Episode65:祭りの夜
浅い眠りが終わりを告げる。
「……ん」
薄く開いた視界の先、蒼い闇が静かに佇んでいた。
開け放たれたままのカーテンの向こう側から覗くのは、銀の星と金の月。
注ぐようなその淡い光が、いくつもの細い線になって私の体を囲むように絡み付いていた。
「…………」
目元をこすりながら、私は体を起こした。
どれくらいの間眠っていたのだろうか?
頭の隅にまだ微かに残る眠気を押し殺して、ベッドから降り立つ。
松葉杖を持って、私は部屋の扉を押し開けた。
瞬間、涼しい夜風が頬を撫でながら、長い廊下の奥へと過ぎ去っていく。
いたずらのような風は私の頬を軽く冷やし、髪をなびかせた。
しかしそれは決して不快なものなどではなく、むしろ心地よさを覚えてしまうほどのものだった。
おかげで眠気も消し飛び、ようやくまともに頭が回り出したようだ。
廊下を進み、城下の景色に目を向ける。
すると、まだ多くの灯りが目立ち、どうやら夜はまだ始まったばかりであることを私は知らされる。
昼間の喧騒とはまた違う、別に賑やかさと華やかさが集う街並み。
さすがに子供の姿はほとんど見えないが、それを補って余りあるほどの大人達の姿が目に付いた。
もっぱら繁盛しているのは、やはり酒場なのだろう。
遠目に見ても、狩人や冒険者といった姿の人々が多く目立つ。
私は胸元を探り、そこから小さな懐中時計を取り出す。
ロケットペンダントにもなっているその蓋を指で軽く弾くと、中から文字盤が顔を覗かせた。
時刻はもう間もなく夜の九時を指し示そうとしていた。
ということは、私は大体五時間ほども寝入っていたということになる。
「……すっかり眠りこけてしまっていたのか」
我ながら、夜中にあれだけ寝ておいてよくもまぁさらに眠ることができたと思う。
まぁ、体が睡眠を欲しがっているということは、それだけ回復の傾向に向かっているということなのかもしれないのだが……。
しばらくそのまま、当てもなく城下の景色に目を落としていると、ふいに夜風に乗ったその音は聞こえてきた。
「……これは……?」
笛の音だろうか?
微かにだけ聞こえたその音は、すぐに目下の喧騒にかき消されるようにして消えてしまう。
ほんの一瞬の出来事だったが、奇麗な音色だった。
聞くだけで疲れが癒えていくような、心が洗われるような、そんな不思議な音。
ともあれ、いつまでもこうして景色ばかりを眺めているのもどこか退屈だ。
怪我人が退屈などと、それは言語道断なのかもしれないが、事実として暇を持て余しているのだから仕方ない。
広間に行けば誰かいるだろうと、勝手に決め付けて私は廊下を歩き出した。
カツカツと、松葉杖が床石を叩く。
昼間に比べて、体の痛みもだいぶ引いてはきているが、もうしばらく松葉杖の世話になることになりそうだ。
そうなると、普段何気なく上り下りしている城内の階段が、今だけは鬱陶しくて仕方がない。
怪我人のわがままだなと割り切って、私は下り階段相手に悪戦苦闘するのだった。
広間に向かったはずの私は、結局そのまま外へと足を伸ばしていた。
結論から言えば、広間には誰もいなかったのだ。
ただ、たまたまその場にやってきた騎士団所属の兵に話を聞いたところ、どうやら今夜はちょっとした祭りが行われているという話を耳に挟んだのだ。
何でも、収穫祭の一興のようなものが行われているとのことだった。
言われて見れば、季節的にももうそんな時期になっていてもおかしくはなかった。
毎年のように行われている恒例の行事にもかかわらず、すっかりそのことを忘れているとは、やはり気付かないだけで相当の疲れが溜まっていたのかもしれない。
話を聞いたところによると、トールやアクエリアスも街へと出向き、今は祭りを楽しんでいるとのことだった。
ほとんど人の出払った城内に残ってもそれはそれですることがないので、私もこうして街の中へとやってきたというわけだ。
ところが城内から見た以上に街は賑わいを見せていた。
昼間の人ごみなど比べ物にならないくらいに、大通りには人が密集している。
