Episode64:遠く近い夕暮れ
「では、そろそろ私は失礼します」
松葉杖をついて、私は花屋の前に立つ。
「えー、お姉ちゃんもう帰っちゃうの?」
としかし、アリスはどこか不満気なそんな声を漏らした。
「すまないな、アリス。私にもやらなくてはいけないことがあるし、それに今は、しっかりと休養をとっておかなくてはいけないんだ」
腰ほどの高さにあるその頭を軽く撫でながら、私は言った。
「アリス、無理を言っちゃダメよ。シルフィアさんだって、無理してわざわざ尋ねてきてくれたんだから」
「はーい……」
口ではそう返事をしてはいるものの、アリスはやはりどこか納得いかない様子だった。
小さく口を尖らせ、残念そうに肩を落としている。
「そうむくれるな、アリス。同じ街で暮らしているんだ、これからはいつでも会えるさ」
「……うん」
「……そうだ。アリスに一つ、お願いがあるんだが、いいかな?」
「……何?」
お願いという言葉を聞いて、アリスの目の色が変わる。
「実は、今度部屋に花を飾ろうと思っているんだが、どんなものがいいかなと思ってね。アリスが好きな花とか、気に入ってるものでもいい。選んでくれないかな?」
「うん、いいよ」
そう返事をするアリスは、いくらか機嫌を直して笑顔を見せてくれるようになっていた。
そうさ。
小さな街ではないけれど、同じ場所で暮らしているんだ。
一般市民が城の中に入る機会は中々ないだろうが、そのときは私が足を伸ばせばいいだけの話だ。
今度来るときは、あのパン屋のパンをみやげに持ってこよう。
きっと紅茶とよく合うはずだ。
「じゃあ、私はこれで」
「あ、はい。お構いもしませんで、すいません」
「いえ、こちらこそ。突然押しかけるようになってしまって」
「そんなことないですよ。それに、元はといえば、私がシルフィアさんにぶつかってしまたことが原因ですから」
小さく苦笑いするエルク。
先ほど汚れてしまった上着も、すっかり染み抜きされて元通りになっている。
まぁ、さほど気にすることでもなかったのだが。
「お姉ちゃん、次はいつ来るの?」
「こら、アリス」
私の手を引き、催促するようにアリスは言う。
「そうだな……。具体的にいつ、とははっきり言えないけど、そんなに遠い日のことではないよ。だから、素敵な花を選んでおいてね?」
「うん。任せて」
そう答えるアリスは、本当に嬉しそうな笑みをたたえていた。
「では、私はこれで……と、そういえば、お母さんの容態はどうなのですか?」
「母は今、安静のために聖堂教会の方でお世話になっています。大丈夫ですよ。心配しなくても、病気はすっかりよくなっています。オリビアの花から作った秘薬のおかげだそうです」
「そうですか、よかった……」
それを聞いて安心した。
今度はぜひ、二人の母親だというその人にも会ってみたいものだ。
そして私は店先をあとにした。
大通りに突き当たるまでの細い道の後ろでは、アリスが私の背中が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
どうやらこれは、近いうちに顔を出さないと大目玉を食らうことになりそうだ。
城内に戻り、上り階段にやや苦戦を強いられていると、ここでもふいに助力があった。
「思ったより調子はいいようだな」
隣に目を向けると、そこにはトールの姿があった。
「トール……お前こそ、傷の具合は大丈夫なのか?」
「まぁ、大声で平気だとは言えんが、お前に比べればずいぶんとマシだ」
トールの顔にも、まだ何ヶ所かには包帯が見て取れたが、確かに思ったほどの重症ではないようだ。
その証拠に、すでにトールはいつもどおりの重苦しい鎧に身を包んでいるのだから。
「トール、その、傷に響かないのか? 療養中くらいは、鎧を外してもいいと思うのだが……」
「む? 何を言うか。騎士たる者、常に戦いの中に身を置く覚悟で臨むべきだ。この程度の傷で鎧を脱ぎ捨てるなど、それこそ俺の騎士道に反する……」
言いかけたトールの肩に、私は軽く手を置いた。
「…………っ!」
と、それだけでトールの表情が明らかな苦痛の色に変わっていく。
それを無理矢理に、やせ我慢でどうにかしようとしているのが目に見えている。
「こ、これしきのこと、で……」
「……トール、一ついいことを教えてやろう」
「……な、何だ?」
私は小さく溜め息を一つついて、言葉を続けた。
「日常生活さえやせ我慢なしにできないようでは、いざというとき実戦の中で命を落とすことになるぞ?」
そして今度は二回ほど、同じ肩を軽く叩く。
「……いっ!」
さすがにやりすぎただろうか。
そうは思いながらも、反省はせずに階段を一段上がる。
「お前はもう少し、気楽に構えるべきだ。少なくとも、今はそのときだとは思うぞ」
「……う、む。考えておくことにしよう……」
