよ、チキショウ!!!
「だから今日の私は、克之のモチベーションアップを担当します!」
一転、にぱッと元気な笑顔を浮かべて瑞季が宣言した。
うん、これは裏を返せば、「私は絶対にプレートを彫る作業はしません」宣言に他ならないな。
さすがあざとい、我が彼女サマ。
「モチベーションアップって、何すんだよ?」
すっかり抵抗の意志を削がれたオレが、諦め口調で瑞季に訊く。
実際今の質問も、どうしてもモチベーションアップ施策の内容が知りたくてしたわけじゃない。どちらかと言うとあまり知りたくない気までするくらいだ。
訊かずにスルーしていれば、まず間違いなく「モチベーションアップの方法、知りたくないの!?」と向こうから話を振って来るのがミエミエゆえの、単なる時間の節約のための質問に過ぎなかった。
「へへ~。1文字彫り終わるごとに、ほっぺにご褒美のちゅーしてあげるよ」
うわー、来たよ。面倒くさいパターンだよ?
ある程度予測していたとは言え、実際くるとやっぱりメンドクサイな、コレ。
いや、何が面倒って、…じゃあここで解答例ごとのシミュレーションを…。
1、「え~? 別にイイよ。そんなことより彫るの代わってよ」と、瑞季のキスの価値自体に懐疑的なニュアンスの反応をした場合。
これは言うまでもなく、まず100%我が麗しの姫君のご不興を被り、ある一定期間、もしくはかなりの長期に及びお目通りかなわぬこととなる。
2、逆に「え、ホント!? そんなご褒美あるんなら頑張っちゃおうかな~」と張り切って、目の前の業務に没頭する姿勢を示したら?
この場合はもう間違いなく瑞季の思うツボだ。
今回のみならず、今後も何らかの苦役が発生した際には同様の手法で就労が強制されるのは間違いない。
いや、もちろん別に瑞季にキスされるのがイヤって訳じゃない。イヤどころかちょっと嬉しいまであるが、キスを人参のように目の前にぶら下げられて彼女の言うこと聞くって、コレ完全に尻に敷かれてる状態じゃないか。
というわけで、彼女の機嫌を損ねることなく、かつ尻に敷かれる危機も同時に回避しうる第3の選択肢とは一体何か?
ほら、こんな難解な問いに即答しなきゃならないこの状況、やっぱりメンドクサイことこの上ない。
ところがいかなる神の采配か、その第3のルートはオレが知恵を絞るまでもなく意外なところからもたらされた。
オレが瑞季の言葉に答えようと口を開きかけたところに、部屋のドアがノックされる音が響く。
「はい? どうぞ」
今この家にはオレと瑞季の他は父さんしかいないはずだが、父さんはオレの部屋のドアをノックしたためしなど只の1度もない。もし用があれば、大声でオレの名を呼ぶのが父さんの流儀だ。
「お邪魔します」
控え目な挨拶と共にそっと開かれたドアの隙間から顔を覗かせたのは、オレの幼稚園からの親友、池中優だった。
「おう、ユウ!よく来たな」
取り敢えず瑞季へのリアクションが保留できた安堵も手伝って、オレは歓待をもってユウを迎え入れる。
「あ、池中君、こんにちは」
一方の瑞季は、少し戸惑ったような様子でユウに挨拶した。
「ああ、川原さんも来てたんだ。こんにちは」
ユウは瑞季にもにこやかに挨拶を返すと、部屋の中に足を踏み入れる。手にはお菓子とジュースのペットボトルが入ったコンビニのレジ袋。
「あれ?」
ユウが部屋に入って来た時、その後ろに誰かもう1人の姿を認めたオレは、首を伸ばしてユウの背後を覗き込んだ。
「お、お邪魔します、和泉君」
そう言ってひょっこりユウの後ろから不安げな顔を覗かせたのは、なんと我が部の部長、湖浜先輩だった。
「部の看板の制作、進捗状況はどうかなと思ってさ。先輩も誘って、差し入れがてら来てみたんだ」
ユウがレジ袋を下ろしながら言う。
「ああ、そうなんだ。いらっしゃい、先輩」
湖浜先輩にもニッコリ笑顔で歓迎を示すオレ。
瑞季とのやりとりの窮地を救ってくれた、もう1人の恩人だしね。
「い、和泉君、連絡もしないで急に押し掛けてご免なさい」
先輩は部屋の所々に視線を泳がせながら、おどおどした様子でユウの後から部屋に入って来たが、オレの横に座る瑞季と目が合った瞬間ヒクッと頬を引き攣らせた。
「あ、あら川原さん。奇遇ね」
「ホントですね先輩。こんにちは」
瑞季もなぜか1オクターブ下げた声で先輩に挨拶する。
この2人、仲が悪いってほどじゃないんだけど、なんかギスギスしてるんだよなぁ。
第一、部員が部の活動で集まってるんだから奇遇でもなんでもないだろ?
それはともかく、これで奇しくも今オレの部屋に、市立三好台中学校に新設されたルアーフィッシング部の部員が全員集合したわけだ。
「ああユキ、かなり彫れてきたね」
瑞季と先輩の間に低気圧が発生しかけているのを察知したのか、テーブルの上のプレートを見ながらユウが努めて明るい声で言った。
「いや、思ったより作業に時間がかかってさ。月曜までに出来るかなあ」
オレはボリボリと頭を掻きながら思わず弱音を吐く。
「大丈夫。塗装やニス塗りなんかはボクが代わるし」
ユウが5月の太陽のような笑顔を浮かべて、オレを励ますように言った。
いや分かる。初めて会った人がみんなユウを女子と勘違いするのも無理はない。
ユニセックスな顔立ちに真っ白でキメの細かい肌、そしてスラッとした体つき。もしユウが女子の制服を着たら、初見で男子と見抜ける人は間違いなく皆無だろう。
「わりぃ。助かるよ」
「そんなの別にイイよ。一番大変なトコをユキに頼んでるんだから」
オレとユウは、テーブルの上の削りカスにまみれた木のプレートに同時に目を向ける。
プレートには鉛筆で下書きされた「GIJIEBU」の7文字。どうでもいいんだけどこのセンス、もうちょっと何とかならなかったのかなぁ。