Episode70:一つの提案
気が付くと……いや、そもそも気を失っていたのかそうでないのかさえ定かではなかったが、今この瞬間には間違いなく、僕の意識は現実の中へと引き戻されていた。
目を開ける。
すると、僕の周囲を取り囲むように、ただどこまでも真っ白なだけの空間がそこにはあった。
どこまで続くかも分からない地面の先には、地平線と呼ぶべきものさえも映らない。
ここが世界の果てなのか、はたまた中心なのか。
と、そんないらない詮索を始めるよりも早く、嫌でも目に付くものが一つ。
僕の目の前には、立ち塞がるかのような一つの扉が立っていた。
どこか古めかしくて、よく見ればあちこちが錆付いて変色しており、その割には金属の質感をまるで感じさせない。
そんな扉ではあったが、僕は確かに見覚えがあった。
どれだけ過去のことかは分からないけど、僕はこれと似たような扉をくぐり、その先にある奈落のような闇の中に吸い込まれるようにして意識を失ったのだ。
そう。
記憶に触れてくれという、彼女の言葉と共に。
夢から覚めたような感覚がまだ残っている。
だが、僕の頭の中にはなかったはずの映像や言葉、記憶といったものが多く詰め込まれていた。
それらは全てがバラバラのように見えて、実はちゃんと全てが一つの物語として繋がっている。
結論から言うと、それはひどく悲しい物語だ。
かつて、世界のどこかに確かにあったはずの国の話。
その世界で起こった、平凡な日常から始まり、やがて回避できない破滅へと続いていく物語。
目を閉じ、耳を塞がれ、ただイメージだけを無理矢理頭の中に流し込まされたような、そんな感覚。
感想を聞かれても答えることはできないだろう。
けどその反面、受けた印象はあまりにもリアルだった。
忘れろと言われて忘れることはできないと思う。
僕はそんな鮮明すぎるイメージを思い返しながら、指に収まったままの『Ring』へと目を落とす。
そこからは今、何の光も感じられはしない。
指の中のそれは、どこからどう見てもただの冴えない銀色の指輪に過ぎず、その中に一つの意思が存在しているなどとは誰も想像できないだろう。
だが、それでも。
彼女は、そこにいる。
そこにいて、僕に全てを見せてくれた。
痛みも悲しみも、嬉しさも楽しさも。
全部全部、そこにある。
決して夢幻なんかじゃない。
だから、全てを知った今、僕は戻るべきなんだと思う。
他でもない、僕がいるべき世界へと。
そしてこの扉は、僕の世界とこの場所を結ぶ唯一のもの。
……還ろう。
まだ、何も終わってはいないのだから。
終わらせるために、還ろう。
その先にある未来が、価値あるものになることを信じて。
そう、それは例えるなら……。
――いつの日か見た、銀の星と金の月が浮かぶ蒼い空に、変わらぬ明日を願っていた頃のように……。
還ろう。
僕は、僕の世界を……僕の時代を歩く。
きっと、誰かが傷付くだろう。
きっと、誰かを傷付けるだろう。
きっと、僕も傷付くだろう。
だけどそれは、確かな今を生きる証になるから。
いつか彼女が願っていた、繰り返される過ちを止めることができる未来が、今ならば。
――それまでに過ごした孤独な時間も、やがて優しい記憶に変わるかもしれないから……。
扉に手を触れ、軽く押す。
ギィと音を立て、いとも簡単に扉は開いた。
扉の向こう側から、白い光が溢れる。
眩さに目を閉じて、そのまま足を踏み出した。
ふと、軽くなる体。
重力から開放されて、微かに浮かぶ。
そしてこれが、長かった夢の終わり。
次に目を覚ませば、そこはもとの世界。
また、今日が始まる。
目を覚ます。
見慣れない天井が映った。
少なくとも、自分の部屋のものではない。
何度か瞬きを繰り返し、首から上だけを動かして辺りを見回す。
部屋の中は灯りが消され薄暗かったが、カーテンの向こう側からはオレンジ色の光がわずかに差し込んでいた。
体を起こそうとしたが、思うように体が動かない。
全身が鉛にように重く、気のせいかどこか息苦しささえ覚える。
「……っ」
どうにかこうにか上半身だけを起こして、前のめりに転がりそうな頭を手で抑えた。
少し頭痛がする。
風邪を引いたときの症状によく似ている。
しばらくの間そのままジッとしていると、徐々に痛みは引いていった。
「ふぅ……」
重い溜め息を一つ吐き出して、僕はのそのそと二本の足で立ち上がる。
体全体がまだどこか不安定で、ふらふらと揺れた。
危なっかしいなと自分でも思いながら、壁を支えにしながらカーテンを開け、そのまま引き戸を開けた。
ガラガラと音を立て引き戸が移動する。
