Episode90:九人目
尾行をするのはずいぶんと久しく感じる。
探偵家業ということもあり、過去にも素行調査などで経験したことはあるものの、何度経験してもあまり好ましいものではないことは確かだ。
思えば、独学で学んだ尾行に関してアドバイスをくれたのは他ならぬ刑事の竹上さんだった。
さすがに現役の刑事ともなれば場数を踏んでいるだけあって、当時素人同然だった氷室から見て、その様子は驚きの連続であった。
とまぁ、過去の経緯はこの際置いておくとしよう。
目標が十字路を左折するのを視界の端で確認する。
およそ十数メートルの距離を保ちつつ、氷室は足音はおろか気配すらも殺してあとをつける。
額や首筋には嫌な汗が流れ、殺した足音の変わり自分の心音がやたらと高鳴っている。
緊張なのか恐怖なのか、あるいその両方が織り交ざっているのだろうか。
定かではないが、呼吸するだけのことに必要以上の配慮をなしてしまうことは確かだった。
十字路を左折する。
相変わらずの等距離を保った位置に、目標の背中はあった。
恐らく感づかれてはいない……と、思う。
尾行というものはそのあたりの確認が実に難しい。
頭のいい目標であれば、尾行を察知しながらも気付かないふりをして歩き続けたりもする。
あるいは、逆手にとって人気のないところへ誘導し、返り討ちにあわせるなどということも考えられなくもない。
まぁ、後者は刑事ドラマの見すぎだろうとは思うが。
「…………」
だが事実として、判断はきわめて難しい。
通常であれば気付かれた場合、目標の方にまず何らかの変化が生じる場合が多い。
それは普通に見ているだけでは見落としてしまいそうなくらいに小さい、些細な素振りや動き。
無理に自然体を装うとして、逆そこに引き起こされる不自然さ。
そういうものを目で捉えて、尾行者は尾行の断念か続行かを判断する。
今のところ、目標の素振りなどにこれといった変化はない。
だから恐らく、この尾行は気付かれてはいない……はずなのだ。
少なくとも、常人が相手なら誰もがそう思うだろう。
しかし。
それはあくまでも、常人が相手ならの話であって。
目の前を歩くその目標は、その存在そのものがすでに人間という生命体のレベルをとうに通り越していることは、氷室の目には明白であった。
「……何なんです? あれは……」
決して誰にも届かないほどの小声で、氷室は呟く。
十数メートル前方を歩くその背中を見るたびに、全身が正体不明の寒気と怖気に襲われる。
外見は間違いなく人間の少年の姿をしているのに、その恐ろしいほどの存在感の威圧に、これだけの距離をもってしても押し潰されそうになる。
前述したとおり、この程度の距離が氷室にとって尾行しやすい距離感であることは嘘ではない。
だが付け加えるなら、これ以上近づけないのだ。
言葉にはしにくいその威圧感というか圧迫感のようなものが、本能に信号を送る。
離れろ、危険だ、と。
「……っ」
離脱を考える。
危険を承知で飛び込むのは勇気ではなく無謀だと、冷静な氷室ならそう判断できたかもしれない。
だが、一度でもこの威圧感を覚えてしまったら、冷静でなんかいられない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
しかし目に見えているその穴が、果たして本当にただの虎の住処なのだろうか?
確かめる必要がある。
確かめるためには、そう。
「……行くしかないみたいですね」
無謀だと理解してなお、飛び込む決断が必要不可欠である。
幾度目かの曲がり角を曲がり、歩いた距離もそれなりに長くなってきていた。
歩く道のうえはいつしか人波をはずれ、どこか静かな雰囲気のする方向へと変わる。
ここにきて、氷室の中にある不安の色が徐々に濃くなり始めていた。
やられたかと、内心で呟く。
もしかしたら尾行していることはとっくにばれており、それでもなおその気付いた仕草を表に出さない目標に誘われ、まんまと今いるこの場所までおびきだされているのかもしれない。
だとしたら尾行は失敗だ。
速やかに場を離れ、距離を置く必要がある。
だが一方で、まだばれていないという可能性も十分にあった。
結局その判断が難しく、ずるずるとひきずるように氷室は尾行を続けている。
すでに周囲の人気はなく、黄昏が目の前に迫る空模様がよりいっそう不安を後押ししているようだ。
これは花と虫だ。
花の撒き散らす香りに誘われた虫が、まんまと罠にかかるかのような様子。
だがそれも無理はない。
この場合の花……つまり目標は、あまりに不気味すぎる気配を発しすぎている。
普通はまず気付かないであろうが、似た匂いを持つ氷室はこれを感じ取ってしまった。
つまり、普通では考えられない、異能の力を持つ者同士として引き合うような関係にあるのかもしれない。
それはさておき、前を行く背中はさらに人気のない場所へと進んでいく。
しかしここまできて離脱することなどできそうにもない。
もしも今追いかけている目標が、今回のこの戦争の中に一枚噛んでいるのだとしたら。
それは大きな確率で、相対する敵側の黒幕である可能性が高い。
聞きだすべきことはいくつもあるし、場合によってはこの場で戦うこともあるだろう。
もっとも、敵の能力はあまりにも未知数だ。
同じ人間としての立場ならともかく、少なくとも目標は人間ではない。
それはただ人の形をまとっているだけで、中身は全くの別物だ。
少なくとも、同一次元上に共存しているはずがない存在。
ゆえに、それを一言で形容する言葉は一つしか存在しない。
――それは、間違いなくバケモノだ。
「……っ!」
息を殺し、氷室は物陰に身を隠して立ち止まった。
