Episode99:別離の刻
……死にたくない。
そんな思いとは裏腹に、体中のいたるところから力が抜け落ちていく。
もう、指先を震わすことも、唇を揺らすことも、まぶたを閉じることさえもできない。
呼吸を繰り返しているかすら怪しい。
もうダメなのだと、頭ではとっくに理解していた。
生命の鼓動を示す大事な器官が、すでにこの体にはないのだから。
助かるわけがない。
足掻くだけムダだ。
ならばいっそのこと、もうこの目を閉じてしまえばいい。
何も難しいことはないさ。
「…………」
分かってた。
そんなことは分かってたんだ。
けれど、目を閉じることができない。
完全に聞こえなくなっているはずの耳が、はるか遠くからの声をかろうじて捉えていたから。
いや、そおれはきっと遠くなんかじゃない。
触れるくらいに近い場所で、しかも大声で叫ばれているような声なのだろう。
よく、知っている声だ。
一緒にいた時間はごく最近からでしかないけれど、ずいぶんと昔から言葉を交わしていたような気がする。
その声の主達が、今も叫んでいる。
しっかりしろと、目を開けろと。
ちゃんと聞こえている。
でも……ごめん。
本当にもう、体が動かないんだ。
声も出ないんだ。
だから、その言葉に対してどう答えることも僕にはできない。
できない、けど……。
それでも、僕は……まだ、死にたくなんかない……!
その言葉が、あるいは祈りか願いか。
通じたのかどうかは定かではない。
が、そう思った次の瞬間、全ての機能を停止寸前に追い込まれているはずのこの体に、一つの熱を感じた。
暖かさとも、温もりとも言い換えてもいい。
とにかく、あったかかった。
まるで誰かに守られているような……。
「――主よ、聞こえますか?」
その声は、確かに僕を呼んでいた。
知っている。
その声の主を、知っている。
僕が所持する『Ring』の中に封じられていた、遠い過去の世界の意思。
「……シ、ルフィ……」
かろうじて声が出た。
けどそれは、きっと誰の耳にも届くことのないような声だろう。
だからそれはきっと、僕が僕の中に吐いた言葉。
他でもない、自分の中にいるもう一人に向けた言葉。
「よかった、まだ意識が残っていたのですね」
「……シルフィア。どうして……」
「あなたを救うためです。あなたにはまだ、やらねばならないことがある。そのためにも、ここで死なせはしません」
「……ありがとう。でも、無理だよ。僕の体はもう、とっくに限界だ。分かるだろ?」
「それでも、私はあなたを死なせない。死なせるわけにはいかない」
「だけど、どうやったって……」
生物の生死を自由にどうこうするなんて、できっこない。
特に、死んだものを甦らせるなんてことは、この先どれだけの科学技術が発達したところできっと不可能だろう。
……もしも。
もしも、そんな奇跡めいたことが自由自在にできるものがいるとしたら、それはまさしく神以外に他ならない。
けど、それでも無理だ。
なぜならこの世界は、神の分身の手によって消滅させられようとしているのだから。
そんな見放されたここに、どんな希望を持てばいい?
どんな奇跡を待てばいい?
「……主よ、今から私が言うことを、よく聞いてください」
「……え?」
「これより、私の命をあなたに捧げます」
「な……」
一瞬、理解することに時間がかかった。
命を捧げる?
何を、言って……
「シルフィア、何を……」
言葉を返そうとしたが、向き合うその目は真剣な眼差しだった。
とてもこの場しのぎや慰め、冗談の類のようには思えなかった。
「……私も一応、神に最も近い存在である精霊の力、その片鱗を授かった存在ですから。全能力を駆使すれば、不可能ではないはずです」
「けど、それじゃ……」
仮にそんなことができたとして、当のシルフィア本人は一体どうなってしまうのだろう?
