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LinkRing  作者: やくも
75/130

Episode75:昔日の想い


 空が遠ざかっていく。

 手を伸ばしても、その手は青い空にも、白い雲にも、輝く太陽にも届かない。

 それでも手を伸ばす。

 窓から身を乗り出し、両目一杯に涙をためた彼女が、精一杯伸ばすその腕に。

 届かない。

 体は引力に引かれるがままに、落下という行動を続ける。

 空なんて飛べるわけがないと、分かっていた。

 だって、僕の背中には大空を自由に飛ぶ鳥のような羽は、いくら探しても見当たらなかったから。

 空が遠ざかっていく。

 落下の衝撃まで、あと何秒?

 数える間もなく、僕の体は叩きつけられる衝撃を受けた。

 空が、消えた。




 それは多分、ただの悪ふざけだったと思う。

 幼い僕達はまだ、危険と楽しみの境界線を自分たちで引くことができなくて。

 一見不可能と思える物事にこそ、大きな興味を持ってしまっていたのかもしれない。

 それはきっと、ごくごく自然なことだ。

 決して珍しくはないことだ。

 誰だって一度は、空を飛べたらと思うことがあったように。

 誰だって一度は、願い事が叶えばいいなと思ったように。

 そんな、何も難しくないこと。

 ただ、心の中でイメージを膨らませているだけ。

 だけど、それが。

 僕達に、最初の悲劇を見せることになった。

 何てことはない。

 それは本当に幼い頃なら、誰もが一度は経験したことがあるような些細な出来事だ。

 結論から言おう。

 木登りをしている途中に、足を滑らせて落下した。

 口で説明すれば、たったこれだけ。

 ただのそのときは何というか……やはり、運が悪かったとしかいいようがないと思う。

 他ならぬ僕自身がそう思っているし、他の誰がこの話を聞けばそう思うはずだ。

 ただ、一人を除いては……。

 その一人とはつまり、言うまでもなく……。


 僕は視線を横に向ける。

 相変わらず唯は毛布に包まったままで、ベッドの上の僕と向き合う位置に膝を抱えて座っている。

 その視線がどこか悲しげで、どこを見つめているのか分からない。

 下を俯いているようで、壁の向こう側を眺めているようにも見える。

 物思いにふける、そんな表現が正しいような気がしてきた。

 どうしたのと、そう声をかけようとして、唯の声がそれを遮った。

「……あの時さ」

「……え?」

「……あの時、大和は後ろを振り返らなくてもよかったんだよね」

「あの時って……」

 考えるよりも早く、唯は言葉を続ける。

「……みんなが木登りをできたのに、私だけがどうしても苦手でできなかった。高いところが苦手なわけでもなかったのに、どうしてもできなかったんだ……」

「……唯?」

「それでも皆、別に私のことをばかにしたりとか、そんなことはなかった。木登りができない女の子は他にもいっぱいいたし、別に恥ずかしいほどのことでもなかった。だけどね、私、本当は悔しかったんだ……」

「悔しい?」

 答えずに一つだけ頷いて、唯は続ける。

「……だって、私はいつも大和の背中ばっかり追いかけて、それでいて、いつまで経っても隣に並んで歩くことができなかったから……」

 唯はさらに膝を抱え込んだ。

 膝の間に顔を埋めるようにすると、長い髪の毛がさらりと揺れる。

「……本当はね、自分でも背伸びしてるなぁって分かってた。でも、ずっと追いつきたかった。追いついて、並びたかった。私だってこのくらいできるんだぞって、胸を張って言って、大和に認めてもらいたかったんだと思う」

「…………」

「自分でもさ、よくわかんないんだよね。何であんなにまでして、意地になって大和の背中を追いかけてたのか。大和は大和、私は私って、割り切ることができていればよかったんだけど……それができるくらい、あの頃の私は心が育ってなかったのかな……」