次の瞬間、思わず目を閉じたくなるような眩しい光が目に飛び込んだ。
それが夕陽の逆光だと気付くのに大した時間はかからなかったが、眩しさが後押しして頭痛が少し戻ってきてしまう。
少しずつ目が慣れてくるのを待って、僕はそのまま廊下へと出る。
改めて景色を見てみると、外はすっかり夕暮れ色に染まり返っていた。
僕の目の前に広がる砂地の地面の上には、長く伸びた木の影が迫っていた。
あちこちの地面にまだ新しい穴の跡のようなものがあり、それを見て僕はふと思い返す。
ここは一体どこなのだろう、と。
しかしそれを口に出して問いとするよりも早く、廊下の向こう側から現れた人物の声によって僕は理解させられる。
「よぉ。気分はどうだ?」
振り返るとそこに、真吾の姿があった。
「……真吾?」
確かめるように僕は呟く。
同時に頭が重くなり、思わずその場に膝を付いて崩れ落ちてしまった。
「っと、無理すんなって。まだ体の方が本調子に戻ってねーんだからよ。本当なら、二、三日意識を失ったままでもおかしくないんだからな」
真吾の肩を借り、僕は立ち上がる。
「とりあえず、目が覚めたんならあいつらに顔見せてこいよ。ずいぶん心配してたみたいだぜ?」
「……あいつら?」
言われて僕は気付く。
いや、ようやく思い出したといったほうがいいだろうか。
僕は……もとい僕達は、今朝方に風の封印を解放したばかりであり、その直後に僕は体に異変を覚えたのだ。
間もなくして僕はそのまま意識を失ってしまったが、それからどれくらい時間が経っているのだろうか?
真吾の言葉と実際の夕暮れから思うに、あれから今までの間ずっと意識を失っていたようではあるが……。
「……二人は、どこにいるの?」
「向こうの客間だ。いってこいよ」
言われて、僕はまだどこかおぼつかない足取りで廊下を進む。
少し遠くで、子供達のはしゃぐような声が聞こえた。
日常の中、さほど珍しくもないその光景が、ひどく懐かしく思えた。
「……ふぅ」
そんな僕の背中で、真吾が意味深な溜め息を吐き出していたことを僕は知らなかった。
「どうやら、もう止まることはないか……」
諦めたような、面倒くさそうな、そんな溜め息。
茜色に染まった遠くの空を見て、呟く。
「――凍りついたままの時の歯車が、今になって動き出した、か…………」
どこかでカラスが鳴いていた。
カァーと、相変わらず誰かをバカにしたような声で。
「……ウルセェよ、バーカ……」
空に吐き捨てて、真吾ももと来た道を引き返した。
引き戸を開けると、そこにはちょっと予想もできない光景が広がっていた。
ワイワイと騒ぐ子供達は、その二人にやたらと懐いているようで、腕を引っ張ったり背中によじ登ったりしている。
もちろん、その二人というのは氷室と飛鳥に他ならない。
「…………」
入り口でしばし呆然と立ち尽くし、僕は何度かまばたきを繰り返す。
「あ」
「おや」
と、二人も僕の姿に気付いたようで、そんな呑気な一声を返してくる。
「大和、よかった。もう大丈夫なの……って、こら、腕引っ張らないの。痛い、痛いってば……」
「まだ少し疲れているようですが、無理は禁物ですよ……だから、眼鏡が壊れるからいじらないでくださいと何度言えば……」
間違いなく僕を心配してくれているのだけれど、言葉と言動が全く一致していない。
すでに飛鳥は何人もの子供達、特に女の子の多くに質問責めにされ、氷室に至ってはその物静かな態度がかえって災いしたかのように、からかうような態度で男の子達が絡んでいるように見える。
なんというか、実に平和な風景がそこには広がっていた。
とはいえ、当の二人はすっかり疲弊しているようであり、その顔にはすでに疲れたという言葉が何度も上書きされているようだ。
「こらこら、お客さんに皆何してるの。もうすぐ夕飯の時間なんだから、それまで部屋で大人しく遊んでなさい」
奥からやってきてパンパンと手を叩き、子供達を静めたのは見た目三十代半ばほどの女性だった。
その声に子供達ははーいと間延びした返事をし、わらわらと群がって廊下へと出て行く。
ドタバタという足音がいくつも繋がって、大家族を養う狭い家を思わせるようだった。
「……はぁ、助かった」
心底疲れ切った声で飛鳥が言う。
「……だらしないですよ、と言いたいところですが、今回ばかりは同感です。最近の子供は部屋の中でゲームばかりしてるかと思っていましたが、どうしてこんなにパワフルなんでしょうかね」
ずれるというよりはどこか曲がってしまったような眼鏡を直しながら、氷室も溜め息交じりでそう呟いた。
「どうもすいません。どうにも人見知りしない子ばかりで。悪いことじゃないんですけど、限度がないというか……」
