Episode8:決意の日に
ボスンと音を立て、僕の体はベッドの中に沈むように倒れた。
疲れることなど何一つしていないのに、体中には疲労の色が濃く蔓延していた。
夕食も入浴も済ませ、もうあとは寝るだけで今日一日が終わるという今頃。
いつもなら雑誌を読みふけったりして過ごしている時間だが、今日は何だかそういう気分じゃなかった。
原因は分かってる。
そんなことに費やす時間があるのなら、僕は真剣に考えなくちゃいけないことがあるのだから。
だけど、そのことを考え出したらそれはそれで頭が重苦しくなってくる。
迫られたのは単なる二択問題なのに、そのどちらの答えも正解であって不正解でもある。
結局決めるのは自分だと分かっていても、僕はまだ悩み続けることしかできないでいた。
不明瞭な点はまだいくつもあったけど、根っから全てを否定できるわけでもなかった。
受け入れるか受け入れないか、どちらが得策かと聞かれても、正直難しい。
この見えない戦争に参加するか、それとも逃げ回るか。
常識的に考えれば、参加することなんて考えられない。
けれど、僕はすでにその戦争に対する参加資格を持ち合わせてしまっている。
それは決して、僕自らが望んだことではなかったけれど、資格がある以上は参加するのが正しいという気持ちもわずかにある。
だが、この戦争はスケールが違う。
そもそも戦争そのものが大規模な国同士の喧嘩なわけだけど、これはまたそういうものとは一線置いたものだ。
なぜなら、その戦争が起こっていることに、普通の人は誰一人として気付かない。
つまりこれは、あまりにも静かすぎる戦争なのだ。
限られた視点の中でのみ繰り返される争い。
そしてどうやら、僕はすでにもう戦場の真っ只中に立っていることになるらしい。
氷室が言っていたあまり時間がないという言葉は、恐らくこういう意味合いのものだったのではないだろうか。
「戦争、か……」
ハァと、僕は重い溜め息を吐いた。
いまいちピンとこない部分はあるけれど、それ以上に戦争という単語の持つイメージが僕の心を容易く暗転させる。
恐怖が芽生え、不安が混じり、怯えながら暮らす日常がありありと脳裏に浮かんだ。
戦争である以上、決着をつける以外に終結の方法はないのだろう。
史実の中の戦争のように、条約の締結や停戦などで終わらせることができるのならば話は別だけど、そういうわけにはいかないから、すでに火種が燃え始めているのだ。
僕はまだ、この戦争の先にあるものが見えていない。
戦争というのは極端な話、敵を倒して支配下に置き、莫大な利益を得るためのものだ。
とすると、一体この静かすぎる戦争の果てに、何があるというのだろうか?
仮にこの戦争に、誰かが最後の生き残りとして勝者の栄冠を勝ち取ったとしよう。
では、その勝者に与えられる……その利益とは一体何だ?
何も知らない僕には、全く想像がつかなかった。
けれど、この『Ring』というものが戦争に絡んでくる以上、戦いの果てに得られるものは少なくとも常識的に考えられるようなものではないような気がする。
氷室はこれを、古代の遺産であるアクセサリだと言っていた。
明確なことは何一つ分からないけれど、もしもそれが事実で、なおかつ『Ring』と何らかの関わりがあるのだとしたら。
やはり得るものも、『Ring』に関係のあるものなのではないだろうか。
僕の想像にできるものだと、それは恐らく……。
「……やっぱり、力、なのかな。それも、並大抵じゃない……世界を滅ぼせるくらいの、とか……」
それはあまりにもファンタジーな想像だった。
しかし、今の僕はそれをありえないの一言で否定することはできない。
なぜなら、僕だってとっくにそのファンタジーの世界の中に引きずり込まれてしまっているのだから。
……急に眠気がこみ上げてきた。
どうしよう、考えなくちゃいけないことがあるのに……。
と、そんなときだった。
机の上に置いた僕の携帯が、メールの着信を知らせるメロディを奏でていた。
こんな時間に誰だろう?
