Episode91:守るものへの誓い
今まで生きてきた人生は二十数年。
人間の平均寿命を八十前後と考えるのなら、それはきっと短い時間にしか過ぎないのだろう。
そんな二十数年の中で、金縛りという現象を自覚した経験は数えるほどしかない。
夜寝ていて、突然体全体が痺れたように動かなくなるというあれだ。
だがそれもしばらくたてば自然と元に戻り、何事もなかったかのように体は平常の機能を取り戻す。
だが、今はどうだ。
蛇ににらまれた蛙という表現が一番近いものかもしれない。
氷室はその少年の外見をした何かが振り返り、その視線を正面から受けたたったそれだけのことで、金縛りにあったときとまったく同じように体を動かすことさえできなくなってしまっていた。
「……っ、体が……」
かろうじて呼吸もでき、口も動くので言葉も話せる。
だが、それだけだ。
足はまるで木の根にでもなって地面と一体化したかのように動かず、開いた手のひらを拳に握ることすらできない。
まるで全身が石の塊にでもなってしまったかのようだ。
と、そんな氷室を正面に見据えながら、彼は相変わらずの笑みを浮かべながら数歩ほど歩み寄る。
「く……」
体が反射的に防衛反応を示すが、やはり体は動かない。
どれだけ力を込めても硬直は解けず、まるで呪いか何かの類を全身に降りかけられたかのようだ。
そんな苦痛を覚える氷室を目の前にして、彼は言う。
「ああ、安心してください。今はまだ殺しませんから」
と、たった一言。
その顔はさわやかとも見れるくらいに笑みを浮かべているが、吐き出されたその言葉には極寒の冷たさしか感じられなかった。
ゾクリと、その言葉を受けると同時に氷室の全身に感じたことのないほどの寒気が走る。
あれほど力を込めても動かなかった手足が、今は小刻みに震えている。
「あなたにはまだ、やってもらわなくちゃいけないことが残ってますからね」
「……何なんですか……」
「ん?」
氷室の問いに、彼はわずかに首を傾げる。
「何、というと?」
「……あなたは……いや……お前は、何だ?」
敵意の満ちた視線で問う。
疑問と恐怖が織り交ざって、もはや意識が混濁しかけている。
「何だ、か……」
聞かれて、彼は考え込むように軽く腕を組む。
「……うん。その聞き方が一番適切かもしれないね。誰だ、ではなく、何だ、か。つまりあなたはもう、僕が俗に言う普通の人間と同じ存在ではないと、気付いているんだね?」
「…………」
無言は肯定に等しい。
それを彼も理解したのか、ふと小さく笑みを見せる。
「そのとおり。僕は人間ではないよ。けれど、少なくともこの世界では人間として生きている。普通の人間から見れば、僕の姿はやはり普通の人間のそれに映るからね。その差を見分けることができるのは、つまり人ならざる力を手に入れた選ばれし一握りの存在達だけ。なるほど。思ったとおり、あなたも能力者の一人のようだ」
そう言って彼はにこやかに微笑んだ。
普通に見れば普通の笑顔なのだが、氷室の目にはそれが悪魔じみた魔性の笑みに映って仕方がない。
「……っ、お前は、一体……」
「それはまだ知るべきことじゃないよ。いずれ全てが明らかになる。時が解決するとか、人間はよくそういう言葉を使うよね? それはただの逃げ口上だけど、今の状況に関して言えば真実に近いのかもしれないね」
「どういうつもりです? 何を企んで……」
「言ったはずだよ」
わずかにトーンの上がった声に、氷室は言葉を失った。
「いずれ全てが明らかになる。今はただ余計な詮索をせずに、成すべきことを成せばそれでいい。そうすれば全てが分かるときが来る。もっとも、それはつまり何かが終わって何かが始まるということなのだけれどね」
「……っ!」
反論を許さないようなその言葉に、氷室は気おされる。
こうしてただ向かい合っているだけで、生気を吸い取られていくようだ。
「……あなたは本当に頭の回転が速い。ある種の天才とも言えるほどにね。だけど、それは時として我が身を滅ぼすことに繋がってしまう。真実を追究するあまり、周りのことが何も目に入らなくなる。触れてはならない、触れなくてもいいはずの世界の闇の部分に足を踏み入れてしまう。それは悪いことではないのかもしれない。好奇心がそうさせているのかもしれない。だけど……」
一度言葉を区切り、彼は続ける。
笑みを消し、冷たい氷の言葉を。
「――覚えておくことだね。怖いもの知らずほど、怖いものはないということを」
「…………」