いや、聞くまでもなく答えは出ていた。
ただ、それを口にすることが恐ろしかっただけで。
「そんなことをしたら、シルフィアは……」
「……ええ、消滅します」
ためらいなく、シルフィアは告げた。
「っ、そんなの……」
「ダメだと? まぁ、あなたならきっとそう言うと思っていました。ですが、これ以外に主を蘇生させる方法はありません」
「そうかも、しれないけど……」
その選択を容易に選ぶことは、僕にはできなかった。
他人の命を貰い受けることなんて、そう易々と受け入れられるわけがないじゃないか。
ドナーによる臓器提供の話じゃないんだ。
命そのものを、別のものに移し変える。
はいそうですかで終わらせられるわけがない。
「……時間がありません。さすがにもうこれ以上は、主に肉体そのものが維持できないでしょう。完全に機能が停止してしまってからでは、手遅れになってしまいます」
「……できないよ、そんなの。いくらなんでも、自分がが生き延びる代わりに君を犠牲にすることは、僕には……っ!」
「……主に言いたいことは分かります。こんな不確定存在である私にまで、そのような感情を抱いてくれたことも素直に嬉しく思います。ですが……お願いです。もうこれ以上、私を困らせないでください……」
「……シルフィア」
「気にしないでください。元々私は、偶発的に生まれた存在なのですから。その証拠に、主と同じ他の能力者の『Ring』に、似たような存在は確認できなかった。それでも私は、こうして生まれた自分を奇跡だと信じたい。そのおかげで私は、過去に受けたものと同じ傷痕が刻まれようとしているこの世界を。無理矢理な運命の上で弄ばれているだけの、だけどそれを受け入れ、正しい方向に導こうと行動することができる人に……あなたに出会うことができた。かつて私も同じように悩んだ道。私は道を選ぶことさえできず、その場で倒れた。でも、あなたは違う。今からでも遅くない。変えてください、運命を。打ち砕いてください、現実を。掴み取ってください、未来を。あなたには、そうできるだけの力がある。そしてそうできるだけの、仲間がいるはずです」
「…………」
「私の意思が消えても、『Ring』の力は消えることはありません。私は消える代わりに、私の力を置いていきます。どうかそれを、正しい方向に使ってください。間違えてもいい。最後にあなたが立つその大地が、誰もが当たり前だと思えるものであるのならば……」
「……シルフィア、僕は……」
「……これからあなたは、何度も壁に突き当たるでしょう。全てを正面から壊して進めとは言いません。回り道をしてもいい。時には立ち止まり、逃げ出したいと思ってもいい。ただ、後悔だけはしてほしくない」
「……うん」
「色々と偉そうに話しましたが、そろそろ本当に時間切れです」
そう言うと、シルフィアは少しだけ悲しげに、しかし柔らかく微笑んだ。
「――さようなら、大和。どうかこの世界で、あなたは自分の現実を掴み取ってください。私はいつも、すぐ傍にいますから……」
シルフィアの体が、淡い光を放ち始める。
体が少しずつ光に溶け、まるで雪のように舞い始めた。
その欠片が一つ、また一つと、横たわる僕の体に降り積もる。
落ちて、消えて、僕の中に溶けていく。
一つ一つがすごく暖かくて、優しかった。
止まったはずの鼓動が、そっと動き始めていた。
指先が動く。
そっとてのひらを上に向けると、光の雪がゆらりと落ちた。
それをギュッと握り締めて、消え往くその横顔に向けて、僕は言った。
「――さようなら、シルフィア。僕は……僕は必ず、この世界を…………」
最後の言葉を全て聞き終える前に、シルフィアの体は光の粒子へと変わった。
ただ、その横顔が。
最後の瞬間、優しく微笑んでこっちを振り返ってくれていたその景色を、僕はきっと忘れることはないだろう。
世界が白に包まれていく。
目もくらむような眩い光の中で、僕は誰かの腕に抱かれているような気がした。
やがて光が全てを埋め尽くし、僕の意識はそこで途絶えた。
「……大和?」
目が覚めて最初に聞こえたのは、なぜかかりんの声だった。
僕は冷たい地面の上に仰向けに横たわり、真っ暗な夜空をぼんやりと眺めていた。
「……あ、れ? かりん……?」
「……大和? 嘘、だって、だって……」
どこか慌てた様子の飛鳥の声。
次に、僕の胸に誰かの手が触れる感覚。
視線を移すと、それが氷室の手だと分かった。
「……心臓が、動いています。これは一体……」
「……本当に、大和なのか?」
驚きを隠せないその声は、横で立つ真吾のものだった。
「ねぇ、平気なの?」
耳元で飛鳥が聞く。
「ん……多分、大丈夫。まだちょっと、思うように体が動かないけど……」
起き上がろうとして、思ったとおり僕の体は右に左にふらついた。
当たり前だけど、僕の服は血まみれだった。
寝ていた地面の土にも、まだ乾いてない血溜まりが広がっている。
傷口である胸に触れてみると、すでに痛みは完全に引いていた。
が、傷口自体はまだ完全に塞がってるわけではないようだ。
「大和、一体何があったんです? いくらあなたの力でも、この傷を自力で治癒することは無理なはずです。いえ、それどころか、さっきまでのあなたでは、そもそもそんな力は残されていなかったはずだ」
「……うん。僕も正直、もうダメだって思ったよ。でも、助けてくれたんだ彼女が……」
「彼女?」
「…………」
不思議そうな目を向ける氷室をよそに、僕はもう一度夜空を見上げた。
月も星も出ていない、真っ暗な夜。
ありがとう、と。
改めて、どこかにいるであろう人に呟いた。
「よくは分からないが、とりあえずはここを離れたほうがいいんじゃねぇか?」
真吾が言った。
「もしもアイツがこのことに気付いたら、もう一度俺らを殺しに来るぜ。アイツももう手段を選びはしないだろう」
「……そうですね。詳しいことは、まずこの場を離れてからにしましょうか」
誰もが事情を飲み込めていなかったが、まずはこの場を離れることに合意する。
「車に戻りましょう。話は中で」
僕は氷室と真吾の肩を借りて立ち上がる。
「あ……」
と、今更に僕は思い出す。
「……かりん」
「……」
その呼びかけに、かりんは答えなかった。
腕の中にいるクロウサも、何も言うことはなかった。
「……私も行く」
と、ふいにかりんが呟いた。
「……確かめたい。ことがある」
「……構いませんよ。少なくとも、今のあなたから敵意は感じませんしね」
氷室はその申し出を承諾。
僕達は揃って、氷室の車へと歩く。
長い夜は、まだ続く。