時刻はすでに夜の十一時半を回ろうとしている。
そう思いながらも、僕はベッドから身を乗り出して携帯を掴んだ。
未読メール一通、送信者――坂城唯。
「唯? 何だろう、こんな時間に……」
折りたたみ式の携帯を開いて、僕はディスプレイの文字に目を落とした。
そこにはこんな一文が書かれていた。
『カーテン開けろー』
何だこれはと思いながらも、僕は指示されたとおりに部屋のカーテンを開けた。
すると、二メートルほど離れた向かいの窓の向こうに、携帯を握った唯の姿があった。
夜も遅いし大声を出すわけにも行かないので、僕は自分の部屋の窓ガラスをコンコンと叩き、その音で唯を呼んだ。
その音に気付いたようで、唯は窓を開けた。
同じく僕も窓を開ける。
「や。こんばんは」
「……いや、それはいいけど。どうしたの? 何か用なら、そのままメールに続けてくれればいいのに」
「まぁ、それでもよかったんだけどね。具合はどうかなーって思って」
「ああ……まぁ、特にどうってことはないよ。至って健康」
「そっか。ま、顔色も悪くないみたいだし、それならそれでいいんだけどさ」
小さく笑って、唯は窓枠に腰掛けた。
話ってそれだけと僕が聞き返すよりも早く、唯は言葉を続けた。
「……なんかね、変な話なんだけど」
「……うん?」
「大和さ、昨日の夜、どこ行ってたんだっけ?」
「え……あ、コンビニ……だけど?」
「……一時間近くも? 何してたの?」
「……雑誌を立ち読みしてたら、つい夢中になっちゃって、それでさ」
「……そう。だったら、やっぱり私の考えすぎかな……」
「な、何だよそれ。すごく気になるじゃんか」
「え? いや、ホントにね。ただの思い過ごしだと思うから……ゴメン、忘れてよ」
アハハと、乾いた笑いで唯はごまかしていた。
けど、それは僕も同じだ。
実際僕は昨夜、コンビニなんかには一歩も立ち寄ってはいない。
そのとき僕は、ちょうど現実とファンタジーの境界線を越えてしまったところだったんだ。
などと、しかしそんなことは口が裂けても言えない。
何より誰も信じないだろうし、信じてくれたところで余計な心配をかけるだけだろう。
他言は無用、とは念押しされなかったけど、こんなことはホイホイと口を割って言いふらすものでもないだろう。
でも、それはそれで隠し事をしているようなもので、後ろめたさがゼロかと言われるとそうではないけれど……。
「大和? どうかした?」
「え? あ、何? 聞いてなかった……」
「ううん、別になんでもないけど……その、ボーっとしてたからさ」
「ああ……ゴメン」
……あれ?
どうして僕は、謝っているんだろう?
後ろめたいから?
隠し事をしているから?
それとも……。
そのとき、僕の思考を停止させるかのように、冷たい夜風が僕と唯の間を吹き抜けた。
「わ……」
「……」
肌寒さを覚え、僕達は揃って小さく身震いした。
そんなどうでもいいような光景が、どうしてか互いにおかしくて仕方がなくなってしまって……。
「ハハ……」
唯は小さく笑い出していた。
「何がおかしいのさ?」
そう聞き返す僕も、きっと笑っていたんだろうと思う。
「別にー。ただ、何となくね……」
何となく、か……。
うん、そんな感じだ。
ただ何となく、そのときは笑えたんだ。
今がある、この当たり前の中で、僕は笑うことができたんだ。
……何だ。
結局、僕の心はとっくに決まっていたんじゃないか。
ただそれに、それらしい理由をこじつけようと躍起になっていただけだったんだ。
どうしてなんだろう。
こうして何気ない時間を過ごしただけで、不思議と今日は眠れるような気がしたんだ。
雲が厚く、月のない夜だった。
それでも星は、確かに光っていた。
一夜が明け、間もなく時刻は正午を迎えようとしている。
今僕がいる場所は、全ての始まりになった場所。
街外れの廃工場跡地だ。
だけど、そこにいる人影は僕一人分のものだけではない。
向かい合うようにして、視線の先には飛鳥と氷室が立っている。
双方の間に会話らしいものは何もなく、今はただ時間が流れるのを互いに感じ取っているだけ。
氷室が腕時計に視線を落とした。
秒針が時を刻み、間もなく約束の時刻になる。
「時間です」
きっかりに、氷室はそう言った。
そして視線を戻すと、再び向き合うように僕を見る。
「急がせてすいませんでした、大和。本来ならこういうことは、もっとちゃんと考えて結論を出すことなのですが……」
「……分かってます。時間がないんですよね? こうしている間にも、僕達の戦争はどこかで始まっているのかもしれない」
「……その通りです。では、早速ですいませんがあなたの答えを聞かせていただきたい。即ち、戦うか否かを」
「…………」