「……聞いたことくらいあるだろう? イカロスはロウで作った翼で空を目指した。しかし、ロウで作った翼で空を舞うことはできても、照りつける太陽の熱を遮ることはできなかった。翼は溶け、イカロスは大地へと堕ちていく。踏み込んでいい領域とそうでない領域。その境界線を自分の中に明確にしておかない限り、どれだけあがいたところでロウの翼では空に至ることはできないんだ。空は神の領域。神によって生み出された命がいくらがんばったところで、その手は決して空を掴むことはできない」
「……何が言いたいんです?」
「あなたほどの人ならもう分かっているでしょう? ようするにこれは、バベルの塔なんだ。互いに住む世界があるのに、領域を超えようと欲を出せば、塔もろとも崩れ去って大地に堕ちていく。まるでそれが、神の怒りに触れたかのようにね」
「……黙って聞いていれば、まるであなたが神にでもなったかのような言い草じゃ……」
そこまで口にして、氷室はあることを思い出す。
真吾は言っていた。
自分と同じ、記憶超越者とされる存在がもう一人この世界にいること。
記憶超越者。
それは数多ある世界を監視するために神によって創られた、記憶を継承する無限の生命。
そう。
神によって、創られた。
言い換えればそれは、もっとも神に近い存在ということになる。
「……まさか、あなたは……」
「……驚いた。もうそこまで理解が及んでいるなんて……」
まるで見透かしたように、彼はわずかに目を丸くした。
「けれど、分かったところでもう遅いよ。流れはもう構築されている。あとは何もせずとも、おのずと世界はゼロに向かって歩み始める」
「あなたは本当に……何を企んで」
「何度も言わせないでほしい」
一度目を閉じ、直後に開く。
「いずれ分かるときが来る。そのときまで、ただ待てばいい。大丈夫。そう遠くない未来のことだよ」
言って、彼はそっとその手を開いて氷室の目の前で広げた。
瞬間、氷室の意識が闇に堕ちる。
痛みも苦しみも感じず、まるで催眠術にでもかかったかのように意識が途絶え、金縛りも同時に溶け、両膝がガクンと折れて地面に横たわった。
「おやすみ、水の継承者。あなたも含めて、全ての封印が開放されれば、あなたの求めている答えも見つかるだろう」
告げて、彼は静かにその場を歩き去る。
足音も立てず、代わりにズルズルと闇の塊を引きずりながら……。
縁側から見ると、ちょうど夕焼けの日差しが目の中に飛び込んでくる。
今日もまた一日が終わりに近づいたことを何となく感じながら、真吾はうっとうしいはずの夕陽を手で払うこともせず、ただジッと見返すように座っていた。
こうしている間にも、時間だけが虚しく、しかし刻一刻と過ぎ去っていく。
だが、いくら頭を働かせたところで相変わらず妙案の一つも浮かびはしない。
もともとそんなものに望みを繋ごうと思ってもいなかったが、何もせずに諦めるというのもどこか気に食わない終わり方でもある。
抗う術があるなら最後まで抗うし、どれほど絶望的な可能性であっても、ゼロでない以上は試す価値があるだろう。
認めなくもないが、どこぞの神様が創り上げたこの連鎖する世界の輪というシステムはこれ異常ないくらいに完璧だった。
完全無欠と言い換えてもいい。
しかしだからこそ、どこかに小さな欠陥があるのではないだろうか?
どれほど優れた機械製品であっても、必ず不良品や初期出荷不良などは出てくるものだ。
完璧なものなんてない。
それは人にも物にも言えること。
ならば、きっと神だってどこかで間違いを犯しているはずだ。
恐らく自身でも気付かない、本当に些細な間違いかもしれない。
だが可能性があるならば、今はそれにすがりたい。
抗って、しがみついて、地を這って、泥の味を覚えてでもいい。
いつまでも誰かの手のひらの上で弄ばれる運命なんて、それこそあんまりじゃないか。
「……分かってるさ。分かっちゃいるんだよな……」
照りつける夕陽にグチをこぼすように呟く。
「けれど、これ以上何ができる? 何をできる? すでに終わりが決まっていて、全てはそこに辿り着くようにあらかじめ仕組まれた運命なんだぞ? それに気付き、抵抗することさえも計算づく。抵抗することに疲れ、諦めることも計算づく。何もかもが始まったときに終わっている運命だ。そんなデタラメなレールを走らされている俺達が、今更何をどうできるっていうんだ……?」
わずかに拳を握る。
悔しさでも歯がゆさでもない。
あえて言うならそれはきっと、情けなさなのだろう。
監視者として世界に放たれた自分が、誰よりも神の絶対性を信じて止まない存在なのだ。
にもかかわらず、こうして今抗う術を一つでも見つけようとしている、この矛盾。
あるはずのないものをいくら探したところで、そんなものが見つかるわけがないのだ。
闇の中、手探りで自分の影を探したところで、誰に見つけることができる?
