Episode94:ようこそ、現実の狭間へ
夜の闇の中を走っている。
肌寒い風が身を裂いて、目も半ば閉じながら足を動かし続ける。
吐き出す息は真っ白で、まるで車の排気ガスみたいに背中へと流れていった。
寝静まりかけていた住宅街の外れに、一人分の足音だけがうるさいくらいに響いていた。
「っと……」
突き当たりで僕は一度足を止め、白い息を何度も吐き出しながらわずかに気配を探る。
時間にすれば三秒ほどだったろうか。
その間に乱れた呼吸を少しでも安定させ、直後に僕はまた走り出す。
「こっちだ」
突き当りを左折。
国道沿いにどこまでも長く伸びる道は、今の時間では横切る車の数も数えるほどしかない。
時折対向車線から照りつけるトラックのヘッドライトを鬱陶しく思いながら、それでも走る足は止まることを知らない。
時刻はちょうど、日付を変えて間もない頃だ。
零時七分。
草木も眠る丑三つ時、というにはまだ些か早すぎる時間帯ではあるが、闇が支配する時としては十分だった。
「……何なんだ、これ……」
まともに肺まで酸素が行き渡らない中、僕は呟くように吐き出した。
胸の真ん中がやけにもやもやして、思わず掻き毟りたくなるくらいに気持ちが悪い。
めまいと吐き気と腹痛が、全部同時に襲ってきたみたいな感覚だ。
こみ上げる嘔吐感をどうにか堪えながら、できる限りの全力疾走で僕は走る。
ふと、暗がりの中で前方に何かが見えた。
気がつけば、一人分の足音がいつしか二人分の足音になっていた。
もう一つの足音の正体は、わずかに前方を走る見えない人影のものだった。
と、どうやらそのもう一人も僕の足音に気付いたらしく、闇の中でふとこちらを振り返った。
ちょうどそのとき、まばらに立ち並ぶ街灯がその姿を照らし出した。
「あ……」
僕がそう呟くのと同時に、向こうも同じように小さく口を開いていた。
「大和?」
走る速度を落としそう呟いたのは、他でもない飛鳥だった。
「飛鳥、どうして……」
隣に並びそのまま走りながら、僕は聞く。
「どうしたもこうしたも、こんだけ嫌な空気感じ取ったら、おちおち寝ていられないじゃない」
「……だよね」
僕達は並走しながら、そんなことを口にした。
「……ねぇ、正直これ、どう思う?」
「どうって言われても困るけど……良し悪しでいえば、悪い方だと思う」
「同感。この感じ、すっごい胸焼けに感じるもの。離れていてこれだけ嫌になるってことは、近づいたら相当やばいかも」
二人分の足音が焦るように地面を叩く。
近づきたくないという本能とは逆に、行かなくてはいけないという何かが体を動かしている。
「たぶん、氷室も来ると思う。いや、アイツのことだから、もう着いてるかもしれないけど」
「これってさ、やっぱり……」
「……うん。多分、間違いない。半信半疑だったけど、これで信じるしかなくなった」
氷室からのメールに記されていた、九人目の存在。
恐らく、今感じている気配の主がそれだ。
同じだけど同じじゃない存在。
見た目だけが人間の形をしていて、中身は得体の知れないバケモノ。
神によって世界に放たれた、監視者。
そして、真吾の分身。
「今度は何をしでかそうってのよ、まったく……」
「…………」
毒づく飛鳥に、僕は答えられなかった。
何が起ころうとしているのかは分からない。
けれど、何かが起きようとしているのは分かる。
それもきっと、よくないことが起きるような気がする。
予感とも、直感とも言い換えてもいい。
根拠は何もないのに、胸のうちの不安だけがどんどん大きく膨らんでいく。
何もせずとも、もうすぐ破裂してしまいそうなほどに、大きく……。
「……急ごう。何か、すごい嫌な予感がする」
「……そうね」
会話を一時中断し、僕達はわずかに走る速度を上げた。
と、そのときふいに背中を照らす車のヘッドライトに気付く。
すぐ横の道路を一台の車が通過したかと思ったら、僕らの前方十メートルほどの距離で停車した。
暗がりだったが、どこか見覚えのある車だった。
そして案の定、次の瞬間運転席から顔を覗かせたのは氷室だった。
「二人とも、早く乗ってください」
僕達はその言葉に従い、急いで後部座席のドアを開けた。
流れ込むように車内に入りドアを閉めるや否や、車は有無を言わさずに急発進した。
「うわ……」
「ちょ、氷室、安全運転しなさいよ」
「ああ、すいません。ですが、悠長に構えている余裕もないでしょう。悪いですが、制限速度は無視させてもらいますよ」
車は徐々に速度を上げていく。
すれ違う車もまばらな中、僕達を乗せた車だけが夜の闇の中を疾走していた。
シンと静まり返る車内。
わずかに緊張が生まれ、僕は空気の塊を呑み込んだ。