この大人数の中でトールやアクエリアスを探し出すのは一苦労しそうだ。
なので、私は早々に二人を探し出すことを諦め、できるだけ人気の少ない静かな場所を求めて歩き出した。
途中で露店に立ち寄って、パープルブラッドのワインだけを買う。
「ふぅ……」
街のちょうど端っこの方にある、小さな休憩場所へとやってくる。
ここも多くの人で賑わっていると思ったのだが、予想外に無人だった。
私はベンチに腰を下ろし、手にしたワインを一口だけ口に含んだ。
カップをベンチに置き、遠くに聞こえる喧騒を眺めながら、夜の静寂の中に耳を澄ます。
流れるように風が吹く。
わずかに掻いた寝汗を乾かすかのように、それはひどく心地いいものだった。
目を閉じれば、またすぐにでも眠ることができてしまいそうなほどに。
夜風を全身で感じながら、静かに空を仰ぐ。
雲一つない晴れた夜空に、無数の銀の星と一つの金の月。
澄み切った夜空は過去に見たことがないほどに美しく、思わず感嘆してしまうほどだ。
ぼんやりとそんな景色に見とれていると、再び私の耳に届く音が一つ。
それは、先ほども城内の廊下で微かに聞き取れた、笛の音のような音だった。
その音は私が腰掛けるベンチからそう遠くない場所から、時折吹く夜風に乗って届いているようだった。
ふいに私はベンチから立ち上がり、音の出所を探すべく周囲を歩き出す。
松葉杖が砂利道の地面を突き、中途半端な足音が夜の闇を振るわせた。
歩くことほんの数十秒。
私が座っていたベンチから少し離れた別のベンチに、その音はいた。
正確には、ハーモニカを口にした小柄な体躯の……恐らくは少年だろうか。
その少年が、ただでさえ小柄なその体をよりいっそう縮ませるかのように体を折り、ハーモニカを吹いていた。
頭には、顔を覆い隠すほどに大きな三角帽子をかぶり、体はだぶだぶのマントで覆っている。
一見して、それはひどく不釣合いな恰好だった。
だが、そのミスマッチが逆に少年の存在感というものを際立たせているようにも見えた。
つばの広い三角帽子に隠れて、少年の表情は見えない。
一方少年は、すぐ近くに私が立っていることになど気付く様子もなく、黙々とただハーモニカを吹き続けていた。
その音色は、ひどく奇麗な反面、どこか悲しい音を含ませているように私は感じた。
泣けない誰かのために、代わりに泣いてあげているような、そんな……。
そうして演奏に聞き入っていると、やがてハーモニカの音が静かに消えていった。
視線を向けると、ちょうど少年はハーモニカから口を離し、その大きな帽子のつばをつまんで、隣に立つ私を覗くように見上げていた。
その視線に、私は一瞬だけ緊張してしまう。
盗み聞きならまだしも、こうして同道と立ち聞きしたという事実は無礼なことかもしれない。
しかしそんな私の考えをよそに、少年は小さく微笑んで言った。
「こんばんは」
「……え? あ、ああ……こんばんは……」
最初、その言葉が私に向けられたものだと気付けなかった。
が、よくよく考えてみればこの場に居合わせているのは私だけであって、つまるところ少年は私に対してその言葉を口にしているわけである。
「その……すまなかった。立ち聞きするつもりはなかったのだが」
「いえ、構いませんよ。詩を届けることが、僕らの役目ですから」
と、嫌な顔一つせずに少年は微笑んだ。
その言葉が少しだけ気になり、私は聞いてみる。
「……もしかして君は、あれか? 吟遊詩人というやつなのか?」
「はい、一応は。まだまだ見習いなんですけどね」
小さく苦笑いし、少年はその大きすぎる三角帽子を取る。
「アルって言います。以後、お見知りおきを」
立ち上がり、その小さな体をくの字に曲げて、礼儀正しくアルは言った。
「私はシルフィア。一応、この国の騎士をつとめている」
言って、私が手を差し出すと、アルもそれに答えてくれた。
軽く握手を交わし、私達は揃ってベンチに腰を下ろす。
「騎士なんですか? すごいですね、女性なのに……って、すいません。差別するわけじゃないんです」