困り果てた母親の表情を見せながら、女性は言った。
実際、彼女はあの多くの子供達の母親と同じようなものなのだろう。
前に真吾に聞いた話だと、ここは孤児院のはずだ。
つまり、何らかの理由によって親を失ってしまったり、親戚などに受け入れられなかったりした子供達が集まる場所。
そう言っていた真吾本人はどうなのか知らないけど、ここで暮らしているということはそういうことなのかもしれない。
まぁ、必要以上の詮索はしないでおこう。
「まぁ、何はともあれ意識が戻ってよかったですよ」
テーブルを挟み、僕達三人は向かい合って座る。
「どうですか? まだどこか痛むところとかはありますか?」
「ん、今は平気。まだ体があちこちだるいけど、そのうちマシになるとは思う」
「そうですか。てっきり、飛鳥の電撃が思った以上に強くて、心臓麻痺でも起こしてしまったのかと……」
「ちょ、ちょっと! そんなヘマしないわよ。そりゃ、あのときはちょっと焦ってたけどさ……」
「……どういうこと?」
「ああ、大和は覚えていませんか。実は、あなたが意識を失う前に、痛みに苦しんでいましたよね? そこまでは覚えてますか?」
「うん、何となくだけど……」
思い出そうとすると痛みまで戻ってきそうなので思い出したくはないが、確かに言葉では表現できないような痛みが全身を走っていたのを覚えている。
「そのいわゆる、発作状態に近いものを止めるために、やむなく飛鳥の力で電撃を叩き込みました。ようするに電気ショックを与えて気絶させたわけです」
「ああ、そういうことだったんだ……」
「ちゃ、ちゃんと加減したわよ? ほら、実際に大和だってこうして起き上がってきたわけだし……」
「結果論でしかないですが、まぁよしとしましょうか。終わりよければ全てよしという言葉もありますからね」
「な、なんか納得いかない……それに、そもそもそうするように促したのはアイツでしょ?」
「……アイツって?」
僕が聞き返すと、飛鳥が答える代わりにその当人が部屋の中へとやってきた。
「そりゃ俺のことか?」
引き戸に対して背中を向けていた飛鳥が、驚いてわずかに跳ね上がる。
「わぁっ!」
「……オイ、その人をバケモノ扱いするようなリアクションをまずどうにかしろ。俺の知る限り、同じリアクションをするヤツが少なくともこの孤児院の中にもう一人いるんだからな。同じ反応はソイツだけで十分だ」
言いながら部屋を横切り、真吾は僕の隣へと座る。
「い、いきなり背後から声をかけられたら驚くに決まってるじゃないの!」
「別に驚かそうと思ってやったわけじゃねーだろーが。そういう反応は、後ろめたい事実があるやつが取る態度だろーに」
「う……」
事実として確かに話題が真吾の方に流れていたので、飛鳥としても頭ごなしに否定することはできなかったようだ。
何か言いたそうなのを堪え、尻すぼみに口を閉じていく。
「ま、どうでもいいけどよ。もうこっちは慣れっこだしな」
溜め息を一つ吐き出し、真吾は間を置いた。
そして直後に、あっさりと話題を変える。
「……で、これからどーすんだよ、お前ら?」
「…………」
「…………」
「…………」
僕達は三人揃って口を閉ざしてしまう。
分かってはいたことだった。
こうして束の間の休息を楽しむ暇など、それこそ全く残されてはいないということ。
ただ、目に見える打開策がわるわけでもなく、つまるところは手詰まりに近い状態には変わりない。
いや、確かに打つ手がないというわけではないのだが……。
「……さて、どうしますかね」
としかし、氷室は冷静に言葉を返す。
表情はすっかり落ち着きを取り戻し、場の空気をその一言だけで冷却させているかのようだ。
「あなたは、どうするつもりで?」
今度は氷室が聞き返す。
もちろん、真吾に対して。
「……さぁ、な。俺は俺のやりたいようにやるさ」
「つまり、私達とあなたはこのまま敵同士の関係である、と?」
「敵も味方もあるかよ。そもそもこれは戦争だ。信じれば裏切られる。だったら、最初から誰も信じず、終始一人で戦い抜くに越したことはない」
「その論理は正しい。ですが、それはあなたの本音ではない。違いますか?」
「…………」
真吾は押し黙った。
否定しないということは、肯定ということなのだろう。
「……だったらどうする? 何か提案でもあるのかよ?」
「ま、これも戦争ではありきたりなものですけどね」
眼鏡を押し上げ、氷室は言葉を続ける。
まさしく文字通り、子供のけんかから国家レベルの戦争まで幅広く使われる、その言葉を。
「――共同戦線、というのはどうです?」