「…………」
「…………」
三人分の沈黙が流れる。
飛鳥と氷室が揃って直視する中、僕はわずかに下を俯いていた。
一つの風が、僕達の間を吹き抜ける。
それを合図にするかのようにして、僕は顔を上げ、口を開く。
「僕は……誰かに傷つけられるのも、誰かを傷つけるのも、そこに理由があってもなくても、できることならしたくない。だけど、もしここで僕が背中を向けたら、きっと無関係な誰かまで傷つけてしまいそうな気がする。それはきっと、僕が一番望んでいないことだと思う。だから、僕は……」
一度だけそこで言葉を区切り、小さく息を吸い込んで、僕は告げる。
「――僕は、僕のやり方で、今ある当たり前を守るために戦う」
言葉は風に乗り、何処へと運ばれた。
再び三人の間に沈黙が下りる。
そのままどれだけの時間が経ったのだろうか。
恐らく一分にも満たない時間だとは思うけど、僕には何時間にも感じられるものだった。
やがて氷室は、ずれかけた眼鏡を押し上げながら言った。
「……結構です。よく決心してくれました。あなたの決意に応えられるよう、私達も全力で力を貸します」
「……ま、建前は何でもいいよ。敵になるより、味方でいてくれるほうがずっといいもの」
そう言いながら、二人は歩み寄る。
僕も数歩ほど前に出る。
「改めて、よろしくお願いします、大和」
「よろしくー」
「うん。こちらこそ」
僕達三人は互いの手を重ね合わせ、共闘を誓い合った。
「その……いきなりで言い辛いんだけど」
僕はこの機会に、言おうとしていたことを切り出してみることにした。
「何ですか?」
「その、僕も一応戦いはする。だけど、やっぱりどうしても殺し合いっていうのだけは賛成できないんだ。できるなら話し合いで……戦うにしても、相手の命を奪うっていうのだけはしたくないんだ……」
それは甘い考えだった。
実際の戦争を知っているんだから、そんな理屈が通るなんて思ってはいない。
だけどそれでも、やはり僕は誰かを殺すなんてことはしたくない……いや、できないと思う。
それは、単純に怖いからだろうと思う。
聖者でいようなんてことは思わない。
けれど、この手を血の色に染めてしまいたいとも思わない。
だから、こうしてこんな状況で甘いことを言うようでは、僕は二人に激を飛ばされることも覚悟していた。
だが、意外にも二人の言葉は僕の理想に沿ったものだった。
「ええ、分かっています。私達だって、好きで殺しをしているわけじゃありませんからね」
「そうそう。気持ちは同じだよ。ただ、殺さなきゃこっちが殺されるってときは、やむをえないだろうけどね」
「じゃあ、何か方法があるの? その……相手を殺さずに、終わらせる方法が……」
「あります。というより、大和なら気付いているかとも思ったんですけどね。まぁ、いいです。混乱して考えがまとまらなかったということもあるでしょうから、一応説明しておきます。そもそも、我々能力者がそう呼ばれる所以は『Ring』にあるわけです。つまり、相手
から『Ring』を奪う、もしくは『Ring』そのものを破壊してしまえばいいんですよ」
「あ……」
言われて僕は気が付いた。
そうか、確かにその通りだ。
そんな単純なことに気が付かなかったなんて、僕はどうやら自分で思ってる以上に焦っていたらしい。
「できれば破壊してしまうのが好ましいですね。仮に『Ring』を奪っても、再び奪い返される危険がないとは言い切れません。まぁ、一度奪った時点で『Ring』の力は封じたようなものですから、そうなれば生身の人間と何ら変わりませんし、大丈夫だとは思いますけどね」
「能力者は『Ring』と契約することによって力を得る。ってことは、『Ring』がなくなれば契約は破棄されるってこと。まぁ、新たに別の『Ring』と契約すれば、別の力を得ることはできるかもしれないけどね。『Ring』は道端に転がってるわけでもないんだから、そう簡単に次から次ってのはまず無理ね」
それを聞いて僕は安心した。
戦争の真っ只中で安堵するなんて場違いもいいところだけど、今はその事実を素直に喜びたい。
「ですが、それにしたって時間がないことは事実です。こうしている間にも、次々と戦いは始まっているのかもしれませんからね」
「『Ring』って、そんなに多くの数が存在するんですか?」
仮にも遺産と呼ばれる代物なのに、そんな風にあちこちに配られるようにあったんじゃキリがないと思う。
「いいところに気が付きましたね、大和。確かに、現存する『Ring』の数から考えても、能力者の数は尋常ではありません」
「だったら、どうして……」
「ようするに、劣化コピーなんだよね」
「……コピー?」
飛鳥の言葉に僕は聞き返す。
