Episode98:消え行く命の灯を
それは風だっただろうか。
いや、少なくとも僕の中にあるイメージとしての風ではない。
では、嵐か?
それも違うだろう。
そもそもそれは、風ではなく、闇だ。
全てを呑み込むという、宇宙にあるブラックホールのような。
「……何よ、これ」
乾いた声で飛鳥が言う。
足が動かない。
竦んでしまったのだろうか?
それとはどこか違う。
影が地面に縫い合わされてしまったような感覚。
震えたくても震えられない。
確実な恐怖を、こんなにも近くに感じているのに。
「……こんな……まさか、これほどまでとは……」
氷室の声もどこか苦しい様子を思わせる。
僕達はまだ何もされてはいない。
ただ僕達の目の前に、渦を巻くようにして蠢く凝縮した闇の塊が現れただけ。
現れただけで、この威圧感。
呼吸さえ忘れて、その姿から目が離せなくなる。
「……っ」
声が、出ない。
本能は告げる。
逃げろ。
体が動かない。
再度告げる。
逃げろ。
――死ぬぞ?
「っ! 皆っ!」
途端に金縛りが解けたように、僕の体は自由を取り戻した。
その様子を、蠢く闇はまるで見逃しているかのように視界の端で捉え、薄気味悪く哂っていた。
ケタケタ、ケタケタ。
擬音で表すとすればそんな声だろう。
ゆっくりと、本当にゆっくりと闇が動き始める。
形を変え、歪に蠢く。
もともと原型そのものはないとはいえ、これは常軌を逸している。
何かが来る。
絶対に巻き込まれてはいけない何かが、近づいている。
「逃げろっ!」
続けざまに僕は叫んだ。
まるでその言葉を合図に待っていたかのように、闇が闇を吐き出した。
それの言葉を鍵として、力の片鱗が矛先を向く。
「――喰らえ、悪食の牢獄」
闇が、闇を生んだ。
剣でも銃でも、もはや武器でも凶器でもない。
純粋な恐怖の思念が、襲い掛かる。
誰もがすでに走り出している。
それを追う闇。
無限に伸びる、その今にも腐り落ちてしまいそうな腐蝕の腕で、生けるものを握り潰すかのように。
地を這うその腕が、草を、土を、石を、無尽蔵に呑み込んでいく。
その様は、まるで大地震のあとに襲ってくる津波のよう。
呑み込まれればそれが最後、跡形も残さずに消し飛ばしてしまうだろう。
全力で走りながら、見える範囲で僕は皆の様子を覗った。
氷室と真吾は無事に攻撃の手から逃れ、地面の上に転がっている姿が見えた。
飛鳥は……よし、何とか大丈夫そうだ。
あとは僕自身が振り切れば、それで……。
そう、少しだけでも安心したのが間違いだったのだろう。
「……な」
気付けば、僕の頭上にはすでに五指では足りぬくらいに手を広げた闇が迫っていた。
その事態に、一瞬だけ足が止まりかける。
構わずに駆け抜けてしまえば、あるいは振り切れたかもしれない。
が、もう遅い。
掴まれる。
その黒き腕に。
奪われる。
何もかもを。
消えて、なくなる。
「「「大和っ!」」」
三人分の叫びが、どこか遠い世界からの声に聞こえた。
間に合え。
そう願って、最後の力を振り絞るつもりで地面を蹴り、地面に抱きつくように体を捨てた。
目の前に土色の地面が迫る。
あとはどこまで転がってでも逃げ切らなくてはならない。
体が衝撃を感じたら、すぐさま体を転がせ。
本能に命令する。
一秒がやけに長い。
体はすでに倒れこみ、目と鼻の先には冷たい夜の地面が待ち受けて……いた。
そう、ほんの一瞬前までは。
「…………っ!」
そこに。
待ち構えたように、闇の欠片が出迎えた。
ドロリと溶けて、形が崩れる。
グニャリと蠢き、形を成す。
見たのは、鋭い漆黒の刃。
真っ直ぐに、僕の胸に狙いを定めている。
避ける?
これを?
