Episode72:光と闇と雨のメロディ
土砂降りの雨が降っている。
夜の八時くらいから、唐突に降り出した冷たい雨。
窓を閉めて、カーテンを閉めても、雨粒が屋根や地面を強く打ちつけるバラバラという音が耳に響いた。
黒い夜の中に降りしきる透明な雨。
雨粒の一つ一つを目で確認することはできず、まるで鋭い矢が天高い場所から射落とされているかのよう。
「…………」
室内に流れる音楽はない。
雨音もどうやら、眠気を誘う子守唄と呼ぶには程遠いようだ。
帰宅して、まず母さんに色々と聞かれた。
朝早くから今まで、一体どこをほっつき歩いていたのかとか。
超常現象みたいなことが起こっているから、むやみやたらに外出しないようにしなさいとか。
明日も引き続き、学校は臨時休校という体勢をとることになったとか。
他にも何か言われたような気がしたけど、正直あまりよく覚えていない。
どっと押し寄せてきたような疲れが体中に渦巻いてて、僕は支えなしでは真っ直ぐに歩くことさえもままならない状態だった。
それが本当にただの疲れなのか、それとも『Ring』の力による何らかの影響を及ぼす症状なのか、今の僕には分からない。
ただ一つ言えることは、こんなにも体は睡眠を求めているというのに、雨音が落ち着き始めた記憶をかき乱し、全く寝付くことができないということだ。
「……眠れないな」
一人呟く。
ベッドの上で仰向けに寝転がり、視線の先にあるのは証明に照らされてわずかに黄ばむ天井。
灯りを消せば少しはマシになるだろうか。
そう思い、僕は重い体を起こし、灯りを一番小さなオレンジのものにしようと紐を掴んで……。
――カツン。
と、そんな音を聞いた。
うるさいくらいに鳴り止まない雨音の中に、まるで小石が地面を転がるようなその音は、不気味なほどにはっきりと耳に届いた。
ゆっくりと部屋の中を見回す。
が、当たり前のようにその音の出所は見つからない。
部屋の真ん中で立ち尽くしながら、もう一度耳を澄ます。
ザァザァと、まるでテレビのノイズのような雨音の中、意識を耳へと集中させた。
カツン。
また聞こえた。
幻聴ではなく、間違いなくその音が聞こえた。
その音の出所は、部屋の窓からだった。
カーテンを閉め切った、今はもう雨粒に濡れているだけの冷たくなった窓ガラス。
そこに、僕は近づく。
カーテンの隙間から外を覗く。
が、真向かいにある唯の部屋は同じようにカーテンが閉め切られたままだ。
てっきり唯が音の出所だと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
だとしたら、一体なんだというのだろう?
こんな土砂降りの雨の、しかも夜遅くに、まるで何かの合図のようなその物音は、僕をどこに連れて行こうとしているのだろう?
少し大きくカーテンを開ける。
窓ガラスの外側は、思ったとおり雨粒で一面が濡れていた。
閉め切っているにもかかわらず、外気の冷たさがはっきりと伝わってくる。
僕は窓の外、視界の悪い夜の道に目を向ける。
窓にへばりついた雨粒が邪魔で、あまりよく見えない。
もともとここいらの住宅街は、夜になると人通りはともかくとして車などの通行料は激減する。
通行人にしたって、あちこちに見て取れるわけではない。
むしろ、目に付く方が珍しいというものだ。
しかも今日はそれに加えてこの悪天候。
こんなんじゃ、たとえ歩いて五分の距離にコンビニがあっても出歩きたくなくなるというものだ。
一通り目を凝らして周囲を見てみたが、やはりそれらしいものは影も形も見当たらなかった。
さっきに音は空耳か、あるいは雨粒の当たり方でそんな風に聞こえたのだろう。
決め込んで、僕は窓の外から視線を外し、再びカーテンを閉め切ろうとして……。
瞬間、視界の端に映りこんだその映像に寒気を覚えた。
ゾッと、全身が凍りつくような悪寒。
伸びきったゴムが縮むように、僕は慌てて視線を外へと戻す。
そこに、いた。
彼女は、立っていた。
土砂降りの冷たい雨の中、傘も差さず、ただ空虚なその双眸を空へと向けて、その小さな体をずぶ濡れにしながら、僕を見ていた。