「『Ring』というものは、言わば膨大な量の魔力を貯蔵しておくための器みたいなものなんです。ですが、長い間……それこそ何世紀という時間の流れの中で、その膨大な魔力は徐々にですが漏れてしまっているんですよ。その流れ出した魔力の一部は、現代でも存在し続けています。それこそ、目には見えませんが空気中に溶け込んだり、各々の属性の引き合う場所などにね」
「そういう流れ出した魔力が、他のものに乗り移ることは珍しいことじゃないの。もう分かるでしょ? つまり、その乗り移ったものが人の身に着けるものとかだったりすると……」
「……それが擬似的に、『Ring』に似た役割を果たす」
「そういうことです。まぁ、このケースはまず無視して問題ないですよ。微力な魔力程度じゃ戦うことはできませんし、放っておけばすぐに消滅します。ようするに切れかけの乾電池と同じですよ」
確かに、そのくらいなら大きな影響はなさそうだ。
むしろそれで影響があるくらいなら、今頃社会そのものが大きなパニックに陥ってしまっていることだろう。
「とりあえず、先日炎使いを倒しましたからね。その後から今まで、特に大きな反応は感じられませんから、今は安全と思っていいでしょう。ですから、この間に大和には少し『Ring』の力というものを肌で感じ取ってもらいたいと思います。同時にそれは、あなたの風の力を自在に操ることにも、身を守ることにも繋がります。いいですか?」
「感じ取れって、具体的にはどうすれば?」
「百聞より一見。口で言うより感じ取る方が早いでしょう。では、早速移動しますよ」
そう言うなり、氷室はさっさと歩き始めてしまった。
「ま、付いてくれば分かるよ。私達も行こう」
「あ、うん……」
なんだかよく分からないけど、とりあえずこの場は氷室に従うことにしよう。
僕も一応能力者としては目覚めているらしいけど、力の使い方に関しては無知も同然なのだから。
そして僕達三人がやてきたのは、どこからどう見ても昨日と同じ場所だった。
『各務探偵事務所』
と、そう書かれた窓ガラスが僕の頭上にある。
「さ、こっちです」
「大和、こっちこっち」
言われるがままに僕は付いていく。
二階へと階段を上り、昨日と同じ事務所の中に僕は招き入れられた。
「あの、ここって……」
そう僕が呟くのにも構わずに、氷室と飛鳥は事務所の中の別室へと向かう。
扉を開けると、そこは仮眠室のような小さな部屋だった。
一見して珍しいものも何もないその部屋で、しかし氷室はおもむろに棚の裏へと手を伸ばし、次の瞬間カチリという何かのスイッチのような音がした。
すると、床の一部がポッカリと顔を覗かせた。
そこには地下に続く階段があり、僕達を迎え入れるかのように口を開けている。
「さ、行きますよ」
氷室はスタスタと階段を下っていき、飛鳥も無言でそれに続いた。
「……ここ、本当に探偵事務所なの?」
僕は一人そう呟いてから、何かを諦めるようにして階段を下りていった。
やや長い階段を無事に下り終えると、そこにはまるでホールのような大きなスペースが広がっていた。
ただし、大きさはハンパなものではない。
四方がそれぞれ五百メートル近くある上に、天井までの高さも二十メートル近くある。
まるで巨大な水槽から水を抜いたような形だった。
もちろん地下なので、四方も天井も全て壁。
材質は鉄なのかコンクリートなのか、僕にはよく分からない。
「さて。それでは早速始めましょうか。現在十二時半ですから……そうですね、まずは二時間、体を動かしてみましょう」
体を動かすという言葉を聞いて、僕はこの広い空間を使って走り込みなどの基礎体力を養わされるのかと思った。
しかし、それこそがとんだ甘い考えだった。
「では飛鳥、あちらへ。大和はそのまま動かないで」
「はいよー」
「は、はぁ……」
言われて飛鳥だけが動く。
僕との距離をおよそ三百メートルほど取ったところで、飛鳥が僕のほうを振り返る。
「では、始めましょう。いいですか、大和。今からあなたには、飛鳥の攻撃を二時間避け続けてもらいます」
「避けるんですね。分かりま……」
…………ちょっと、待て。
「……って、避け? 何言い出すんですか突然!」
僕は焦って言葉を返した。
氷室は一体何を考えているのだろうか。
悪い冗談ならやめてほしいものだ。
という僕の願いも届かず、氷室は相変わらずの表情でもう一度同じことを繰り返した。
「ですから、今言ったでしょう? 大和には、飛鳥の攻撃をひたすら避け続けてもらいます」
顔は笑っていたけど、目は笑っていなかった。
どうやら僕は、冗談ではなく本気で……。
「――……マジですか?」
「ええ、大マジです」
だから、目が笑ってないってば……。