Epsiode60:女神の意思
「これは、何が……」
目の前で起こった事実に、女性は思わずそう呟く。
あり得ない。
あり得てはいけないことが起こっていた。
空間と空間との間を完全に隔絶しているはずの、あの光の障壁が、音を立てて崩れ去っている。
力の領域を超えた、意思によるその壁を、破壊された。
それはいかなる強力な力であろうとも、消して人道的な力では破ることのできないとされたものだ。
神が唯一、地上に残した楽園と呼ばれる聖域への進入を、何人にも許さぬが故に作られた絶対の障壁。
だが、しかし。
こともあろうか、それは今こうして、目の前でガラガラと音を立てて崩れ去っているではないか。
そしてさらに信じられないことに、その崩れた壁の向こうには、たった一人の騎士が……すなわち、人間が立ち尽くしていたのだ。
その手に一本の剣を強く強く握り締め、まさしく渾身の力を込めて一撃を見舞った直後という感じだった。
遠目から見ても、その騎士の体はすでにボロボロだった。
足元に広がる黒ずんだ染みは、騎士の体から流れ出すおびただしいほどの量の血液だろう。
むせ返るような鉄の匂いが、女性の鼻腔にもわずかに届いた。
「…………」
あまりの出来事に事態の把握ができない。
まずは落ち着け、現状を把握しろ。
そう自分に言い聞かせ、女性が徐々に冷静さを取り戻していく、そんな最中。
グラリと、壁の向こうに立ち尽くしていた騎士の体が揺らめいた。
直後、ドサリと音を立て、そのボロボロの体が地面に転がる。
カランと音を立て、手の中の剣が零れ落ちる。
だらしなく四肢を放り出し、そして騎士は微動だにすら動かなかった。
ただ、倒れたその瞬間、微かに揺れた唇が何か言葉を紡いでいたような、そんな気がした。
再び女性は意識を奪われる。
横たわり、動くことのなくなった騎士の体。
何かに引き付けられるように、女性は一歩踏み出す。
しがみついて泣いたままのアリスを、そっと引き剥がして。
数歩ほど歩み寄る。
足元で横たわっている騎士は、やはりもうピクリともその体を動かすことはなかった。
死んではいない。
かろうじてだが、まだ呼吸をする音がする。
が、このままでは死を迎えることは明らかに時間の問題だろう。
今もなお止まることを知らず、騎士の体からは血が流れ続けている。
今となってはその凄惨なほどに傷付いた騎士の体を見下ろしながら、女性は思う。
一体何が、彼女をこうまでして駆り立てたのだろうか、と。
理解ができない。
こんなになるまで自分を痛めつけて、その先に何があるというのだろう?
彼女はその拳で、幾度この壁を殴りつけたのだろう?
皮膚が破れ、血が滲み、骨が軋んでも、それでも拳を振るい続けた理由は何なのだろう?
……分からない。
人ではないものに、人の気持ちなどは分からないということなのだろうか。
こんなにも自分を傷付けて、痛みの中に追い詰めたその果てに、何があるというのだろう?
その先でこの騎士は、何を手に入れられたのだろう?
分からない。
分かるわけがない。
当たり前だ、女性は騎士ではないのだから。
それ以前に、人ですらない。
女性は、言うなれば神。
正確に言えば、神が生んだその分身。
この聖域の守り手にして、世界の監視者。
監視とはすなわち、見守り、そして見捨てること。
介入をしてはならない。
それは歪む世界を生み出す最初の一歩になってしまうから。
「…………」
もう一度、足元に横たわる騎士を見下ろす。
まだ、息はある。
本当にかろうじてだが、生と死の境を彷徨っているようだ。
だが、どうすることもできはしない。
生かすことも死なすことも、それを決める決定権さえも、女性は持ち合わせてはいないのだから。
できることといえば……そう、例えば。
ガラにもないと知りながら、神に祈ることくらいだろうか……。
「……お姉ちゃん……?」
と、か細い声が聞こえる。
女性がその声に背後を振り返ると、そこには泣きはらした顔のままのアリスが立ち尽くし、ジッと騎士の姿を見ていた。
「うそ……どう、して? どうして、お姉ちゃんが……?」
繋がらない言葉を呟きながら、おぼつかない足取りで前へと進む。
一歩一歩、横たわる騎士の元へ。
「……お姉ちゃん? ねぇ、お姉ちゃんってば……」
その小さな手で、騎士の鎧に触れ、軽く揺する。
しかし、沈んだ騎士の体はわずかに揺れるだけで、答えはない。
ゆさゆさと、体を揺する。
動かない。
微動だに、しない。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……?」
呼びかける。
答えがないと分かっていながらも、呼びかけずにはいられない。
一度は止まったはずの涙が、再び堰を切ったように溢れ出す。
「ねぇ、返事してよ、お姉ちゃん……お姉ちゃん、お姉ちゃん……お願い、だか、ら……」
言葉が続かなくなる。
アリスの手は、すでに真っ赤な血の色で染まりかえっていた。
皮肉にも、その血が妙に暖かい。
まるで晴れた春の日、木漏れ日の中で佇んでいるかのような温もり。
思わず笑顔がほころびそうになるはずのその温かさが、今はこんなにも冷たい。
指先で触れるその体は、体温をずいぶんと失っていた。
閉じたままの騎士の瞳。
だらしなく投げ出され、そして血の色に染まっている両手。
