Episode62:陽の下を歩いて
長く短い夜が明けた。
すでに太陽は真上にまで登り、起き抜けの体にさえ更なる眠気を与えるようなうららかな日差しが降り注いでいた。
「……っ」
一夜明けたばかりでは、さすがに体のあちこちに痛みはまだ残ったままだった。
それでも夜中に比べればずいぶんとマシになたことだろう。
現にこうして、私はすでに自分の足で立って歩くことができるようになっているのだから。
もっとも、それも支えに松葉杖があるおかげなのだが。
「……いい天気だな」
城内の長い廊下をゆっくりと歩きながら、私は城下の街並みと青い空を交互に見た。
まるで全てが一夜限りの悪夢だった。
と、そう思えるくらいに長くて短い一日が終わり、何事もなく迎えた新しい今日という日は、確かな何かを感じさせてくれる。
カツ、カツ。
松葉杖が床石を叩く音が何度も響く。
まぁ、真昼のこの時間だから誰の迷惑にもなることはないだろう。
と、そんなことを思いながら廊下を歩いていると、階段手前に差し掛かったところで、ちょうどアクエリアスが顔を覗かせた。
「おや、もう大丈夫なのですか?」
開口一番、アクエリアスは少し驚いたような口調でそう言った。
「ああ、何とかな。もっとも、歩くことで精一杯だよ」
「ハハハ、無理もないでしょう。そうは言っても、私も実際似たり寄ったりなのですけどね」
どこかおどけて笑うアクエリアスだったが、なるほど。
確かに彼の体のあちこちにも、まだ真新しいと思われる包帯やガーゼの姿が見て取れる。
「まぁ、何はともあれ、お互い無事に生還できてよかったです」
「ああ、全くだ。それにしても、よく無事でいられたものだ」
「それもお互い様でしょう? フェンリルと一騎打ちをして生還を果たすなんて、それこそ奇跡と呼ばずにどう呼びますか?」
「……それも、そうだな」
ふと思い返す。
たった一日前の出来事だというのに、それはもう遠い昔の……昔日の出来事のように思えて仕方がなかった。
だがそれは、決して夢なんかじゃない。
紛れもなく、間違いもなく、現実として私自身がこの目で見て、この手で剣を振るい、この体で傷を受けたことなのだ。
実感はあまりない。
が、この体のあちこちに走る痛みが、嫌でもそれを現実だと言い聞かせてくれる。
……ああ、そうか。
あれは、夢でも幻でもなかったのか。
体はこんなにも間違えようのない痛みを伝えてくれるのに、気持ちだけがどこか浮ついたままだった。
「……どうかしましたか?」
「……ん? ああ、いや、どうというわけではないんだが……」
曖昧に返事をして、もう一度空を見上げる。
日差しが少し貧しい。
長い夜の中に居たせいだろう。
「……少し、街を歩いてくるよ」
「そうですか。それもいいでしょう。気分転換も必要でしょうからね。特に、昨日みたいな日の翌日には、ね」
そう答えると、アクエリアスは小さく微笑んだ。
「では、また後でな」
私はアクエリアスにそれだけ告げて、松葉杖を突きながら階段の手すりを握り……。
そこでふいに、手すりの反対側から差し伸べられた手に気付く。
言うまでもなく、それはアクエリアスのものだ。
突然のことに私が呆けていると、また一つ、小さく微笑んでアクエリアスは言った。
「その体では、階段を下るのも一苦労でしょう? 肩を貸しますよ」
城門から街へと続く、アーチの架かった橋を渡る。
途中、警備中の兵の何人かに声をかけられた。
ケガは大丈夫ですかとか、ご苦労様ですとか、そんな他愛のない会話を済ませ、私は真昼の街並みの真ん中に立つ。
日中というだけあって、街の至るところが活気付いていた。
これが夕方から夜になれば、また別の賑わいを見せることになる。
今の時間は比較的に見て、子供や親子連れの姿も多く見て取れる。
夜に近づくに連れて、この足並みが大人びたものに近づいていくことだろう。
