Episode86:新世界で
隣を歩いているはずなのに、ありえない距離感を感じている。
耳の奥に届く音は二人分の足音。
リズムと呼ぶにはあまりにも無機質で、しかし一定間隔で繰り返すそれは確かな波を起こしていた。
「…………」
「…………」
僕は氷室の事務所を真吾とともに出て、今はこうして道なりに歩いていた。
建前とした理由の通院も済ませたことだし、このあとはこのまま家に帰ることになるだろう。
と、今更になって思い出した。
何だかんだで、結局氷室に相談したかったことを何一つとして打ち明けていないではないか。
だがまぁ、それも無理もないだろう。
話の路線は予想外に大きく脱線し、今でもその余韻が胸の中で渦を巻いているくらいだ。
「――俺は緋乃宮真吾という人間じゃない」
一番重くのしかかるのは、やはりその一言だった。
人間じゃない。
それは完全なる否定の言葉。
嘘も冗談もカケラも混じらない、純粋な刃のような言葉だった。
その言葉を口にした真吾本人は、一体どんな気分なのだろうか?
いや、そもそも自分という存在があまりにも不安定で、なおかつ予め定められた未来を歩かされていると知ったとき、どんな気持ちだったのだろうか。
確かに命を与えられて生まれたはずなのに、それは全て作り物で。
言ってしまえば、誰かの手のひらの上でいいように動かされるだけの、便利な駒。
そのことに気付いたとき、何を思ったのだろう。
きっと僕だったら、正気ではいられない。
目の前にある現実も、どこまでが本物でどこからが偽者なのか。
見上げた空は現実なのか、それとも仮初なのか。
前も後ろも右も左も、上も下も分からない世界で、何を頼りにどこへ向かえばいいというのだろうか。
本当の意味でそれは、無限に続く地獄のような道のりだったのではないだろうか……。
「……驚いたか?」
ふと、真吾が口を開く。
突然のことに僕は思わず心臓が跳ね、答えを返すのに一拍の間を必要とした。
「……うん。正直、まだ全部が全部信じられないって感じだけど……」
「ま、そりゃそうだな。いきなりあんなこと言われたら、まずは言った本人を精神病院に直行させるのが普通だ」
などと、妙に茶化したような言い草で真吾は笑った。
「けど、本当……なんでしょ?」
「……ああ、そうだな」
歩くペースをわずかに緩めて、真吾はまだ青いままの空を見上げながら続ける。
「ホント、気が狂いそうになってるはずなんだけどな……」
同じように僕も空を見上げる。
小鳥の群れが雲と雲の合間をすり抜けるように飛んでいった。
遠くに浮かぶ分厚い雲が、どこかウサギのように見える。
「……性格とか性別とか、生い立ちは全部バラバラなくせによ、記憶だけは一貫して継続されてやがんの。別に思い出したくもないようなどうでもいいことまで、俺のココには全部残ってる」
こめかみのあたりを人差し指で小突きながら、真吾は言う。
「すげーんだぜ、ホントに。いくつ前の世界でどんな風に生まれて、どんな環境で育って、どんな死を迎えたかまで、事細かく覚えてる。人間の脳ってのは大半が眠ったままで機能してないって話だが、俺の脳に限っては常時フル稼働だな。おかげで忘れることを忘れちまってるくらいだ」
「…………」
僕にはこれまでに真吾が……いや、今現在真吾としてここにいる彼が、どれだけの世界でどれだけの記憶を受け継いできたのかは分からない。
けれど、それはきっと苦しみばかりの道のりだったんじゃないかと思う。
一つ一つの世界で見れば、きっと幸せなこともあったのだろう。
けれど、その世界で終わりを迎えることは決して叶わず。
どれだけ安らぎを求めても。
どれだけ運命を拒んでも。
それはきっと、悲しすぎるほどに無意味で。
「…………」
「っと、悪い。別にグチるつもりじゃなかったんだけどな」
「あ、そんなんじゃないけど……」
けど、何だ。
言葉が全然見つからない。
何を言えばいいのだろう。
何を言ってもそれは不正解な気がした。
言葉で拭いきれるものなんて、きっと大したものじゃないんだ。
どれだけよさげな言葉を選んで口にしても、きっと僕は真吾を理解できないだろう。
だったらいっそのこと、何も言わずに沈黙を守っていればいい。
いい……はずなのに。
……どうしてだろう。
「……何か、ないの?」
こんな言葉が出てくるのは、どうしてなんだろう?
