Episode73:サヨナラ
一秒ごとに体温が失われていく。
土砂降りの雨は勢いを弱めることなく、ただ引力に導かれるがままに地上を打ち付ける。
僕の体もしかり、かりんの体もまたしかり。
「……かりん?」
雨音にかき消されそうな小声で、僕は呟いた。
髪の毛はすでに風呂上がり以上に濡れ、雨粒を吸い込んだ衣服はまるで鉄のように重苦しい。
体調が不完全なことがそれをさらに後押しして、一歩でも足を動かせば体が崩れ落ちてしまいそう。
「……」
答えずに、かりんは小さく首を縦に振った。
「どうしたの、こんな夜遅くに……それに、こんな雨の中、傘も差さないで……」
「……大和に。会いに来た」
ポツリと零すように、かりんは答える。
相変わらずのゴスロリの黒い衣装が、雨を吸い込んでさらに黒い色に映えている。
それは黒という色の領域を超えて、すでに闇色に染まっていた。
放っておけば、夜の暗さに紛れて溶けてしまいそうな、そんなイメージ。
「僕に? ……とりあえず、中に入ろうよ。話はそこで聞くからさ……」
僕はまず、家の中に上がることをかりんにすすめた。
しかし……。
「……いい。その必要は。ない」
今度は首を横に振りながら、かりんは断った。
「だけど、こんな雨だしさ……風邪、引くよ……?」
もう一度声をかけるが、やはりかりんは無言で首を横に振った。
「……話があるの」
「だから、それなら家の中で……」
「……ここでいい。話というよりは。これは。質問に近いものだから」
その言葉と同時に、わずかにかりんの目の色が変わる。
その変化を、僕は具体的に口に出して説明することはできないだろう。
それはきっと、日常の中で日々確実に変わっている些細な変化のようなものであって。
たとえばそれは、空の色だったり。
たとえばそれは、雲の形だったり。
確かに変わっていると感じているのに、具体的にどういう変化を遂げているのかはわからないといったような、そんな感覚。
今の場合もそれと同じことだ。
ただ、しいて言うのならば、変わったのは目の色や声色などではなく……空気、あるいは存在感のようなものだろうか。
かりんの蒼い双眸が僕を見上げる。
雨に濡れた長い前髪が、目の下の頬にへばりつくように垂れていた。
わずかな妖艶ささえ思わせるその視線に、僕の心臓は一度跳ねた。
ドクン、と、緊迫した空気を思わせるかのように。
「……大和」
呼ばれる。
それは僕の名前だ。
が、返事が出ない。
うん、とも、何、とも、単純なその一言を聞き返すことができない。
魅入られている。
その蒼い目に、金縛りにされているかのよう。
動けない。
動かない。
呼吸さえも止まりそうになる。
今更になって寒さを思い出す。
指先が震えて、背筋が凍った。
それは恐怖にも似た、しかしなんだかよくわからない、未知の感覚だった。
「――……選んで。このままでいるか。それとも。私達と。共に歩むか……」
それは問いというよりは、選択肢だった。
「……それって、どういう……」
どういうことなのと聞き返すよりも早く、かりんはさらに言葉を続ける。
「……後者を選ぶのなら。全てが終わるまで。大和の身の安全は。保障する」
そこで一度言葉が途切れ、その隙間に割り込むように僕はのどの奥から言葉を探し出す。
そしてもう一度、聞こうと思った。
それは一体、どういう意味なのか、と。
だが、まるでそのタイミングを見計らったかのようにかりんのことばが続く。
「……だけど」
声のトーンが落ちた。
悲しさや寂しさを含んだような、か細い声に変わる。
が、それも幻と思えるほどの一瞬。
一度は逸らした視線を再び戻し、かりんは真っ直ぐに僕の目を見据えて、言葉を続けた。
……そう。
決して聞きたくなかった、聞くことがないはずだったその言葉を……。
「――……前者を選ぶのなら。私は。あなたを……殺さなくてはいけなくなる……」
その言葉を聞き終えるか否かというときに、遠くの空で音もなく光が瞬いた。
遠雷。
黒い夜空の片隅に、閃光が走る。
「……選んで。大和……」
迫られるその言葉が、なぜかその遠雷よりも遠いところから語りかけられているように思える。
「……選んで」
だって、嘘みたいなんだ。
「……私達と。共にあるか」
もう、戦う必要なんてなくなったのだと、そう思っていたから。
「……それとも。違う道を往くのか」
そう、信じていたから。
「……選んで。大和」
……それなのに。
「……何だよ、それ……」
一体、どうして……。
「……待ってよ、かりん。何だよ、それ? おかしいだろ、そんなの? あの時、言ってたじゃないか! かりんだってもう、戦いたくなんかないって、そう言ってたじゃないか! どうしちゃったんだよ? 何があったんだよ!」
雨音のノイズをかき消して、僕は夜の真ん中で叫んだ。
自分よりもずっと小さなかりんに向けて、まるでわがままだけを吐き捨てるように叫んだ。
そのくらい、納得できないことだった。
「…………」
しかし、かりんは一言も答えない。
ただ下を俯いて、変わらぬ冷たい雨に打たれている。
「どうしてだよ? どうして……」
僕もわけが分からなくなり、同様に下を俯いて両手を強く握り締めた。
てのひらに爪が食い込み、肉が破けてしまうのではないかというくらいに、強く、強く。
しかし、いくらそうしたところで、耳の奥に残った言葉は決して消えない。
聞きたくなかった言葉。
聞いてはならなかった言葉。
その言葉こそ、嘘であると言ってほしい。
だって、そうだろ?