あれだけ寒い夜空の下を走っても震えなかった手が、今頃になって震え始めていた。
寒さのせいじゃない。
これはきっと、得体の知れないものに近づいているという、確かな恐怖からくるものだ。
ドクン。
心臓の鼓動が高鳴る。
掻き毟りたいほどの胸焼けはどこかへと消え去り、代わりに体全体が冷たく冷え切っていた。
薄氷の服を着ているみたいな感覚。
寒いのではなく、冷たい。
ギュッと拳を握り、震えを紛らわす。
強がりでいい。
虚勢でも張っていなければ、この先にあるものには立ち向かえそうになかったから……。
車は静かに停車した。
エンジン音が消え、車内も車外も張り詰めたような静寂に包まれる。
「……降りましょう」
氷室の一声で、僕達はそれぞれにドアを開けて外に立った。
車内の暖房のせいもあって、外気の冷え込みはいっそう激しく感じられる。
身を裂くような冷えた空気が、立ち尽くしているだけの僕達を容赦なく切り刻んでいく。
ドクン。
また一つ、心臓が高鳴った。
収まったはずの気持ち悪さが、少しずつ腹の底から滲み出してくる。
胃液が逆流し、胃の中のもの全てをこの場に吐き出してしまいそうになる。
無意識のうちに手が胸を鷲掴みにしていた。
苦しいのかそうでないのか、自分自身でもよく分からない。
ドクン、ドクン。
鼓動はさらに高鳴る。
そっと周囲に視線を巡らせるが、夜の闇はなにもかもを隠してしまっていた。
微かに捉えられるのは、廃棄された建物の輪郭と、その近くに散らばったままのコンクリートの塊だけ。
まばらに立つ木々も、その枝に数えるほどの葉しかなく、寒そうな肢体を晒していた。
「……なるべく離れないように。一塊になって動きましょう」
無言で僕と飛鳥は頷いた。
多分、氷室のその一言がなければ、この足はこの場に根を生やしたように動かせなかっただろう。
それくらいにこの場所は陰湿で、悪意に満ちた空間に変容していた。
近づくことを本能は拒否している。
だが、それ以上に働きかける別の何かが足を動かす。
先に進まなければ、何も変わらない。
理屈では分かっていた。
だが、分かることと実行することはまったくの別問題である。
足取りは重い。
一歩踏み出すごとに、靴の裏が砂利を踏み砕く。
その音だけで、体は見えないプレッシャーに押しつぶされそうになる。
肉が縮み、骨が軋んだ。
少しずつ僕達は、哂いながら待ち構える闇に近づく。
一歩、また一歩。
そしてさらに踏み出し、ある一線を越えたそのとき。
「……え?」
そんな、不思議な感覚に捉われたのは僕だけではなかったはずだ。
その一瞬だけ、体から寒さが消えた。
吹き付ける風が止んだ。
時間さえも止まったように感じた。
そしてふと気がつくと、僕達は同じ地面の上に立ちつくしていた。
いや、同じではなかった。
些細だが、しかし明らかにそれは異変と呼ぶに相応しい変化だった。
「これは、一体……」
氷室が声を漏らす。
「うそ、何で……」
続けて飛鳥が呟く。
僕はただ無言で、正面を見据えることしかできなかった。
すぐ隣に、氷室の車があった。
僕達が乗ってきたものだ。
それは別におかしくはない。
だが。
そこから降りて、間違いなく歩を進めて歩いたはずの僕達は、どういうわけか……。
――気がつくとまた、車の隣に立ち尽くしているのだ。
まるでドラマや映画のワンシーンを巻き戻したみたいだ。
距離にすればわずか数メートルほどだが、僕達は確かに前へと進んだのだ。
なのに、またこうして車から降りたその場所に立っている。
時間が巻き戻っているかのようだった。
あの一瞬。
何も感じなくなったあの一瞬に、僕達の中だけ時間が止まり、そして巻き戻され、また動き出す。
何なんだ、これは?
何が起こったというのだ?
僕はふと、足元に転がっていた拳大ほどの石を拾い上げた。
そしてその石を、放物線を描くように軽く前へと放り投げた。
放られた石は最高点まで達すると、そのまま重力に引かれて地面の上へと転がり落ちる……はずだった。
しかし石は、落下を始めたあたりでふと、音もなく姿を消した。
正真正銘、消えた。
さらに、直後。
コトン、と。
足元に、そんな音。
見ればそこに、今投げた石と似たような……いや、同じものが転がっていた。
間違いなく、僕の足元にあった拳大の石はあれ一つしかなかったはずなのに……。
そして、否が応でも理解させられた。
この先は、異空間。
恐らく、普通の方法では入ることのできない場所。
現実から隔絶された、闇の領域。
その壁は、驚くほどに薄く。
しかし、決して安易に破ることができるものではない。
なびくことのない夜のカーテンは、それでも静かに揺れている。
何もできない僕達を見下ろし、微かに哂うような声を風に乗せて……。