……無理だ。
舌打ちさえ間に合うことはなく、一瞬の沈黙が途切れた頃。
――静かに、そして不気味に、闇の剣が僕の胸を貫いた。
「…………」
悲鳴はなかった、と思う。
それどころか、痛みらしい痛みさえ感じることはなかった。
ただ、うまく言葉にできない気持ち悪さだけは残っている。
グサリともズブリとも、胸を貫く刃は音を立てなかった。
なのに……。
なのに、どうしてだろう。
「……あ、う…………」
穴の開いた胸からは、温かく赤い血が、とめどなく流れている。
口の端からも血が伝い、すでに広がりつつある足元の血溜まりにその雫が落ち、音と共に波紋を広げていた。
直後に、僕の体は重力にひきずられて崩れ落ちた。
ぬるりとした何かが胸の中から抜けて、気持ち悪さが消える。
「…………」
地面に横たわる。
声が出ない。
体が寒い。
確実に体力が失われていく。
「大和っ!」
飛鳥の叫ぶ声が聞こえて、それに続くようにして三人分の足音が近づいてきた。
「大和、しっかりしなさい!」
氷室の声で怒鳴られて、上半身を抱き起こされた。
「っ……」
が、そこで言葉が途絶える。
飛鳥は両手で口元や頬を押さえ、目の前の光景を信じられないような表情をしていた。
傷口そのものは大きいものではないし、そういう意味でも気持ち悪さは感じてはいないだろう。
だから、飛鳥が怯えているのはそのおびただしい出血の量。
一体人間の体のどこにこれだけの血液が蓄えてあるのかというくらい、今の僕はひどい出血をしていた。
「ぐっ、出血がひどすぎる。このままでは……!」
その先に続く言葉を、誰もが瞬時に理解した。
「……何とか、何とかならないの? このままじゃ大和が……」
「くそっ! 俺達じゃ治療系の能力が足りなすぎる!」
言葉ばかりが飛び交って、時間も共に過ぎていく。
ただ、流れ出す血液だけがその勢いを止めず、刻一刻と僕の体を確実な死に向けて運んでいく。
目が霞む。
意識はすでに朦朧として、三人の言葉を聞き分けるだけでも精一杯だった。
……死、ぬ?
僕は……死ぬのか?
……嫌、だ。
……死に、たく……ない……っ!
「無駄だよ」
と、そんな祈りさえも容易く打ち破ってその声は響いた。
「その出血量じゃ、もう助からない。仮に止血できたとしても助かりはしない。なぜなら、彼の心臓はもう消滅したから」
「……何、だと?」
「悪食の牢獄によって喰われたあらゆるものは、万物における還元の過程を無視して消滅へと至る。例外なく、ね」
背中に蠢く闇を飼いならし、それは言った。
「……全く、本当に予定外だった。まぁいいさ。これで残りの封印はあと一つ。能力者が一人くらい消えたところで、後に大した影響はないだろうしね」
言うと、それは石碑に手をかざし、間もなくして赤い文字が浮かび、一瞬の後に星も月もない夜空に音もなく消えた。
「さて。じゃあ僕は失礼するよ。最後の封印も、すぐに開放されるだろう。ねぇ、水使い?」
小さく哂い、それは夜の中に溶けるように消えた。
氷室も、飛鳥も、真吾も、誰もその背中を追おうとは思えなかった。
目の前で、一つの命がもうすぐ終わろうとしていることを知っていたから。
「どうすれば……どうすればいいのよっ!」
無力さに怒り、飛鳥は膝を折って地面を叩いた。
誰も、それ以上何も言えなかった。
静かに、そして確かに命を失っていく瞬間を見届けるしか、なかった……。
……はずだった。
ふいに輝き始めた、その『Ring』に気付くまでは。
「……」
何かに気付いたように、かりんは目を覚ました。
「……何。これは……」
「どうしたんだ、かりん?」
目を覚ましたかりんの言葉を聞き、枕元に置かれたクロウサが声をかける。
「何だ、まだ真夜中じゃないか。早起きにすらならないぞ、こんな時間じゃ……」
「…………」
「って、どうしたんだかりん? 気分でも悪いのか?」
クロウサが声をかけても、かりんはどこか上の空といった感じで虚空を見つめている。
「……消えていく。誰かの命が。なくなっていく」
「……かりん、何を言って……」
「……どこか。悲しい。けど。どこか。懐かしい。覚えてる。前にも。どこかで……」
独り言を繰り返す中、そしてかりんはふと気付く。
何かが消えてなくなるとき。
それは、とても悲しい音がする。
かりんは過去に一度だけ、その音を目の前で聞いてしまったことがある。
最愛の兄、春彦がその命を失ってしまったその瞬間のことだ。
それと同じ感覚が、今も流れている。
けど、春彦はもういない。
同じ音は聞こえないはずだ。
じゃあ、この音は、一体誰の……。
「……っ! まさか……」
気付き、体より先に心がざわめいた。
「うわっ!」
強引にクロウサを抱きかかえ、かりんは部屋を飛び出した。
「お、おいかりん、何なんだ? どうしたっていうんだよ?」
クロウサの言葉にもかりんは答えない。
ただ、全速力で走り続ける。
夜の暗さも冷たさも、今感じた悲しさに比べたら気にもならない。
真っ白な息を吐き出す。
苦しい、酸素が足りない。
それでも急げ。
自分に言い聞かせ、夜の中を走る。
「……っ。大和。大和っ……」
その人の名を呼び続けながら。