「何か方法はないの? 全部は理解できないけど、僕達がいるこの世界が危険な状態にあるっていうことは分かった。だけど、そのために真吾が死ぬ……消える必要なんてないじゃないか」
「大和……」
「……ごめん、無茶苦茶言ってるのは分かってるんだけど……でも、そんな終わらせ方は僕は納得できない」
「……いや、お前の言うことはきっと正しいんだろうよ。俺だって別に、納得してるわけじゃない。ただ、納得することでしか自分自身を妥協できねーんだよ。俺の置かれたこの境遇が、全て神様とやらの単なる気紛れに過ぎないなんて、もちろん俺も納得できねー。けどな、もう俺は抗うことには疲れたんだ。どういう理屈か知らねーが、こればっかりはもう本当にどうしようもねーんだよ」
「それは……っ、そうかもしれないけど……」
僕の言葉はそれ以上続かなかった。
がんばることでどうにかなる範囲の問題なら、きっと真吾はとっくの昔にどうにかしているに違いない。
「……まぁいいさ。とりあえず、今の俺もこの世界が滅びるのを黙って見ているのは納得いかないんでな。できる範囲で抵抗はさせてもらうさ。どういう結果になるかまでは分からねーけどな」
「それってやっぱり……最後には、消えるってこと……?」
「……どう、だろうな。好き好んで消えようとは思わないかもしれない。が、それしか方法がないなら、そうするかもしれない」
「……っ」
未来は変わらない。
遠回しだけど、真吾がそう言っている気がしてならなかった。
歩みを止める。
どれだけ歩いたのだろうか、振り返れば道の上に人気はなく、ウサギの雲が少し近くに流れてきていた。
「さて、と」
視線を戻し、真吾は言う。
「ま、なるようにしかならねーよ、結局のところな」
「……真吾」
「おいおい、そんな顔すんなよ。まだどうなるか決まったわけじゃねーんだからよ。もしかしたらとんでもない秘策が思い浮かぶかもしれ
ねーし、今からそんな沈んだ顔してんじゃねーっての」
つとめて明るく、普段通りの調子で真吾が言う。
それが今は逆に違和感みたいで、少し痛かった。
「……そう、だね。まだ、何も終わってないもんね」
「ああ、終わってない。このまま終わらせてたまるかよ」
そして真吾はなにやら自信ありげに胸を張り、自分の境遇など全て振り払ったかのように言った。
それでも、きっと……。
運命は変わらないのだろうと、僕は何となく分かっていた。
でも今はそれを口にはしない。
わずかでもいい。
消えかけた希望の火が灯るのなら、僕はそれを消す風ではなく、焔に育てる風でありたかったから……。
昔話の続きをしようか。
幾千の生と死を繰り返す記憶は、生まれ変わるたびに新しい一つの生命体として生まれ、それまでの記憶を継承する。
このとき、すでに何回目の継承だったかは定かではない。
記憶は彷徨い、世界の中へと迷い込んだ。
次なるはこの世界、生まれるはどの場所か。
そのとき、記憶はそれを見た。
季節は冬、吹雪で一寸先さえも見えない夜の闇の中。
置き去りにされたそれは、極寒の中で間もなくその命を絶やさんとしていた。
外見は赤子。
すでにその体はとうに冷え切り、しかし抗うにも赤子は泣き喚くこともできない。
死が迫る。
刻一刻、確実な死が迫る。
命の火が、消え行く。
その、刹那。
記憶は介入を試みる。
今まさに死を迎えんとする赤子の体を、この世界での器に選んだ。
かくして、器の赤子に記憶は乗り移る。
命の火は消えず、静かに焔に変わった。
明けて翌日。
幸いにしてか、赤子の捨てられた場所は孤児院の目の前だった。
誰かの足音が近づく。
足音は徐々に早まり、吐き出す白い息がその誰かの慌てた様子を思わせた。
誰かが別の誰かを呼んだ。
足音が増える。
その頃になってようやく、記憶はその体へと無事に定着を済ませた。
自分の力でゆっくりと目を開けた。
細く狭い視界の先、誰かの顔が見えた。
そのはるか向こうに、輝く太陽が記憶を見下ろしていた。
これより記憶は、この世界で観察を始める。
後日、記憶に名が与えられた。
置き去りにされたかごの中に、名前が書かれた衣類があり、そこに書かれていたものだそうだ。
――名を、緋乃宮真吾という。
新しい世界の幕開けは、太陽に反射した雪の照り返しが眩しく告げた。