Episode61:帰還の夜
「…………」
目覚めると、そこは真っ暗な闇の中だった。
最初、それも当然だと私は思った。
天国や地獄、冥界などというものを根強く信仰しているわけではないが、一番最近の記憶の糸を手繰り寄せれば、私の行き着く場所はそのくらいしか候補がなかったからだ。
死闘……と呼ぶには、あまりにも一方的だったフェンリルとの戦いの後、慢心創痍の体で渾身の一撃を放ち、文字通り私は身も心もボロボロの状態になった。
そしてそのまま意識を失った私が、例え死後の世界などというあるかどうかも分からないそんな場所にいたとしても、決して不思議なことではないだろう。
だが、どうやらそれは私の勘違いだったようだ。
「…………ここ、は……」
底知れぬ闇ではなく、限りある闇の中で少しずつ目が慣れてきた。
真っ暗な部屋の中に、ロウソクの揺らめく明かりだけがわずかに灯っていた。
ゆっくりと顔を横に向けてみると、締め切られたガラス戸の向こう側には、深い夜の色に染まった一面の夜空が広がっていた。
瞬く星は数えるほどで、代わりに美しい満月だけが、地上を淡い光で照らし出している。
ガラス越しに差し込む微弱な月明かりが、細い糸のように室内を横切っていた。
「……っ、うあっ……!」
体を起こそうとして、私は全身に走る激痛に思わず声を漏らしてしまった。
体中のあちこちが痛みを覚えており、指先を少し動かすだけでも全身が引き裂かれそうなほどの激痛が走る。
ベッドの沈んだこの体は、どうがんばっても上半身すら起こせそうにはなかった。
「……っ、ダメだ。まるで力が入らない……」
起きることを諦め、仕方なく私は沈む体を大人しくベッドに預けることにする。
起きたばかりだからだろうか、まだまどろみのような眠気が後を引いており、静かに目を閉じればそれだけで再び寝入ってしまうことができそうだ。
しかし私は目を閉じず、夜の静寂の中で静かに耳を傾けた。
虫の鳴き声も、鳥のさえずりも、人々の喧騒も聞こえない。
こんな夜中だ、無理もないだろう。
静謐さを感じさせる夜の静穏は、今の私にとってはどうしてか心地よく感じてしまうものだった。
それにしても……。
「……やはり、ここは確かに……」
改めて暗がりの中、見慣れた部屋の中をもう一度見回した。
どこをどう見ても、私が今こうして寝かされているこの部屋は、王都の城内にある自室だった。
だが、私はどういった経緯で自分の体がこうして寝かされているのか、その経過を全く知らなかった。
あのとき、行く手をさえぎる光の壁に向けて最後の力を振り絞る思いで渾身の一撃を叩きつけ、そこからはもう何も覚えいない。
体が崩れ、だらしなく地面に膝を付いたのは覚えている。
意識を失うその瞬間、最後に見えたのは、ガラガラと音を立てて崩れ落ちるあの光の障壁と、その向こうにあった小さな少女の人影だけだった……。
「……そうだ、アリスは……!」
思い出し、勢いよく起き上がる。
が……。
「…………っ!」
全身を引き裂く痛みが数分程度で治るわけもなく、私はそれでもどうにか勢いだけで起き上がった上半身を自分で抱きかかえるようにして、その痛みに耐えていた。
「……っ、こんなところで寝ている場合ではない。アリスはどうなった? それに、オリビアの花は見つかったのか?」
自問を繰り返し、答えがないことに気付いた私は、痛み以外の感覚のない体を無理矢理に動かして、ベッドから立ち上がる。
だが、そこまでだった。
立ち上がるどころか、二本の足を膝から曲げることさえかなわない。
動くだけで筋肉は悲鳴をあげ、骨が軋むようだった。
体中の血管が今にも引き千切れてしまうようで、私はやむなくベッドの中に体を戻す。
「くそっ、立って歩くことさえもできないのか……」
私とて、今の自分の体がどれだけ重症なのかくらいは分かっているつもりだ。
しかし、だからといってこのままではいてもたってもいられないのだ。
せめて、アリスの安否だけでも確認したい。
ベッドからドアまではほんの数メートルの距離しかないというのに、今ではその距離が絶望的なまでに遠く感じる。
と、そんな風に途方に暮れていると、わずかに廊下から足音が聞こえてきた。
コツコツと床石を叩く足音が、少しずつ近づいてくる。
案の定、足音は私の部屋の前で止まり、それから間もなくして控え目なノックの音が扉を叩いた。
「入りますよ、シルフィア?」
一声あって、扉が静かに押し開けられる。
ギィという音が、静かすぎる夜の闇を切り裂くように響いた。
そして部屋の中を覗くなり、声の主であるクレイオはやや驚いたように目を丸くした。
「シルフィア、目が覚めていましたか」
「……ああ。とはいっても、つい今さっき起きたばかりだがな」
私の返答を受け取ると、クレイオは静かに扉を閉め、ベッドの横にやってくる。