目標が歩みを止めたからである。
そっとその様子を覗うと、目標はその場で静かに立ち尽くし、その目の前に聳え立つ巨大な樹を見上げていた。
その樹はこの月代市のほぼ中心の孤立して聳え立つ、一本の巨大な樹である。
樹齢が何百年、あるいは何千年といわれているその樹は、過去に幾度の天災に見舞われても決して崩れ落ちることなく、確固としてその場所に根を生やし生き残っている。
その様子はまさに永遠の命を思わせることから、人々はこの樹を永久の樹と呼ぶ。
もともと観光名所などないに等しかったこの地にも、この樹を見るためだけに観光客が訪れることも近年では珍しくない光景だ。
何でも、永遠を案じさせるこの樹に、発展やご利益を重ねているらしい。
言ってみれば神社の代わりに近いものだろうか。
そんなありがたみがありそうな樹を見上げたまま、目標はただ何をするわけでもなく立ち尽くしていた。
五分が過ぎ、間もなく十分が経とうとしても、目標はその場を微動だにしない。
食い入るように様子を覗っていた氷室も、この様子に疑問を思い始める。
「……一体何をしているんです? こんな場所に、何があると……」
小声で口にした途端、脳裏にイメージが甦る。
弾けた光が閃光のように瞬いて、一瞬のあとに集束した。
「まさか……」
今の今まで、どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろう。
今いるこの場所は、ちょうど街の真ん中……中心に位置する場所だ。
思い出せ。
八つの封印のほかに、もう一つ大和が光を見た場所があっただろう。
それは白い紙の上に描かれた正八角形を位置する点の、ちょうど中心部。
この街の地図に照らし合わせれば、町の中心を示すその場所に合ったということ。
それはつまり、この場所だ。
「まさか……いやしかし、封印は全部で八つのはず。なら、一体この場所は何のために? もしや、封印は本当は九つあり、その最後の場所がここだということですか? いや、だとしたら封印の数に比例し、能力者の数も増えるはず。今所在が割れている能力者は私を含めてちょうど八人。これでは数が合わない……」
もしやと、さらに氷室は思考を巡らせる。
追ってきたあの目標がもしも九人目の能力者だとすれば、とりあえずの辻褄は合う。
が、それはない。
能力者同士であれば、ある程度離れていても互いを察知できるからだ。
それは別に力を使っていても使っていなくても同じことである。
独特の感覚が働くのだ。
だが今、目標に対してそのセンサーは音を潜めたまま反応を示そうとはしない。
つまり、目標は能力者ではない。
だがそれでも、何かしら『Ring』に関わりを持つ存在であることは間違いないだろう。
どちらにしても、目標がこの場所にやってきていると言う目の前の現実は確かなものであり、そこには必ず何かしらの理由が存在するはずである。
その理由というのが見当もつかないが、どうでもいいと吐き捨てるわけにはいかない。
もうそろそろ様子を覗うのも限界だろうか。
どうする?
こちらからかまをかけてみるか、それとももう少し様子を見るか?
そんな選択を内心で迫られている氷室をよそに、目標に動きがある。
「――もう……、…………この世界は……。あなたが…………、……になりつつある……」
その囁きは独り言のようで、微かにしか聞き取ることはできなかった。
だが間違いなく、目標は目の前の樹に向けてその言葉を発しているようだ。
その言葉が意味するものは何なのか?
そして彼は一体、どういった存在なのか?
疑問ばかりがこみ上げて、何一つ解決に至らない。
嘲笑うかのように、そんな氷室を木枯らしが冷たく打ち付ける。
が、そのおかげで届いた。
彼の声が、風に乗って。
「――哀れな神よ。貴方が生んで貴方が愛した輪廻の輪を、もうすぐ僕が破壊する。全てをゼロに還し、全てをゼロから創り上げる。かつて貴方が望み、そして実行に移せなかった連鎖崩壊を、今度は僕が引き起こす。全ての世界は仮初で、全ての世界は偽りだ。だから、僕が新しく創る。痛みも悲しみもない、誰もが救われる安らぎの世界。皮肉だね。貴方ができなかった理想を、貴方によって生み出された僕が実現させる。ずいぶんと時間がかかったけれど、それももうすぐ終わる。八つの封印の開放と、ここに眠る記憶があれば、世界は痛みのない再生を始める……」
詠うように、流れるように彼は言った。
一つ一つが不明瞭なその言葉でも、繋がればどうにか理解に及ぶ。
破壊。
還元。
創造。
それらが意味することは、決して小さな規模のことではない。
やはり彼は、何かを知っている。
そしてこの戦争の舞台裏の観客として、何かを成し遂げようとしている。
これは大きな収穫だ。
恐らくこれ以上の情報を入手することは、今は不可能だろう。
もとい、危険が高すぎる。
今は一刻も早くこの場を離れ、落ち着いて考察をする必要がある。
氷室は離脱のため、慎重に気配を殺してその場を去る。
足音など立てず、空気に溶けるように静かに、速やかに。
だが。
それでも彼は言う。
まるで、全てを見透かしたような、汚れを知らない無垢な少年の声色で言うのだ。
「――あなたも、そう思いませんか?」
一度も振り返らず、彼は言った。
命の気配を感じさせない声が響く。
それだけで、氷室の足はは停止する。
氷の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚が全身を襲う。
そしてそんな様子を、やはり一度も振り返らずに彼は見ていた。
そして最後に、クスリと。
無邪気な子供が見せるような笑い声を、静かに響かせた。