Episode87:気持ちの在り処
夕刻が迫る頃、月代市一帯を震度三強の地震が襲った。
さすがにそのくらいでは建物の倒壊や地割れなどの大きな災害まで進展することはなかったが、ここ数日の間に連続して起こっている不可解な出来事に後押しされ、街を歩く人々も不安の言葉を漏らさずにはいられなかった。
とはいっても、結局のところ地震は地震でしかないないわけであり、揺れが収まってしばらくした頃には、そんな不安の色も一日の終わりに向けて静かに消えつつあった。
だが、実際はそうではない。
限られた一握りの人間だけが、この異変をただの地震ではないものだと理解していた。
それは、開放であると。
理解しながらも、僕達はそれをただ見届けることくらいしかできなかった。
僕がその感覚を覚えて間もなく、すぐに携帯に着信があった。
発信者の名前は氷室。
間髪いれずに僕は通話ボタンを押した。
「もしもし、氷室?」
「その様子だと、大和も分かったみたいですね」
「うん。これってやっぱり……」
「ええ。間違いなく、またどこかで開放が行われているのでしょう」
「……どうする? 今から急げばまだ間に合うかも……」
「……いえ、残念ですが今回は見送りです」
「え、どうして?」
通話口の向こうで一拍の間を置いて、氷室は続けた。
「先ほどの地震から察するに、恐らく開放されつつある封印は地の封印だと思われます。ですが、それがこの現実世界に与える影響は極めて大きいと考えられるからです」
「……それって、どういう……」
「いいですか、大和? あなたが風の封印を開放したとき、その影響で嵐や台風が起こったりしましたか?」
「いや、そんなことはなかったけど……」
「同様に、飛鳥が雷の封印を開放したときも、落雷などの異変は起こらなかった。ですが、敵側の封印である炎、氷、そして今回の地に関していえば、全てにおいて何らかの異変が起こっているんです」
言われて思い返し、僕は気付いた。
確かにそのとおりだ。
まず炎の封印で森林公園が焼け、氷の封印で旧校舎が氷漬けになった。
そして今回の地震とくれば、これはもはやただの偶然で片付けられるはずがない。
「どういう理屈か知りませんが、相手側の持つ『Ring』の開放は全て、何らかの影響を現実世界に引き起こしています。それが単純に属性のせいなのか、そうでないのかはまだ分かりません。ですが、そうである可能性がある以上、このあとにさらに大きな地震が起こることも十分に考えられます。そういうわけで、今は外出を極力控えるべきです」
「……分かった。けど、それじゃ……」
そこに続く言葉をあらかじめ分かっていたかのように、氷室は言葉を続けた。
「……色々と思うところもあるとは思います。ですが、私達だって能力者である前に一人の人間なんです。災害に巻き込まれでもすれば、ただでは済むはずがない。堪えてください。今は動くときではありません」
「……うん。分かったよ」
氷室の言うことはもっともだったし、何より遠回しだけれど僕の身を案じてくれているのはよく分かった。
「助かります。さて、あとは同じことを飛鳥に伝えて、素直に納得してくれればそれで助かるんですがね……」
やれやれと、口にしていないのにそんな言葉が聞こえるくらいに、氷室は疲れた声で言った。
「飛鳥だって、言えば分かってくれるよ。そこまで無茶な真似はしないと思うし……」
「……大和、本気でそう思いますか?」
「……う」
そう念を押されるように聞かれると、僕としても多少自信がなくなってくる。
「……多分、いや、きっと……」
「……ま、そういうことですよ」
今度こそハァと、氷室は小さく溜め息を吐き出した。
「と、時間をとらせてしまってすいません。用件はそれだけです」
「あ、うん。わざわざありがと。多分、この電話がなかったら、僕は家を飛び出してたかもしれない」
「ええ。そう思ったので、先に大和に電話をかけさせてもらいましたから」
それはつまり、僕のほうが飛鳥よりも無茶をしそうだったということだろうか?