身に着けた鎧はズタズタに引き裂かれ、その奥にある衣服もわずかに血の色に染まっていた。
「お姉、ちゃ……」
声にならない悲鳴が止まる。
どれだけ体を揺すったところで、騎士は目覚めることはなかった。
まるで最後の最後に、許してくれとそう告げたような、そんな曖昧な表情だけを浮かべて、騎士は間もなく二度と覚めることのない永遠の眠りに落ちようとしている。
「……イヤだ、イヤだよ、こんなの……」
アリスは悲痛な声で叫ぶ。
「どうして? どうしてお母さんだけじゃなく、お姉ちゃんまで傷付いちゃうの? こんなの……こんなのおかしいよ……」
叫び、騎士の胸に顔を埋めた。
すでに温もりが失われつつあるその場所で、暖かい涙を流し続けた。
そんな光景を目の当たりにして、女性はわずかに悩んでいた。
間もなく、この騎士は死を迎えるのだろう。
しかしどのような命であろうと、この世に生を受けたその瞬間から、死はいつも隣り合わせにあるものだ。
もしも運命というものが実在するのならば、全ての生命は生まれたその瞬間に死の瞬間までもが決定付けられていることになる。
例えば、ある男は四十歳を迎えた夏にガケから落ちて命を失うとか。
例えば、ある女は十六歳という若さで病に伏せ、帰らぬ人になるとか。
それらは全て、運命というレールに乗せられた逃れようのないものなのだろう。
だから仮に、この場でこの騎士が命を失うことになったとしても、それはきっとこの騎士に与えられ、定められていた運命が終わりの時を迎えたという、ただそれだけのことに過ぎないのだ。
もしかしたらその運命とやらは、神が決めたことなのかもしれない。
しかし、例え神であっても、自ら生んだ全ての命に終わりのときを刻み込むというのはどこかおかしい話だ。
神は最初、楽園を望んでいた。
そして数多の命を地上にばら撒いた結果、その世界の未来に楽園はないと知った。
だから、そこに全ての生命に終わりのときを刻み込んだとしても、それはおかしくはない。
だが、その先はどうだろう?
つまり、ばら撒かれた最初の命が育む、次の時代への新たな命のことだ。
これに関しては、神はもはや関与をしていない。
人であれ動物であれ、子孫を残すためにやがて交わる。
そでなくては、今の世界は存在すらしていないはずなのだから。
「……神よ、貴方は、どう描いたのですか?」
女性はふいに天を仰ぎ、自らを生み落とした絶対の存在に問う。
「……誰しも、始まりを選ぶことはできない。それはつまり、終わりも決められていないということではないのですか?」
返る答えはないと知ってなお、天に語る。
「私にも、始まりというものはなかった。そして何より、私には終わりさえ用意されてはいない。未来永劫、この場所でこの世界を見守り続け、そして見捨て続ける。それだけが、私がここに存在する唯一の理由……」
視線を戻す。
目の前には、一人の騎士と一人の少女。
失われつつある命。
見捨てるのか?
課せられた使命は、見守ること。
見捨てるのか?
見守るとはすなわち、見捨てること。
見捨てるのか?
今までずっとそうしてきた。
そして、きっとこれからも……。
……本当に、それでいいのか?
それは誰の声だったか。
ふいに湧き上がる、誰かの声。
わずかに女性は狼狽した。
自問自答など、そもそも初めてのことではないだろうか。
しかし、その声は続ける。
まるで、ずっと前からそう思い続けていたかのように……。
――そこに、意思はあるのか? 他でもない、自身の意思はあるのか?
「……私、は……」
神の化身。
聖域の守り手にして、世界の監視者。
世界を見守るということは。
世界を見捨てるということと同意であり。
そんなことはとうの昔に分かっていたことだ。
何人たりとも聖域への侵入を許してはいけない。
人の手に世界樹の種を渡してはならない。
人と関わりを持ってはいけない。
例外はない。
ただ、与えられた使命を、行使し続けるだけ。
それは、まるで、糸の見えないだけの、操り人形と、同じではないのか?
そこに自身の意思はなく。
あるのはただ、神の意思だけであり。
今までずっとそうしてきた。
疑問すら感じず、それが与えられた使命なのだからと。
だがそれは、本当に……。
――自身が望んで、自らの意思でそうしてきたことだったのだろうか?
「…………」
勘違いをしていたのかもしれない。
神がばら撒いた数多の命。
それとは別に、監視し守るものとして生み出されたこの命の中に、意思などというものは存在しないものなのだと、そう決め付けていただけなのかもしれない。
もはや、それは理屈ではなく。
現にこうして、意思が芽生えてしまっているのだ。
たった一つの、小さな願い。
例えそれが、この世界の行く末に破滅を招くために引き金になることだとしても。
「私は……」
もう一度、強く想う。
それは、神ではない、独立した個の存在としての、意思。
「――私は、この者達を助けます。例えそれが、この世界に対するどれほどの冒涜であったとしても、それが私の意思が選んだ答えなのだから……」
胸の前で手を交わす。
瞬間、淡く白い光が輝いた。
眩ささえ覚えるその輝きに、アリスは静かに顔を上げる。
そこには。
「大丈夫。貴方達も、貴方の母親も、私が必ず助けます」
そう言って、柔らかく微笑む名もなき女神が佇んでいた。
その目の端に、理由の分からない一滴だけの涙を浮かべて……。