Episode84:記憶が還る場所
「……いくつもの世界を……」
「創った……?」
繰り返すように呟いて、僕達はわずかに息を呑んだ。
それはまるで、現実から遠く離れたファンタジーの世界ならではの話だった。
いや、頭ごなしに全てを否定するつもりではない。
僕達の住むこの地球という惑星が誕生したのは、宇宙でビッグバンと呼ばれる現象が起きたことがきっかけだと言われている。
ビッグバンとは極端に言い換えてしまえば、大爆発ということだ。
その衝撃で大小無数の星があちこちへと飛び散り、宇宙全体に広まったとされている。
その中でも環境や条件が整った惑星は、今あるこの地球のように永い時間をかけて育ち、成長していくことになる。
それこそ、気が遠くなるような年月をかけて……。
「信じられるか? いや、信じられないだろうな。何より、俺自身がそうだった」
僕達の答えを待たずに、真吾は静かに語る。
「だが、あるとき俺は気付いた……いや、気付かされた、と言うべきか……」
「…………」
「…………」
「…………」
僕達は無言で先を促した。
空気がさらに一際温度を下げる。
がら空きの背中に冷たい刃物をピタリと添えられたような、悪寒さえ覚えそうな感覚だ。
「……俺の中にはな、俺が今の俺である以前の俺であるときの記憶が、何一つ欠けることなく残ってるんだ。これがどういう意味か、分かるか?」
「……記憶が残ってる?」
「真吾が、真吾である前の……?」
それは一体、どういう意味のものなのか。
疑問に思うことしかできない僕と飛鳥の傍らで、しかし氷室だけが怪訝そうな表情で眼鏡を押し上げていた。
そして、言った。
「――それはつまり、あなたがそうだということですか? 今言った尽きることのない、神が哀れに思って終わることのない命分け与えた存在。それが、あなただと、そういうことなんですか?」
氷室の言葉に、僕と飛鳥は言葉を失った。
対する真吾は、何も答えずにわずかに目を伏せている。
「……嘘、でしょ?」
枯れた声で飛鳥が呟く。
「だって、そんなのありえないじゃない。それが本当だったら、こいつはもうどれだけの時間を生きてきたっていうの?」
「それこそ、気が遠くなるほど、なのでしょうね。宇宙の誕生はおよそ四十六億年前と言われていますから、そっくりそのままなのか、あるいはその神様とやらが実在したのならば、さらに長いかもしれません」
それは、本当に……どこまでも途方のない過去の話なのだろうか。
「……ま、そんなことは別にこの際、どうだっていいんだよ。俺の出生のどうこうなんてのは置いておこうぜ」
話を区切り、真吾が顔を上げた。
「本題はそっちじゃないだろ? んじゃま、一つずつ順に説明していくか」
小さく息を吐き出し、真吾は続ける。
「まず、目の前の疑問点からだな。俺がなぜ、そこの兄さんに俺を殺してくれるように頼んだのか。結論から言うとだな、時間がないからだ」
「時間がない?」
「時間って、何の時間よ?」
「今あるこの世界が、この世界としての形を保っていられるだけの、残された時間のことだ」
「……何よ、それ。まるでこの世界が滅びてしまうような言い方じゃ……」
「ような言い方じゃない。事実、この世界は滅びに向けてすでに歩み始めてるんだよ」
あっさりと、しかしとんでもないことを真吾は言ってのけた。
「滅びるって……つまり、消えてなくなっちゃうってこと? 大昔に隕石が落ちて恐竜が滅んだみたいに……」
慌てふためく飛鳥をよそに、真吾は冷静に答える。
「いや、そういう外部からの干渉を受けてどうこうの問題じゃない。正真正銘、消滅するんだ。それは物理的な意味合いじゃなく……どう言えばいいんだろうな。どの言葉を選んでも正しくないかもしれないが……なかったことになる。全てなかったことになるんだ」
「なかったことになる?」
「つまりだな、この世界がどれだけ進化を遂げたとか、どれだけの人や動物が生きていたとか、栄えたものは何だったかとか。そういった、本来なら後の世に歴史として記し残されることさえもなく、全くの無に還るんだ。最初からこの世界も、この世界にいる人も動物も、この世界が今まで刻んできた歴史も何もかも、全て白紙に戻る。ゼロになる」
「……何、それ……」
「そんな……」
「…………」
もはやスケールが大きすぎて、何がなんだか分からない。
頭で無理に理解しようとすればするほど、逆に混乱ばかりがこみ上げてくる。
「……理解が追いつかないだろうが、話を続けるぞ。でだな、当然今現在そういう事態に陥っているということは、過去にそうなる要因があったってことになる。全ての事象には原因と結果があり、そのどちらか一方でも書ける場合は事象は事象として成り立たない。万物に共通する論理だ。では、一体何が今の状況を作り出した原因なのか。これはもう、言わなくても察しが付いてるんじゃねぇのか?」