 淡々と唯は語る。

 思い出話であるはずなのに、声のトーンは低く、もの悲しい。

 その理由を、僕も何となく分かっていた。

 きっと、あの事件がそうさせているんだろう。

 事件というのは大げさな表現かもしれないけど、まだ幼かった僕達にとっては、あれは大事件だったことは間違いない。

 誰かの家が火事になったわけでもない。

 誰かが誘拐されたわけでもない。

 誰かが殺されたわけでもない。

 それでも、その小さな大事件は、確かに起きた。

 少なくとも、幼い心に大きな傷痕を刻み付けてしまうほどに、それは衝撃的な出来事だった。

「……あの時」

 繰り返し、唯は呟く。

 その先に続く言葉を、僕は知っている。

 けれど、唯の言葉を遮る言葉が見つからない。

 もういいよ、と、その一言だけで済んでしまうかもしれないけれど。

 それでは、いけない気がした。

「あの時、私が無理して大和の背中を追いかけていなければ……」

 もういい、もういいんだ。

 口には出さず、心の中で僕は繰り返した。

 しかし、言葉は口にしなければ決して誰にも届くことはない。

 それは、僕も例外ではなく。

 絞り出すように、唯は続く言葉を吐きだした。


 「――大和は、あんな傷を負うことはなかったのに…………」


 まるでその一言に反応するかのように、僕の左肩の裏側がズキンと痛んだ。

 痛みは一瞬で、後を引く様子もなく、すぐに煙のように消え去った。

 だけど。

 その場所には、今もまだうっすらと消えずに残る傷痕が確かにある。

 あの日、僕の背中を追いかけて同じ木を登っていた唯が足を滑らせて。

 それに気付いた僕が、慌てて手を差し伸べて。

 それが、引き鉄となった。

 逆にバランスを崩した僕の体は、重力の中へと開放されて。

 ゆっくりと、まるでスロー再生の映画のワンシーンみたいに、ゆっくりと落下していった。

 最初に見えたのは、空。

 次に太陽、そして雲。

 茂る葉が、伸びた枝が徐々に遠ざかり……。

 最後に、両目一杯に涙を流す唯の顔が見えて、僕の体は衝撃の中に沈んだ。

 その衝撃の一端が、僕の左肩を貫いた。


 運が悪かったのだ。

 たまたま植え込みの中に落下した僕の体を、たまたま太く鋭い枝が貫いた。

 ただ、それだけのこと。

 それだけのことだと、僕は思ってた。

 事件が起きた次の日も、昨日も、今日も。

 ずっと、そう思ってた。

 ……けれど。

 唯は、違った。

 ずっとずっと、まるで自責の念に押し潰されるかのようにしながら、今日までを過ごしてきたのだろう。

 傷は時間が癒すという言葉があるが、それは正しいのだろうか?

 肉体的な傷は、確かに時間の経過と共に回復に向かうだろう。

 では、心の傷はどうか?

 僕は当時のことを何とも思っていない。

 誰の目から見たってあれはただの事故で、責任を責める相手はどこにもいない。

 ……はずなのに。

 百人が百人そうだと、その言葉を後押ししても。

 きっと唯だけが、それを認めない。

 幼い頃の傷ゆえに、根強く刻み込まれてしまっている。

 それは一種のトラウマに近いものかもしれない。

 この傷はきっと、時間では癒すことはできないものなのだろう。


「……ねぇ、大和」

「……ん?」

「大和さ、私に隠してること、あるでしょ?」

「……え?」

「それはきっと、私には関係のないことなんだと思う。だから、私がこんなことを聞くのはおかしいことだって分かってる。でもね……」

 俯いていた顔をゆっくりと上げ、唯は僕を見る。

 その目が、赤く泣きはらしたように潤んでいた。

「……怖いんだよ。また、大和が傷付いちゃうんじゃないかなって、怖くて仕方ないんだよ……」

「……それは、唯のせいじゃ……」

「分かってる、分かってるよ? でもね、自分でもよくわからないの。別に隠し事のことをどうとか、そういうんじゃないの。ただ私は、大和にこれ以上傷付いてほしくないだけなの……」

「唯……」

「……昔っから、大和はそうだった。友達のためだったら、自分のことなんていくらでも犠牲にしてきた。大げさな言い方かもしれないけど、ずっとそうだった。大和は、自分のことを大切にしてないんだよ。すぐに自分の価値を軽く見て、他人を優先する。それは優しさかもしれないけど、それだったら、大和の幸せとか喜びは、一体どこにあるの?」

 堰を切ったように流れる言葉。

 怒鳴るわけでもなく、喚くわけでもなく、唯はただ涙ながらに静かに叫んでいた。

「……最近ね、嫌な夢ばっかり見るの」

「夢?」

「……いつもみたいにね、私と大和、それに、美野里に悟に健史の五人で帰り道を歩いて、どうでもいい話で笑ったり、ふざけたりして」

「…………」

「けどね、路地を曲がって、ふと振り返ると、大和の姿がどこにもいないの。どんなに周りを見渡しても、どこにもいないんだよ? なのに、悟も健史も美野里も、何事もなかったみたいに三人で歩き続けてて、私だけがその場に立ち尽くして、取り残されて……見えない大和の姿を、ずっと探してる。ずっとずっと、日が暮れて、辺りが真っ暗な夜に染まっても、ずっと……」

 それは、どれだけの絶望を孕んだ悪夢なのだろうか。

 いるはずの、いることが当たり前の誰かが一人いないだけで、雰囲気はがらりと変わる。

 そんなことが続けば、きっと誰もが不安になる。

「……嫌、だよ……」

「……唯」

「嫌だよ、私……」

 もう、涙は止まらない。

 張り詰めていた気持ちがプツリと切れて、唯の中にある薄いガラスが音もなく砕けた。


 「――夢なら、覚めてよ…………」


 そして唯は、再び膝に顔を埋めて静かに涙を流した。

 泣いて、泣きつかれて眠って、また唯は悪夢を繰り返すのだろうか?

 僕にできることといえば……。


 「――ごめん、唯。でも、ありがとう…………」


 隣に座り、そっと背中に手を当て、そんな言葉をかけることくらいしかなかった。



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