「それでは、これで失礼しますね」
「うん……あ」
と、今まさに通話が切れそうな瞬間に、僕は思い出したように声を上げた。
「どうかしましたか?」
幸い電話はまだ切れておらず、かろうじて氷室の声が聞き取れた。
「ごめん氷室。実はちょっと、話しておきたいことがあるんだけど……」
それは、僕が体感した昨夜の不思議な出来事のことだった。
冷たい雨が降り注ぐ夜の中、傘も差さずにやってきたかりん。
体をずぶ濡れにしながらも、指先一つ震わせず、ただ僕のことを見ていた。
そしてその手には、銀色のナイフ。
その見えない切っ先が、僕の腹部に突き刺さり……。
そこまでイメージを思い出して、反射的に僕は腹部を押さえていた。
当たり前だが、痛みは何もない。
服を捲り、皮膚に触れてみてもそこには傷痕の一つさえ残っていない。
だから僕は、それを夢か何かの出来事だと思っていた。
そう、少なくとも、午前中に家を出る直前までは……。
「少し長くなるかもしれないけど、いいかな?」
「……分かりました。ですが、とりあえずは飛鳥を言いくるめておくことが先決です。一度切って、またこちらからかけ直しますので、少し待っていてもらっていいですか?」
「うん、構わないよ」
「分かりました。では、またかけ直します」
そこで通話は一度途切れた。
プツッという電子音が耳の奥に響き、ツーツーという音だけが連続でこだまする。
僕は一度携帯を折りたたみ、机の上に置いた。
氷室からの電話を心のどこかで待ち遠しく思いながらも、頭に浮かぶのは困惑の色だけだった。
一体どこからどこまでが夢で、どこからどこまでが現実なのだろうか。
いや、そもそもこんな考え自体が間違っているのかもしれない。
真吾の言葉を借りるのならば、僕達が今いるこの世界さえ、神様という存在が作り上げた決められた未来へと歩く一つの輪に過ぎないの
だから。
そう。
ここは迷路……いや、迷宮だ。
入り口はある。
しかし、出口があるかどうかは分からない。
その上、入ったその瞬間に入り口が消える。
必然的に僕達は閉じ込められ、道なりに進むことしか許されなくなる。
その先にあるものが、全てはすでに決められた未来だと知って……。
数分後、再び氷室から電話がかかってきた。
僕はその通話の中で、昨夜体感したその夢か幻か現実かさえも曖昧な出来事を話した。
話を聞く間、氷室は終始無言のままだった。
どれだけの時間、僕が一方的に話し続けていたのかは覚えていないが、その時間はやけに長く感じられた。
そして一通りの話を終えて、僕は言葉を区切る。
相変わらず氷室も無言のままだったが、間もなくしてその口が開かれた。
「大和、あなたはどう思っているんです?」
「どうって……?」
「あなた自身は、その出来事を夢か幻だったと思っているんですか? それとも、実際に起こったことだと思っているんですか?」
「僕は……」
改めて問われ、僕はしばし考える。
だが、至る結論はやはり同じ。
「……夢だったんじゃないかって、そう思ってる。何より、確かに刺されたはずの腹部には何の傷痕も残ってないし、もし本当に刺されてたなら、今頃僕は病院に担ぎ込まれててもおかしくないはずだよ」
「……なるほど。確かにそうですね」
肯定し、氷室が頷く。
「……ですが」
と、間を置かずに氷室は言葉を続ける。
「本当にそうでしょうか?」
「え?」
その言葉の意味が、僕には分からなかった。
「本当にって、氷室、どういう……」
「ああ、すいません。少し紛らわしい言い方でした。私が気になっているのはですね……」
そして氷室の口から、僕の想像を超えた言葉が囁かれた。
「――本当にかりんは、あなたの腹部を刺したのか、ということですよ」
「な……」
思わず僕は反す言葉を失う。
「いくらなんでも、腹部を刃物で刺されればそれなりの痛みを覚えるはずです。ですが、先ほどの大和の話の中に、あなた自身が痛みを覚えたというその瞬間がすっぽり抜け落ちているんです。当然ですが、刺されなければ痛みなんて感じるわけがありません」
「……それって、つまり……」
「刺されていない。もしくは、刺されたように感じた感触は、実は全く別のものを貫いていた感触で、それを大和が自分の体に加えられた衝撃だと勘違いしていた可能性があります」
「で、でも!」
わずかに声を荒げ、僕は氷室に聞き返す。
「だったら、一体何だったのさ? 僕は確かに感じたんだ。刃物が皮膚を突き破るようなあの……不気味な感触を」
「ですから、それ自体は間違いではないのでしょう。ただ、刺されたのは間違いなくあなたの体ではなく、別のものだったということになります」
「そんな……だってあのとき、僕以外にはその場に誰一人も……」
言いかけて、僕はその事実に思い当たる。
言葉を失い、携帯を持つ手が小刻みに震えているのがよく分かる。
……そうだ。
いたじゃないか、もう一人。
僕以外に、もう一人いたじゃないか……。
冷たい雨の降りしきる夜の中に、傘も差さずにその小さな体をずぶ濡れにしたまま立ち尽くす、一人の少女がちゃんといたじゃないか。
「……まさか、かりんが、自分で……?」
「……あくまでも、可能性の話ですがね」
思い返す。
昨夜のその光景を。
雨で視界は悪かった。
冷たい雨が全身を打ち付けて、僕の衣服と髪は瞬く間に水分を吸収していく。
二言三言、会話をした。
雨の音がノイズになって、音声が正確には再生されない。
どちらが先に沈黙を破り、また先に沈黙を守ったのか。
やがてかりんはこう言った。
忘れて、と。
一歩、僕に向けて歩む。
一歩、また一歩。
そして、その距離が限りなくゼロに近づいたその瞬間、衝撃は訪れた。
ズブリと、鋭い何かが幕を突き破るような、不気味な感触。
だが、そこに。
僕の体から発する痛みは、微塵もなく。
それでいて、雨に濡れた地面には、赤い水溜りが小さく広がり。
また、かりんの声が聞こえたんだ。
サヨナラ、と。
その一言をきっかけにして、僕の体は糸の切れた操り人形のように自由を失い、膝から崩れ落ちていった。
濡れた地面に横たわる。
わずかに開いた視界の先に、夜の闇を振り払うような銀色が見えた。
それは研ぎ澄まされた刃の刀身であり。
その切っ先の部分は、誰かが流した血で赤く赤く染まり返っていた。
その時。
僕は確かに、見ていたんだ。
ナイフを握ったかりんの右手。
それとは反対の左手の甲の辺りから、なぜか……。
――真っ赤な血が流れ落ち、足元に赤い小さな水溜りを作り上げていたことを。
「……どう、して……」
僕は無意識のうちに呟いた。
電話の向こうから聞こえる氷室の言葉も、今は耳に全く入らない。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
真実はどこにある?
誰でもいいから教えてほしい。
そう、例えそれが……。
――気紛ればかりの、神であっても……。