――鈴代かりんが、そこにいた。
夜の暗さの中でもはっきりと見分けることができるかりんの目は、夜以上に暗く深い蒼さを含んでいた。
その目が、しっかりと僕を捉えている。
何かを訴えるかのように、ただジッと、口を結んだまま、僕を見ていた。
その蒼い目はどこまでも見透かしているようで。
しかしその反面、どうしようもない悲しさと苦しさを押し殺しているようで。
とにもかくにも僕は、衝動的に体を動かしていた。
今の時間、母さんは風呂に入っているはずだ。
乱暴に部屋の扉を押し開けた。
バタンという音に、ドタバタという僕の足音が階段を下る。
大急ぎで靴を履いて、また乱暴に玄関の扉を押し開けた。
雨に濡れたアスファルトを靴音が叩く。
たったこれだけの距離を移動しただけなのに、もう息が上がっている。
冬はまだ遠いはずなのに、吐き出す息は真っ白で。
冷える体から逃げていく体温に目もくれず、僕は雨の中で立ち尽くした。
たった数歩歩いただけなのに、ズボンの膝くらいまで水がはねている。
冷たく強い雨が僕の体を打ちつける。
確かな寒気は感じているのに、不思議と体は震えることを知らなかった。
土砂降りの雨が降っている。
暗い夜の、暗い空の下。
冷たい雨の中で、僕達はただ無言で向き合った。
それは沈黙と呼ぶには短すぎる時間だったかもしれないけど、僕にはまるで永遠のような時間に感じられた。
そんな凍りついた世界の中で、ようやくかりんは口を開く。
「――こんばんは」
と、たった一言。
ずぶ濡れの黒い少女は、色の無い声でそう告げた。
目覚めを感じ取ったのだろうか、その視線が泳ぐように動く。
その目の動きを追って、蓮華も同じ方向に目を移した。
「……起きたか」
その視線の先には、今の今まで死んだように眠り、意識を失っていたはずの二人の男の姿があった。
赤穂宗一と真藤日景である。
二人はそれぞれに炎と氷の力を司る『Ring』の契約者であり、およそ三十六時間ほど前から原因不明の意識不明状態に陥っていた。
だがそれも、どうやら『Ring』の及ぼす影響の一つらしい。
らしいというのは、こればかりは蓮華自身にも分からないからだ。
そう教えたのは、今こうして蓮華と揃って二人の目覚めを見届けた、もう一人の少年である。
蓮華は彼の名を知らない。
蓮華だけでなく、今起きた赤穂と日景、今はこの場に居合わせていないかりんさえも、彼の名を知らなかった。
知らないのは名ばかりではない。
年齢も何もかも、少年の素性はまるで闇の中に葬られたように何も分かっていない。
だがそれは、蓮華達にとってさして大きな問題ではなかった。
結局のところ、この五人は仲間なのかと聞かれればそうではない。
が、目的や考え方、そういう最終的な意見の一致という点では、仲間というよりは運命共同体という表現がもっとも適切なようにも思える。
もっとも、そういう認識をしている人物がいるかどうかがまず疑問なのだが。
「おはよう、二人とも。具合はどうだい?」
そんな蓮華の思考をよそに、少年は普段と変わらない何気ない口調で声をかけた。
その言葉を受け、しばしの沈黙の後、まず日景が答えた。
「……ああ、問題ない。むしろ、妙に落ち着いたような気分だ」
両手を握ったり開いたりを繰り返しながら、日景は軽く体を動かしている。
一方赤穂は、体中に蔓延するけだるさを押し出すように背伸びし、静かに息を吐き出している。
「……なるほどな。これが、開放ってやつか」
そう呟き、口の端を小さく歪めて不気味に笑った。
「悪くねぇな。むしろすこぶる調子がいいくらいだ」
「それは何よりだよ。君達を信じた甲斐があった」
少年は微笑んで答える。
その笑みは端から見れば、汚れを知らない純粋な少年のようなそれに見えるだろう。
だがその横顔が、蓮華は時々どうしようもなく不気味に見えて身震いしてしまいそうになる。
何かこう、次元そのものを超越した存在のように感じ取ってしまうのだ。
自分は確かに此処にいて、彼も確かに此処にいる。
なのに、手を伸ばせば簡単に届くその距離なのに、きっとその手は永遠に触れることさえも叶わないような。