「いや、構わないよ。事実、女性の騎士というものはずいぶんと珍しいものだからね。恐らく国全体で数えても、もしかしたら私くらいしかいないかもしれないな」
ところでと、私は話を切り替える。
「さっきアルが演奏していた曲は、何と言う曲なんだ? とても奇麗な曲だったが、私は聞いたことがないものだったよ」
「ああ、今の曲ですか? うーん、何と言う曲と聞かれると、答えに困るなぁ……」
「ああ、すまない。答えにくいことを聞いてしまったか?」
「あ、いえ。そういうわけじゃないんですけど……」
言いながら、アルはしばしの間言葉を探すような間を置いた。
「うーん……言ってみれば、あの曲に名前なんてないんですよ。なぜなら、あれは僕が作ったものですから」
「……自作、ということか?」
「……まぁ、一応は……」
「すごいじゃないか。そういえば、吟遊詩人はそれぞれに見つけるべき詩があると聞くが、もしかしたらさっきの曲はアルにとってのそれなのか?」
「いえ、そんな大したものじゃないんです。あれはただ、今あるこの世界が紡げない言葉を、僕が代わりに紡いだだけで……」
言いかけて、アルはふと罰の悪そうな顔をする。
「……すいません、変なこと言って。忘れてください」
アハハと、乾いた小さな笑いが響く。
やや疑問にも思ったが、さして気にするほどのことでもないのだろう。
「……僕ら吟遊詩人にとっての見つけるべき詩というのは、一つの場所に留まっているものではないんですよ」
「と、いうと?」
「……うまく言葉にはできないんですけど、色んな土地を歩いて、色んな人と出会って。この目で見た景色や、この耳で聞いた音や、この鼻で嗅いだ匂いとか、そういう全ての記憶がようやく形を成せるときになって、初めて完成するものだと言われてます。だから、最終的に僕らが紡ぐ詩は決して同じ形を持つことはなく、同じ旋律を奏でることもない。全ての吟遊詩人にとって、見つけ出す詩は全く別のものになるんです」
「……それはまた、ずいぶんと先の見えない話なのだな」
「……ええ、本当に……」
遠くを見るように、アルは夜空を見上げる。
「……だけど」
そして、静かに言葉を続ける。
「本当はそんなこと、どうだっていいんです」
「……え?」
思わず私は聞き返した。
どうだっていいとはどういうことなのだろう?
そんな、まるで自分の存在すら全否定するような言葉……。
「どうだっていいんですよ、そんなこと。僕が詩を見つけようと見つけまいと、それ以前にこの世界はすでに泣いているんだから」
「……どうだっていいって……それに、どういうことだ? 世界が泣いている……?」
私にはさっぱり意味が分からなかった。
けれど、アルの表情はこれ以上ないくらいに悲しい色に染まり果てていた。
夜空の蒼さを簡単に呑み込んでしまうほどの、まるで絶望のような闇色に。
「……すいません。僕はこれで失礼します」
立ち上がり、アルは大きな三角帽子を被った。
「……アル?」
声をかける。
自分でも驚くくらいに、声が乾いていた。
「……どうか」
振り返らずにそう言って、直後にアルはわずかばかり振り返った。
そして、続ける。
「――どうか、貴方は啼かないで。例えこの世界の終わりがすでに始まっているとしても、最後まで啼かないで。終わりは等しく、そして一瞬。貴方は全ての始まりに繋がり、そして全ての終わりに繋がる。そのことを、忘れないで……」
そんな言葉だけを残して、アルは去っていく。
小さすぎるその背中が、徐々に夜の闇に紛れて消えていく。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。
名残も余韻すらも残さず、小さな吟遊詩人は何処へと消えた。
「……どういう、こと……?」
そう私が口にしたのは、アルの姿がどこにも見えなくなってからのことだった。
星が瞬き、月が輝く空の下。
確かな混沌が、静かに渦を巻き始めていた。
今はただ、誰もそれに気付けないだけ。
そして気付いたときには、きっと何もかもが手遅れ。
そんな、例えようのない不安だけが増していく中、賑やかな夜だけは、確実に更けていった。