Episode66:夢の始まり
あれから数日が過ぎた。
これといって、何事かと騒ぎ立てるような出来事は何も起こらず、平坦といえばただそれだけの、しかし間違いなく平和の色を覚えた日々が流れていた。
久しぶりにゆっくりと療養できたこともあり、体はすっかり本調子へと戻っている。
目に見える範囲での傷はほとんどがきれいに塞がり、内に残る痛みも微々たるものだ。
が、ほんの数日だというのに鎧の重さを忘れていたようで、数日振りに身に着けた鎧はどこか重苦しく感じてしまう。
まぁ、じきに慣れるだろう。
もしかしたら、体力が落ちているのかもしれない。
いくら療養中の身とはいえ、思い返してみても訓練らしいものは何一つしていなかった。
とはいえ、無茶をすればそれはそれで姫から直々にお説教をいただくことになるのだが……。
「ん……っ、ふぁ……」
中庭にやってきた私は、今日も今日とてよく晴れた青空に向けて思い切り背を伸ばした。
思わずあくびがこみ上げてくるので、だらしなく口が開いてしまう。
誰かに見られないようにとわずかに緊張しながら、伸ばした両腕をゆっくりと下ろした。
「ふぅ……今日もいい天気だな」
ぼんやりと空を見上げ、ふとそんなことを呟く。
もう間もなくで正午を迎えようとするこの時間、今私がいる中庭から少し離れた訓練所では、今でも多くの兵達が実戦の模擬訓練に精を出しているようで、そこら中から掛け声が響いていた。
私も久しぶりに素振りや基礎体力の反復でもしておこうかと、中庭を横切って歩き始める。
心地よい風が吹いている。
ちょうど季節の繋ぎ目である今の時期は、毎年のようにこんな風が吹いてくる。
思わず目を閉じて、立ち尽くしたままでその風の感触を肌で感じていたくなるような、そんな風が。
「あれ? 隊長じゃないですか」
ふと聞こえたその声に背中を振り返ると、そこにはトライが立っていた。
「何だ。誰かと思えばトライか」
「何だ、ってのはひどいですよ。それよりも、もうお体の方は大丈夫なんですか?」
「ああ、お蔭様でゆっくり休ませてもらったよ。休みすぎて体がなまってしまったくらいだ」
「そうですか。ま、調子が戻られたのならそれはそれでよかったです。今日はこの後、どうなさるおつもりで?」
「いや、特には何も考えていないな。何だ? 用事でもあったか?」
「いえ、特には。ただ、絵に描いたような平和がここ最近続いているので、ちょっと……」
ああ、なるほど。
何となくだが、私にもトライの言いたいことは分かる気がする。
平和であることは願ったり叶ったりなのだが、そんな平凡な日常の中に何かこう……物足りなさのようなものを感じてしまうのだろう。
もちろん、平和に越したことはない。
きっとそんなことは、誰もが当たり前のように思っていることなのだろう。
平和ボケと言うほど平和に慣れているわけではないが、やはり我々は騎士なのだ。
騎士とはつまり、戦いの中にしか生きることができないような存在だと言い換えてもいい。
過言かもしれないが、強さを求める先とはやはりそういう場所にしか辿り着くことがないのだ。
その追い求める強さが自分のためのものか、他人のためのものか、あるいはもっと別の何かなのかは千差万別。
誰だって何らかの想いがあって、想いがあるから強くなろうとするのだ。
結果として得た力は、争いごとの場でしか活かされることがないと知っても。
それでも人は、どこかで強さを追い求めずにはいられない。
そういう生き物なのだ。
だから、人は懸命で、しかし時としてどうしようもなく哀れに映る。
弱さが罪だとは言わない。
しかし、弱さを庇う気もない。
強さを求めるのは、そこに弱い自分があったから。
または、あることを知っているから。
動機も理由もやはりバラバラで、中には不純なものだって混ざるときがある。
偉そうなことを言っている私だって、結局のところそうなのだ。
私が強くなりたいと願い、そして女であることさえ気にも留めずに騎士の道を目指した理由、それは……。
…………あれ?
……私は、どうして……?
どうして私は……騎士になろうと思ったのだろう……?
「……隊長? どうしたんですか、隊長?」
「…………」
「隊長、もしもし? 聞いてますか? 隊長ってば」
肩を揺すられるその衝動で、私は丸で夢から覚めて跳ね起きたように意識を取り戻した。
「……な、何だ? どうかしたのか?」
「それはこっちのセリフですよ。どうしたんです? いきなりボーっとして、何回呼んでも返事してくれないじゃないですか」
「え……あ、ああ、すまない。ちょっと、考え事をしていた……」
「はぁ……それなら別にいいんですけど、やっぱりまだ、調子悪いんじゃないですか?」
「何を言うんだ。そんなにヤワな体ではないぞ、私は……」
「いえ、そうじゃなくてですね。肉体的な疲労ではなく、精神的な疲労とかじゃないんですか? こういう言い方もちょっとアレですけど、最近の隊長、前にも増してボーッとしてる時間が増えてる気がしますよ?」
「前にも増してというのが気になるが……まぁいいか。それにしても、そうか? そんなに私はボーっとしているように見えるのか?」
「いえ、見えるんじゃなく、してるんです。ボーっと。そりゃもう、遠目から見たらアホ……じゃない、まるで自分の世界に入り込んでるような、ジッと何かを考え込んでいるような……」
「……私がか?」
「はい」
「…………」
そうなのだろうか?
自分ではよく分からない。
そもそも私は、そんなに何かを考え込むような素振りをしていたのか?
確かに立ち止まり、ぼんやり空や景色を眺めることはよくあったとは思う。
その様子が、他人の目には何かを考え込んでいるように、もしくはボーっとしているように映っているということだろうか?