手遅れというわけじゃない。
たとえどのタイミングで誰が同じことに思い至ったとしても、何一つ揺らぐものはない。
始まりの点がある。
終わりの点がある。
一直線に線を結ぶ。
それが最短距離であって、他に最短距離は存在しない。
全ての世界はそれに倣うように、始まりと終わりが予め定められている。
この場合、それが直線ではなく円を描く曲線だったという、それだけのこと。
何も変わらない。
何一つ変わりはしない。
全ては予定調和。
運命の終着駅はたった一つしかない。
理不尽な話だ。
数学でさえ、プラスとマイナスの二つの解を持ち合わせることがあるというのに……。
「クソ……恨むぜ、自分の生みの親をよ……」
恨んだところでそれは形にすらならないだろう。
なにせよ相手は神なのだから。
「あ、こんなところにいた」
と、そんな声に真吾の意識は現実に引き戻される。
振り返ると、そこに優希がいた。
夕飯の支度を終えたところだろうか、腕には折りたたまれたエプロンがぶら下がっている。
「何だよ。何か用か?」
「もうじき晩御飯だから、呼んでこいって」
「……悪い。食欲ねーわ」
「は? 食欲がない? 真吾が? うっそ、信じらんない……」
優希はまるで珍獣でも見るかのような視線で、わずかに後ずさりながらそんなことを言う。
「なになに、どっか具合でも悪いの?」
「別に……」
「じゃあ、拾い食いでもした?」
「おい、俺は犬か……」
「何言ってるのよ。しつけの悪さだったらアンタの方が数倍手がかかるじゃないの」
「…………」
相変わらずだが、何だろうこの扱いは。
「あー、うっせーなぁ。俺だってたまには悩んだり考えたりするんだよ!」
思わず怒鳴り、その拍子で立ち上がる。
「……だったらさ」
としかし、怒鳴られたはずの優希は妙に静かな物腰で言葉を続ける。
「――どうして、何でも一人で抱え込んでるの? 誰かに相談しようとか、そういう風に考えたこと、ないの?」
静かに、しかしそれは間違いなく真実だった。
「…………」
その言葉に真吾は何も言い返せなかった。
言われて見ればそれは当たり前のことだった。
分からないことがある。
自力で調べるには限界がある。
そんなときどうすればいい?
簡単だ。
実に簡単だ。
簡単すぎて、バカらしくて、笑いがこみ上げてくる。
ただそれは、あくまで常識の範囲内で考えられることの話であって。
とてもじゃないが、軽々しく打ち明けることができることではなかった。
少なくとも、本来ここでこうして呼吸するはずのなかったこの、緋乃宮真吾という人間を今まで、そしてこれからも家族として変わらぬ
ように接し続けてくれるであろう人達には……。
「……ごめん。偉そうなこと言っちゃったかな……」
「……いいよ。気にすんな。それに、お前の言葉がまんざら的外れってわけじゃないしな……」
そう。
それは確かに一つの真実。
ただそれが、たった一つの真実なのか、数多ある真実の中の一つに過ぎないのか。
それはきっと、誰にも分からない。
それでも、いい。
少しだけ迷いが晴れた気がした。
まぁ、とりあえず今は……。
「……腹減った。飯だ飯」
「あ、ちょ、ちょっと! 食欲ないんじゃないの?」
「……誰かさんのお節介のおかげで、どうでもよくなっちまったよ」
「あ……」
「……早くしろよ。お前の分まで食っちまうぞ?」
「あ、待ちなさいよ! それだけは許さないからね!」
……そうさ。
こんな俺を受け入れてくれた場所。
育ててくれた人の手。
同じ時間を過ごした仲間達。
この世界が、もうすぐ終わる。
そんなこと、あってはいけない。
たとえ何を犠牲にしても、守ってみせる。
生きる意味を忘れかけた心に、初めて宿った気持ち。
何も難しいことはない。
ただ、単純に……。
――この、心の底から大切だと思える人達が生きる世界を、失いたくない。
ただ、それだけ。
名を持たないはずだった一つの命が、新しい世界で唯一願って止まなかったこと。
――明日もまた、同じ陽だまりの中で……。