言って、真吾は僕達を軽く見回した。
まさかと思い、僕は半ば反射的に視線を落とした。
その、自らの指の中に収まった古代の遺産……『Ring』へと。
「まさか……」
不安が声になる。
返る言葉は……。
「ご名答」
偽りのない、肯定。
「俺達が持つこの『Ring』の力が、神様の創った連鎖する世界に影響を与えてやがる。さっきの昔話でも例えたが、神様は無数の世界それぞれを一つ一つの輪と見立て、それを鎖のように連結させたんだ。だがな、鎖だって所詮は金属だ。時間が経てば錆付き、色は剥がれ落ち、強度は劣化する。神が生み出したものだからといって万能じゃねぇんだよ。事実、人間は欠陥だらけの生き物だろう? 神の力を以ってしても、完全なる存在は創ることができなかったんだよ」
「……つまり」
氷室がその後に言葉を続ける。
「今はまさに、その鎖が外れかかっている状態ということですか」
「そういうことだ。これは仮説だが、封印開放に伴ってしだいに連結の力が弱くなっていると考えられる。もともと自然に弱まりつつはあったんだろうけどな、それに拍車がかかった。ブレーキが壊れてる車が、下り坂を転がり始めたような感じだ」
「……単刀直入に聞きます。打開策は?」
「……残念だが、俺には思い浮かばない。仮にここで封印開放の手順の一切をやめたとしても、もう手遅れだ。遅かれ早かれ、やはりこの世界は消滅する」
またも簡単に真吾は言い切った。
「だが」
と、さらに言葉を続ける。
「全く手立てがないってわけでもない」
「でしょうね。そうでなくては、結局あなたがなぜ死に急いでいたのか、その説明が付きませんからね」
「あ……」
僕は今更になってそのことに気付いた。
話されること全てが大きすぎて、話の本題をすっかり見失っていた。
「何か関係があるのでしょう? あなたが死を求める理由と、この世界の衰退との間には……」
「……ああ、そうだ」
もう一度目を伏せ、真吾はその後に絞り出すように口を開いた。
「今も言ったが、この世界が滅んでいく原因はこの『Ring』の影響にある。だったら、その根源の部分をなくしちまえば問題はそれで解決するはずだ」
確かに、それは分かる。
分かるが、やはり分からない。
それと真吾が死に急ぐことと、何の関連性があるというのだろう?
「……『Ring』ってのは結局、契約者がいなければただの骨董品に過ぎない。だったら、契約者を全て殺してしまえばいい」
「……っ!」
残酷だが、それは確かに一つの事実だ。
だがそれでも、まだ疑問は残る。
その方法だと、真吾も含めて全部で八人の契約者が命を落とさない限り、全ての契約は破棄されないことになる。
「最初のうちは、確かにそれが一番手っ取り早い方法だった。だが、もう遅い。すでに流れは安定し、後はその流れに乗るだけでこの世界はいずれ滅びる。そうなる前に何か手を打つ必要があった。そのためには、俺はここで命を落とす必要がある」
「……どうして?」
「……俺が消えれば、アイツも消える。俺と同じ、不確定存在者であるアイツが消えれば、異変は止まる」
「……アイツ? 誰よ、そのアイツって……」
そう言いかけた飛鳥の言葉を遮って、氷室が割って入る。
「……あなたはもしかして、敵側にいる黒幕が誰であるか、知っているのでは?」
「…………」
その問いに対する無言が肯定以外のなにものでもなにことは、一目瞭然だった。
「……アイツは、本当なら生まれることがなかったはずなんだ……」
真吾の声のトーンが落ちる。
「だけど、アイツは生まれた。いや、アイツが生まれるはずだった場所を俺が奪って、アイツは不安定な存在として中途半端に生まれちまったんだよ……」
「……その、アイツって一体誰なのよ?」
飛鳥の問いに、場に静寂が満ちる。
数十秒だろうか、それとも数分だろうか。
長くも短くもない、そんな時間が過ぎた頃になっても、真吾の口は動かない。
「……真吾」
と、沈黙に耐えられずに僕がそう口にしたときのことだ。
「……もう、その名前で俺を呼ぶな、大和」
「え……?」
「……違うんだよ、大和」
「違うって、何が……」
「……いないんだよ、そんなやつは」
「……いない?」
真吾は何を言っているのか、僕には理解できなかった。
「どういう……」
そう聞き返す僕の言葉を、真吾の冷たい言葉が遮った。
「緋乃宮真吾なんて人間は、この世界のどこにもいない……存在しない人間だ。だから俺は、その名前で呼ばれる資格はないんだ」
「……あなたは、一体……」
氷室が聞く。
一拍の間を置いて、どこか寂しそうな、悲しそうなそんな表情を一瞬だけ見せて……彼は答えた。
「――俺は、神によって創られた世界の監視者。全ての世界で生を受け、全ての世界で死を抱いて、また別の世界へと生まれ変わる、ただそれだけの名も無き存在……記憶超越者だ」
そしてまた、沈黙が場を支配した。