久しぶりに身軽な普段着に身を包んでいる私は、特に当てもなくブラブラと道の上を歩いた。
商店が軒を連ねている、中でも特に人通りの多い道は、当然のように大勢の人でごった返しになっていた。
まともに前に歩くことさえもやや困難に感じながらも、鈍痛の残る体を引きずって私は歩いた。
多くの人々の声が交差する。
日々の喧騒とでも言うのだろうか。
決して珍しいはずのものではないのに、ずいぶんと久しぶりな気がした。
そういえば、こうして街の中を歩き回るのも久しぶりかもしれない。
以前は時間さえあれば足を伸ばし、武器などを扱っている店にも顔を出していたのだが……。
「……いつから、今のようになってしまったのだろうな」
思わず私はそう口に出していた。
幸い、その独り言は賑やか過ぎる喧騒の中にかき消され、誰の耳に届くこともなかった。
そうして気がつくと、私は人々の行き交う道の真ん中で立ち尽くしていた。
さすがにこのままでは通行の邪魔以外の何物にもなりえないので、道を外れて脇へとそれた。
と、ちょうどそのとき、視界の端にその看板が入った。
文字は何も書かれていないが、その図柄でその店がパン屋だということはすぐに分かった。
そういえば、何だかんだで昨日の夜中に目を覚ましてから……いや、正確にはもっと前からだろうか。
私は何も食事をしていないことに気付いた。
今更ながらに急な空腹感を覚え、そこにちょうどよく焼き立ての仄かに甘いパンの香りが漂ってしまえば、さすがに私の足も自然とそちらの方向に向かわざるを得ないだろう。
まるでお待ちしてましたと言わんばかりに、店の前に小さなテーブルと椅子がいくつか並べられ、お召し上がりくださいの感じまであればなおさらだ。
念のため小銭を少々持ち合わせていてよかった。
私は迷うことなく、休憩も兼ねてそのパン屋の軒先へと足を向けた。
「……おいしい」
またもや私は無意識のうちに呟いていた。
と、どうやら今度はその声が店の主人に聞こえてしまったようで、ふと目が合った私に対し、恰幅のいい店の旦那は気分よさそうに微笑んだ。
私は少しの気恥ずかしさを覚えながらも、軽く会釈して笑みを返しておく。
そうしてまた、手の中の焼き立てのパンを一口頬張る。
サクッという歯応えに、焼き立てであることの証明でもあるキツネ色の表面、そして味付けはしてないはずなのに微かにある甘味。
この感覚もまた、ずいぶんと久しぶりに味わうもののようだった。
いや、実際久しぶりなのだろう。
どのくらい久しぶりなのかは詳しく思い出せはしないが、とにかく久しぶりだ。
空腹も後押しし、私はものの数分でパンを胃の中へと押し込み、今は一緒に注文した赤ブドウの果肉が入った飲み物を口にしていた。
嫌にならない上品な甘さと、その中にあるわずかな渋みと酸味がよく、のど越しも後味もさっぱりとしていた。
およそ丸一日振りの食事を簡単に済ませ、私は店の前の休憩場所をあとにする。
去り際に、店の旦那がこちらを見て小さく頭を下げた。
また来てくださいという、そんな感じの意思表示だろう。
私もそれに合わせて、同じように軽く頭を下げておく。
再び雑踏の中に戻ると、今度こそ本当に当てがなくなった。
いや、もともと目的はあったのだが、その前に少し町の様子を見て回るつもりだったのだ。
だったのだが、どうやら空腹が満たされたことによって、私は満足してしまったようだ。
人も多いし、何よりこの体では真っ直ぐ歩くこともまだ難しい。
少し早いが、そろそろ目的の場所を探すことにしよう。
店伝いに話を聞いていけば、すぐに見つかるだろう。
そうして歩き出した矢先のことだった。
「きゃっ!」
「わ……」
肩の辺りに軽い衝撃。
誰かとぶつかったのだと、そう理解するのに時間はかからなかった。
「あ、す、すいません! 急いでいたもので……」
「いえ、大丈夫ですから……」
言いかけて、ぶつかったその女性に目を向ける。