あの日、言っていたじゃないか。
かりんは、言っていたじゃないか。
「――……私も。ヤマトとは。戦いたく。なくなった。不思議。こんなことは。今までには。思わなかったこと」
その言葉が。
「……どう、して……」
素直に、嬉しかった。
もともとこんな戦いを、僕は望んだわけではなかったから。
誰が望んだわけでもないはずだと、そう信じていたから。
だって、おかしいじゃないか。
仮に本当に願いが叶うにしたって、そのために他人の命をどうこうしなくちゃいけなくて、それさえもただの通過点に過ぎないだなんてさ……。
おかしいだろ?
おかしい以上に、悲しいだろ?
戦いたくなんてなかった。
逃げ出してしまえるのなら、そうしたかった。
だけどそこで逃げたら、きっと別の誰かが確実に不幸になるだろう。
それを知って知らないふりをしながら生きていくなんて……僕は嫌だった。
だから今になって、逃げ出そうとは思わない。
この無益で無意味な戦争を終わらせるという僕の意思に、変わりはない。
……だけど。
それでも。
あの時は正直に、嬉しかったんだ。
同じ立場で、同じ気持ちの人が他にもいるって分かったから。
甘い考えだと分かっていても、嬉しかった。
誰も傷付かないですむのなら、それがきっと一番いいはずだから。
……なのに。
それなのに。
一体、どうして……。
「……何で、そんなことを聞くんだよ……かりん……」
「…………」
僕達は互いに、冷たい雨に打たれながら下を俯いていた。
雨粒が頭を、肩を、背中を、容赦なく打ち付けていく。
ああ、寒いな。
ああ、痛いな。
でもそれはきっと、この雨のせいなんかじゃないんだよな。
もっともっと、別のことが寒くて痛くて……そうしようもないくらいに苦しいんだ……。
「……分かった」
ポツリと、かりんが呟く。
「……もういい。今のことは。忘れて」
「……かりん?」
「……ごめんなさい。私は。自分のことしか。考えていなくて。大和の。気持ちを。理解していなかった」
ふと、かりんの小さな体が一歩動く。
「……忘れて。全部。なかったことにして」
一歩、また一歩。
僕に向かい、かりんの体が揺れるように近づく。
二人の距離が、しだいにゼロに近づく。
僕はそっと、かりんの頭に手を置いた。
ひどく冷たかった。
体温はとっくに失われ、まるで氷のよう。
「……私が。間違っていた。だから。今夜のことは。忘れて。今夜は。何もなかった」
「……かりん」
そっと頭を撫でる。
冷たさ以外の感覚は伝わってこなかった。
湿り気を帯びた長い黒髪に、僕はそっと指を通し……。
「……ごめん、なさい……」
ふいに聞こえたその声が、今までのものとは全く別物のように感じて。
「……かりん? どうし……」
直後に、衝撃。
最後まで言葉を続ける前に、別の感覚が僕の体を貫いた。
「……かり、ん…………?」
言葉が虚ろになる。
ズルリと、何かが何かを抉る感触。
ポツリ。
ポツリ、ポツリ。
雨ではない、赤い雫が地面を濡らす。
僕は視線を落とす。
そこに、映る。
銀色に輝くナイフを握り、僕に倒れ込むかりんの姿を……。
「――……サヨナラ…………」
そんな声が聞こえて。
何かが、音を立てて崩れ落ちて。
スルリと、引き抜くような感触が伝わって。
僕の膝が折れ、ズボンの生地越しに濡れたアスファルトと水溜りの冷たさが伝わって。
僕の体はそのまま、沈むように横たわった。
意識が途切れていく。
視界が揺れる。
雨粒が邪魔をして、見えるものも見えなくなっていく。
ただ一つ。
間違いなく、見えたものは。
銀に輝くナイフに付着した、真紅に染まる血の色だけだった……。