痛みを堪えながら、結局私もトールの肩を借りて上階へと続く階段を上がっていった。
私室に戻った頃には、ちょうど窓の外に広がる空の向こう側が、ほんのりと赤く染まり始めていた頃だった。
思った以上に時間は過ぎていたらしい。
「ふぅ……」
ベッドの横に松葉杖を立てかけ、私はベッドに腰掛けた。
体はまだ痛むが、一時に比べればずいぶんと楽になったほうだろう。
聞いた話によると、どうやら私やトール、アクエリアスの傷の治癒にもオリビアの花から製薬した飛躍が使われたらしい。
恐らく、普通に治療や治癒を施しただけではこれほどの短時間に回復することはなかっただろう。
それどころか、一歩間違えれば命を落としかねなかったに違いないだろう。
トールやアクエリアスはまだしも、私は間違いなく死んでいたに違いない。
自分でもしっかりと覚えている。
フェンリルから受けた打撃の裂傷及び、その際に生じた傷口からの出血。
骨折の何ヶ所かは自分でも覚悟していたが、運がよかったのか、秘薬とやらのおかげだろうか、幸いにしてそれは免れたようだ。
とはいっても、やはり体の内側の部分は相当ボロボロになっているようだ。
血管はあちこち千切れかけになっているだろうし、骨にもヒビくらいは入っているかもしれない。
さらに付け加えれば、そんなズタボロの状態だったにも関わらず、私はあの時力を消耗しすぎてしまった。
それが傷の深さに追い討ちをしたと言ってもいい。
もともとあの力の解放は、五体満足の状態でこそ使いこなせるものであって、ただでさえ肉体的及び精神的に余裕のないあの状況で力を開放したことは、まさしく自殺行為に他ならなかった。
しかしそれでも、あの時の私はそうすることしかできなかった。
無我夢中、そういえば聞こえはいいのかもしれない。
けど、結局は自分の命というものを軽んじて見ていたことに変わりはなく、それはやはり愚行といえば愚行なのだろう。
しかしまぁ、それでも。
「……終わりよければ全てよし、か……そういう簡単な言葉でくくれるものではないのだがな……」
結果として、誰一人として犠牲者を出さずに済んだことは奇跡的と言えるだろう。
編成した部隊の兵達も、誰一人欠けることなく無事に生還できたという報告も受けている。
結局、当初の目的であった行方不明者の発見に繋がる手がかりなどは何一つ入手できなかったが、事態が事態だったからやむをえないだろう。
この報告に関して、姫は我々の生還に安堵の息をつくと共に、別の方向から捜索を続けるための手はずを整えているそうだ。
本来ならば私達もその話し合いに加わるべきなのだが、今はまず体を癒すことを先決にするようにと、これも姫からの命令だった。
まぁ、クレイオがついているから大丈夫だろう。
ベッドに仰向けに倒れる。
体がわずかに痛んだが、さほどは気にもならない。
ふいに、睡魔が襲ってきた。
疲れるほど長い距離を歩いたわけでもないというのに……。
もしかしたら、ここ最近の張り詰めた空気から一時的に開放されたことで、今まで見えていなかった疲労がここぞとばかりに押し寄せているのかもしれない。
「無理もない、か……」
呟き、見上げたのは白い天井。
少し視線を横に逸らせば、先ほどよりわずかに赤い空が迫っていた。
夕暮れは近い。
もう一眠りするのもいいかもしれない。
こんなにも気が休まるのは、本当に久しぶりだ。
戦争が終わり、それでも戦争の爪痕は今でも世界の各地に残っている。
三年という月日では、全てを元通りにすることはできなかった。
おかしな話だ。
戦争に費やした時間はほんの数ヶ月だというのに、その何倍もの時間を費やしても全てが元通りにはならないなんて。
破壊は容易く、再生は至難。
積み上げた石は、そよ風で崩れ去る。
世界は何とも脆い構造をしているのだろう。
人間だってそれは同じことだ。
ナイフを手にし、それを少しひねるだけで誰かの命をあっさりと奪うことができる。
あの戦争はそれを、ただ大きな規模にしただけ。
言ってしまえば戦争とは、国同士の喧嘩なのだから。
ただ、その被害はあまりにも膨大で。
何一つ失わずに済む人なんて、きっといないのだろう。
……やはり、おかしな話だ。
失うことが怖くて力を求め、騎士になったというのに。
そうして得た力は、確実に誰かの何かを奪うために振るわれた。
矛盾だらけ。
どこから道を踏み外していたのだろうか?
踏み外したその足は修正することができるのだろうか?
幾度となく繰り返し続けた問い。
今でも、答えは見つからない。
だけど、それでも私は……。
――今だけは、このまどろみのような平和の中に体を埋めていたい。
睡魔が後押しする。
まぶたが落ち、目を閉じた。
暗転する世界。
視界の先は暗黒。
それでも、一人の夜よりは怖くはない。
近いうち、この殺風景な部屋に花を飾ろう。
あの子が選んでくれる、きれいな花を……。