すると、彼女はなにやら目を丸くして驚いていた。
「あ……その、お体の方は大丈夫ですか?」
ああ、なるほど、そういうことか。
まぁ、確かに多少は痛みも走ったが……。
「お気になさらず。大したものではないですから……」
とはいえ、さすがにまだ包帯の取れない体であることも確かか。
ぶつかった相手が怪我人だったら、多少は慌てても仕方ないだろう。
としかし、どうやらこの場合に限って、女性が驚く要素はケガ以外にもう一つあったようだ。
「あ、服が……」
「……服?」
言われて私は服を見てみると、ちょうど私の服の胸の真ん中辺りに赤い染みのようなものが付いていた。
一方、女性はその胸に両手一杯の花束を抱えている。
何という名前の花なのかは分からないが、その花の花弁と花粉も同様に赤かった。
これは、もしかしなくてもそうだろう。
「す、すいません! 私ったら、ホント何してるんだか……!」
よりいっそう慌て方に拍車をかけて、女性は半ば取り乱した。
「ああ、いいですよこのくらい。洗えばすぐに落ちるでしょうし……」
とりあえず落ち着いてもらおう。
さすがに人通りの多いこの道の上では、こうした些細なやり取りも通行人の目に止まる。
「いえ、そういうわけにはいきません! すぐに落としますから、すいませんけど一緒に来てください!」
言うや否や、私の返答を待たずして女性は私の手を引き、強引にその方向へと歩き出していた。
松葉杖必須な今の私としては、こうして無理矢理手を引かれるほうが大変なのだが……。
「あの、ちょっと……」
女性は聞いていないようだった。
「まぁ、いいか……」
時間はまだあるし、用が済んだらこの人に道を尋ねてみるとしよう。
そうして私が連れてこられたのは、街の大通りから少し外れた横道にある花屋だった。
そしてこの場所まで私を引っ張ってきた女性は、染みの付いた私の上着を持って店の中へと入っていってしまった。
どちらかというとこじんまりとした感じの花屋の中に、私だけが取り残されている。
周囲を見渡せば、当たり前だが花屋なので、大小様々な花が植木鉢やら束にされたりして並んでいる。
わずかに甘い花の香りが流れ、どこか心地よかった。
ほとんどが見たこともない、名前も知らないような花ばかりで、待っている間私は、ぐるりと店の中を歩き回っていた。
赤、白、黄色、紫。
様々な色の花が咲き、見た目にも色鮮やかに並んでいる。
思えば、こうして花を眺めるということは初めてかもしれない。
ずっと昔、それこそ幼すぎた頃の遠い昔には似たような記憶もあったのかもしれないが、今では思い出すことはできない。
忘れてしまったのか、覚えていたくないだけなのか。
どちらにせよ、あまり縁のない話だとは思う。
そんな風にぼんやりと店の中を歩き回っていると、今度は腰の辺りに何かがぶつかる軽い衝撃を感じた。
植木鉢を乗せてある台の角にでもぶつかったのかと思ったが、それは違ったようだ。
「きゃ……」
そもそも台は喋ったりしないだろう。
そしてそれがまた誰かにぶつかったのだということに気付き、私は足元を見下ろした。
するとそこには、膝を折って植木鉢を並べている小さな女の子の後姿があった。
「ああ、すまない。大丈夫かい?」
私はわずかに腰を折り、前屈みにその少女に聞いた。
「あ、はい。大丈夫です」
と、その少女の声が、どこかで……聞いたような、気がして……。
我が目を疑う間もなく、少女は振り返った。
目が合い、一瞬だけお互いに沈黙した。
お互いがお互いを知っていた。
いや、知らないはずなどない。
なぜならその少女は、一日前の悪い夢のようなその時間を、共に過ごした小さな姫だったのだから。
「……アリ、ス……?」
「……騎士の……お姉、ちゃん……?」
片言で言い合いながら、再び少しだけ時間が止まる。
優しい香りが流れる、小さな花屋の中で……。