……分からない。
やはりまだ体の方が本調子ではないのだろうか?
普通に生活する分には、もう何も苦労することはないのだが……。
「ほら、今だって」
言われて、私はハッと我に返る。
「今のは違うだろう。これはお前が指摘したことを考えていただけであって……」
「じゃあ聞きますけど、今俺が何回隊長のこと呼んだか覚えてますか?」
「……呼んだのか?」
「はい。四回ほど」
「…………」
全く気がつかなかった。
これは本当にトライが言うように、精神的な疲労がまだ残ったままなのかもしれない。
「……まぁ、隊長が平気ならいいんですよ、俺は。差し出がましいこと言ってすいませんでした」
「……ああ。いや、いい。気にするな。お前なりに私の身を案じてくれているのは分かっているつもりだからな」
そう返しながら、やはり私はまた別のことを考えていた。
思い当たる節は特に何もない。
体の調子だって、万全とまではいかなくてもかなりいいはずだ。
傷の痛みも、もうほとんど何も感じないくらいにまで回復している。
不調を感じさせる要因を探す方が、今の私にとっては難しいくらいなのだが……。
「……そう、だな。確かに、まだ気付かないところで疲れが蓄積されているのかもしれん。余計な心配をかけたな」
「あ、いえ。大丈夫ならいいんですよ、それで」
慌てて取り繕うように、トライは早口に答える。
「……私はそろそろ戻ることにする。兵達のこと、任せたぞ」
「あ、はい」
「ではな」
それだけ告げて、私は中庭をあとにした。
足取りがどこか重苦しい。
念のため、午後になる前に聖堂の方で体を看てもらったほうがいいかもしれないな……。
去り行く背中を、トライは見えなくなるまで見届ける。
その背中が小さくなって、横道に隠れて見えなくなった頃に、彼はふと呟いた。
「……呼んでないですよ、隊長」
不安げな眼差しのまま、見えなくなった背中を追いかけ彷徨うような視線を巡らせて。
「四回どころか、一回だって呼んでないです……」
その言葉はもう、届かないと知って。
それでも不安の色は募る。
濃く深く、まるで流れた血の赤がしだいに黒ずんでいくかのように。
「どうしちゃったんですか、隊長……」
届かない。
心地いいはずの風が、今は胸の中の不安を煽る要素にしかならなかった。
「安心してください。どこもおかしなところは見られません」
「……そうか」
衣服を着直し、私は再び鎧を体にくぐらせた。
「体内にあちこちあった損傷も、もうほとんど癒えています。秘薬のおかげもありますが、それを差し引いても素晴らしい回復力ですよ」
教会の医務室に所属しているシスターである彼女……ルイは微笑みながらそう言った。
この医務室は、騎士団の実戦訓練などでケガをした者達にも使われている施設で、私もルイとは顔なじみ程度には言葉を交わしたことがある。
しかし、こうして一人で医務室を訪れたことは初めてかもしれない。
病気を始めとして、風邪の類すら幼い頃からほとんどかかった記憶がなく、健康に関して私は今まで何も問題はなかった。
やはり考え過ぎだったのだろうか。
トライにあんな風に立て続けに言葉を重ねられたので、何となくそうではないかと思い込んでしまっただけなのだろう。
「手間を取らせてすまなかった」
「あ、いえ。どうせ暇でしたから」
シスターなのに暇なのはどうだろうなどとも思いながら、微笑むルイに私も小さく笑い返しておく。
「では、失礼するよ」
「はい……あ」
「ん? 何か?」
何か言いたそうなルイに、私は肩越しに振り返って聞く。
「いえ、大したことではないんですけど……」
「構わないよ。続けてくれ」
「えっと……何か、悩んだりしていることとかはありませんか? 気になって仕方がないこととか。そういうことが、知らぬ間に精神的に自分を追い詰めている場合って、少なくないんです。だから、ひょっとしたら……」
「気になっていること、か……」
あえてあるとすれば、他人の目に映る自分がそんなに心配されそうなほどの顔や雰囲気をしているのかどうか、ということだろうか。
いやしかし、これを言っては本末転倒だろう。
ようは、私がしっかりしていればいいだけの話なのだから。
「……いや、特には……」
そこまで言いかけて、ふい頭の片隅にその言葉が甦る。
「――本当はそんなこと、どうだっていいんです」
蒼い空に銀の星と金の月。
祭りの夜に出会った、小さな吟遊詩人はそう言った。
「――この世界はすでに泣いているんだから」
目に見えるこの世界を否定するような、悲しい言葉。
「――どうか、貴方は啼かないで」
その目は、悲しげに、しかし真っ直ぐに私を捉えて離さずに。
「――最後まで啼かないで」
何を想って、そう呟いたのだろうか?
「――貴方は全ての始まりに繋がり、そして全ての終わりに繋がる。そのことを、忘れないで……」
そうして、静かに消えた吟遊詩人。
短い詩を私に残し、何処へと。
「……どうか、しましたか?」
ルイがどこか心配そうに顔を覗きこんでくる。
「……いや、何でもないよ」
片手で制し、私は背中を向けた。
「……何もないんだ。不安も悩みも、何もね」
「……そうですか。なら、いいんですけど……」
「では、失礼」
パタンと、扉が閉じる。
ドクン。
心臓がわずかに跳ねた。
不安?
恐れ?
悩み?
そんなものはないはずだ。
……ないはず、なのに……。
「…………っ」
あの時の言葉が……私だけが知る、吟遊詩人の詩が胸を締め付ける。
何かが始まろうとしていた。
いや、すでに始まっていたのかもしれない。
私が気付けないだけで、とっくに始まっていたのかもしれない。
始まる。
終わるために、始まる。
動き出した時の歯車は、もう誰にも止めることなどできない……。