「気分はどうですか? 全身痛みだらけでそれどころではないとは思いますが……」
「全くその通りだ。情けない、立ち上がって歩くこともできないんだ」
私は自身を嘲るような乾いた声で笑った。
「無理もないでしょう。あなたの負った傷は、並大抵のものではない。ケガのレベルなどとうに通り越した、まさしく生死の境を彷徨うほどの重症でしたから」
「そうだろうな。痛みを覚えている私が、誰よりも実感しているさ」
「……体の表面の傷などは、細部を残して大方塞がったそうです。聖堂教会の方々ががんばってくれたおかげです。ですが、彼女達の癒しの力を以ってしても、体の内部の損傷までは完全に治療することができませんでした」
言われて見てみると、確かに体のあちこちに包帯やガーゼが巻かれたり張られたりはしているが、目に見える傷痕などはほとんど残っていなかった。
だがその反面、体の内部のあちこちから痛みが溢れ出ているのも確かだ。
先ほどもそうだったように、無理に体を動かせば、筋肉や血管が簡単に引き千切れてしまうような状態なのだろう
「どちらにしても、数日間は絶対安静の必要があるそうです。とはいっても、その体では動くこともままならないでしょうけど」
「……全くだ。こんな傷を負うのは、あの日以来だな……」
「あの日? ああ、そうでしたね。確かあれは、戦争最後の……」
言いかけて、クレイオは続く言葉を無理矢理に呑み込んだ。
「……失礼。あまり口に出すことではないですね」
「……すまない」
どちらからともなく気まずくなってしまい、その後わずかだけ沈黙の時間が流れた。
蒼く、そして暗い闇がそっと見守る中、心地よさを感じる微かな風が頬を撫でた。
「クレイオ、聞きたいことがある」
「何ですか?」
「私は一体、どうして助かったのだ?」
「……覚えて、いないのですか?」
「ああ。全く覚えてないんだ。狼王の住処であるあの森の深奥で、意識を失ってからのことは、何一つ……」
「……私は現地に赴いたわけではありませんから、一部始終しか分かりませんが、よろしいですか?」
「構わない。教えてくれ」
「……今日の夕暮れ近く、私は兵の報告を聞きつけて正門前に向かいました。そこに待っていたのは、早朝から部隊を編成して狼王の住処へと向かっていた兵達でした。ほとんどの兵は軽い傷程度のものでしたが、その中でもひどかったのが貴方を含めた隊長達三人でした。得にシルフィア、貴方はその中でもずば抜けて危険な状態でした。一目見たときは、死んでしまっているのではないかと我が目を疑ってしまったほどです」
「…………」
無理もないだろうと、私は胸の中で反芻した。
狼王によって打ち付けられ、切り裂かれた肉体は、もはやボロボロだった。
鋭く空を裂く爪痕は、鋼の鎧さえも易々と引き裂いていたのだ。
我ながら、よくあれだけの打撃を受けて生きていたものだと思う。
「……それで、トールとアクエリアスの二人は……」
「彼らも無事です。それなりの深手は負っていましたが、貴方に比べればずいぶんとマシなものです。もう立ち歩くくらいのことはできていましたよ」
「……そうか、よかった……。クレイオ、それともう一つ確認したい。あの、少女は……」
「アリスという少女のことですか? それも心配要りません。あちこちにかすり傷はありましたが、命に関わる大きなケガはしていませんでした。兵達が付き添い、無事に彼女の自宅まで送り届けました。花の採取も成功したようで、彼女の母親も順調に回復へ向かっているそうです」
「……そう、か……」
「……どうかしましたか? あまり嬉しそうには見えませんけど……」
「いや、そんなことはない。ただ、な……」
「……?」
クレイオから視線を外し、私は窓の外を眺めた。
相変わらず空は深い蒼色で、それとは対照的なほどに金色の満月が輝いていた。
アリスも、その母親も、この月明かりの下で今は何もかもを忘れてぐっすりと眠っているのだろうか?
……いや、よそう。
とにもかくにも、アリスもその母親も無事だった。
今はそのことを喜ぼう。
悔いることはいつでもできる。
いつまでも終わった過去に縛られていては、見える先も霞んでしまうだろう。
「……少し、疲れたな」
「……もう一眠りするといいでしょう。なんだかんだで、貴方が一番の満身創痍だということは明白だ」
「ああ、そうさせてもらうよ……」
「では、私もそろそろおいとまします。ゆっくり休んでください」
「世話をかけたな、クレイオ」
「何を言ってるんですか、今更改まって」
小さく笑い返しながら、クレイオは扉を引き開けた。
「おやすみなさい、シルフィア」
「ああ、おやすみ」
扉が閉じる。
クレイオの足音が遠ざかるのを聞きながら、私は再び体をベッドの中へと委ねた。
自然とまぶたが落ちる。
睡魔はすぐにやってきた。
明日になったら、花を買いに行こう。
少女のいる花屋に……。