言い換えてみれば、存在する定義そのものが違いすぎる……かけ離れすぎているような、そんな感覚。
自分でも馬鹿げた妄想だと笑い飛ばしたくなる。
が、決して度外視できない圧倒的なその存在感が彼にあることもまた事実。
感じ取っているのは私だけかもしれないが、それは言うなれば見えない圧力……プレッシャーのようなものだ。
同じ重力を受けて同じ濃度の空気を吸っているはずなのに、そこに圧倒的な存在感という壁が立ちはだかっている。
さらに分かりやすく言うならば、オーラとか雰囲気とか、そんな言葉が適切だろうか。
どちらにしても、同じ定義の上で存在しているとは到底思うことができない。
思い込むこともできない。
無理にそう思い込めば、三日三晩に渡って悪夢を見てしまいそうだ。
「置きぬけ早々に悪いが、今の状況はどうなっている?」
そんな日景の言葉で、蓮華の思考は一旦停止した。
前触れもなくテレビの電源を切られたように、プツンという電子音が頭の中で小さく弾けた。
「あ、ああ……お前達が眠っている間に、もう一つの封印を開放した。開放したのは風の封印で、今回は敵側の戦力強化という形になってしまったがな」
「……そうか。まぁ、順調ではあるんだな?」
答えずに、蓮華は視線を移す。
その視線を受けて、少年は答える。
「極めて順調だよ。残り五つの封印も、同じように一つずつ開放していけばいい。慌てる必要も、焦る必要もない。全ては予定調和の上に組み上げられた、価値ある未来への足跡になるんだから……」
「……だ、そうだ」
答えを受けて、日景はとりあえず納得した。
「それにしたってよぉ……」
と、続けて赤穂が口を開く。
「一体何が理由で、わざわざ敵側の戦力まで強化するのを見届けなくちゃいけねぇんだ? 今のうちに皆殺しにしちまえば、後々の妨害もクソもないだろうが」
手の中で炎を弄びながら、赤穂はわずかな苛立ちを含んで聞く。
「それが必要なことだから、だよ。ねぇ赤穂、数学だって、公式を知っているのとそうでないのでは、解ける方程式と解けない方程式が出てくるだろう? それと同じさ。八つの封印、その全ての開放は言わば絶対に必要な公式であって、それなくしては繋がる世界の扉は開かれることはない」
「……理屈では分かっちゃいるんだがよ」
不服そうな赤穂の表情を見て、少年は小さく笑った。
「考え方を少し変えてみるといい。別の言い方をすれば、僕達はパズルのピースなんだ。当然、パズルは一つでも足りないピースがあれば完成しない。誰欠けてしまっても、そこに出来上がるのは不完全な、欠落した出来損ないのような未来なんだよ」
言って、少年はわずかに目を伏せる。
「……そう、出来損ないなんだ。僕も、君達も、彼等も、この世界も。全てが不完全。一度はしっかりと繋がった鎖だったけれど、時の流れはしだいに鎖を錆付かせ、それでもなお数多の世界を繋ぎとめようとした。その結果、ついに鎖は悲鳴を上げた。一つが二つに、二つが四つに、四つが八つにと無数に砕け散り、全ての世界はカケラになった。それはまるで、あれもこれもと欲張った結果、何一つとして欲しいものを手に入れられなかった子供のよう……」
淡々と綴られる言葉。
その言葉一つ一つが色を持たず、温度を持たなかった。
古びたカセットテープからの録音音声を再生しているかのよう。
「全てのカケラを取り戻すことはできない。だからせめて、僕は僕がいるこの世界を、価値ある未来へと繋がる完全なる世界へと昇華させる。此処を始まりに、此処より遥か、永遠まで……」
その詩のような言葉を、誰もが無言で聞いていた。
恐らく、外は強い雨が降りしきっているだろう。
しかしその雨音も、地下の薄暗いこの場所までは届かない。
深淵とも奈落とも呼べない、浅すぎる地の底。
いつかこの暗がりさえも明るく照らすような、そんな価値ある未来とやらが確かにあるというのなら。
――其処に繋がる鎖となることを選んだ者達が、此処に集う。
暗闇にいたんだ。
闇に飲まれそうなほどの、暗闇に。
光を探したんだ。
闇を払ってくれるほどの、光を。
光を見つけたんだ。
闇色に輝く、希望の光を……。