Episode6:真昼の密談
一夜明けた今日、僕はまた昨夜と同じこの場所へとやってきていた。
街外れにある廃工場跡。
休日の昼間でも、この場所に見つけられる人影は一つもない。
周囲は高い塀で囲まれ、基本的に立ち入り禁止区域に指定されているこの場所。
どうして僕がそんな場所にいるかというと、それは昨夜のあの出来事に関しての手がかりを得るためのものだ。
……だった、のだが。
「……そん、な……」
正面ゲート越しに工場の敷地を覗いている僕は、そう呟かずにはいられなかった。
この目に映る景色が信じられない。
あれ、だって……どうして?
昨日は、あんなに……。
僕の目の前に広がる景色は、殺風景ではあるけど平和なものだった。
そう。
まるで一夜前に、この場所でデタラメな争いごとが起こっていたなんて思わせないくらいに。
――建物も地面も、何一つとしてあの戦いの痕跡を物語るものが見つけられなかった。
そんなバカなことがあってたまるものか。
僕は見たんだ。
昨日の夜、あの瞬間、確かにここは一つの戦場になっていた。
炎は猛るように燃え上がり、いくつもの雷の矢が地面を抉り取っていったはずだ。
けれど今、こうして僕の目の前に広がる景色は、その凄惨さをまるで感じさせない。
無機質なほどに寂れた地面が広がり、佇む倉庫跡や工事用の作業機器も何一つとして壊れた様子を見せない。
これは一体、どういうことだ?
それとも僕はやっぱり、ただ悪い夢を見ていただけなのだろうか?
「……違う。あれは絶対、夢なんかじゃない」
僕は自分の指にはめられた指輪を見て、そう呟いた。
念のため、僕は昨夜と同じように鉄柵を乗り越える前に小石を一つ放り投げてみた。
放物線を描きながら、しかし何事もなく小石は敷地の向こう側へと落下する。
どうやらあの電流トラップのようなものは、今は解除されているようだ。
安全を確認した上で、僕はまたコンクリートの塊を踏み台にして鉄柵をよじ登る。
柵を超え、無事に着地。
がらんどうなほどに広い敷地の中は、やはり寂しいくらいに殺風景だった。
昨夜のことに関して、何か手がかりの一つでもあればとやってきたはいいが、この様子だとどうやら無駄足になってしまいそうだ。
僕はざっと周囲を見回し、静かに溜め息をついた。
気温が低いせいか、吐いた息はわずかに白く濁って溶けるように消えていく。
天気も悪く、空は一面が曇天だ。
天気予報が正しいのなら、午後は小降りだけど雨が降るとのこと。
長居は無用かなと、僕はもう一度周囲を見回して再び鉄柵へと向き直り……。
「――体の具合はどうですか?」
ふとそんな声に呼び止められて、僕の足は凍りついたように止まった。
一拍の間を置いて、僕は声のした方を振り返る。
そこに。
昨夜と同じ、白いワイシャツに黒いズボンを崩すように着こなした青年がいた。
細身で長身、その長い黒髪は首の後ろで一度束ねられており、眼鏡がよく似合う理知的な顔立ちをしている。
僕と青年は互いに向き合ったまま、一言も発さずにいた。
それはというのも、僕としてはどういう反応をすればいいのか分からない。
僕は確かにこの青年の顔を覚えてはいるけど、こうして話しかけられる理由なんて心当たりがなかったからだ。
いや、それよりも何よりも。
もしも、僕の記憶に間違いがないとすれば、僕は昨夜、この青年ともう一人の少女を相手に戦っていたはずだ。
その結果がどういう形で幕引きになったのかは分からないが、少なくとも友好的な関係とは思えない。
だとしたら、この青年がこうして今ここにいるということは、僕を待ち伏せていたということなのだろうか?
しかしそうだとすると、少なくとも僕は生かされるべき存在ではないということになる。
でもそうだとしたら、昨夜のうちに僕を……殺してしまうことなんて、至極簡単なことだったはずだ。
それをわざわざ、日を改めて待ち伏せするなんて回りくどくて非効率的な手段を取るだろうか?
……だめだ。
考えれば考えるほど否定論しか浮かんでこない。
このまま一人で坩堝に飲まれているだけじゃ、根本的な解決には至れない。
かといって、警戒を緩めるわけにもいかない。
一つはっきりしていることは、仮にここで再び青年と戦うことになったとすれば、僕に勝ち目はないということだけだ。
嫌な汗が流れる。
緊張で体が強張り、必要以上の力が全身に重くのしかかっているようだ。
がしかし、青年の口から出た言葉は僕にとって意外なものだった。
「安心してください。別にあなたに危害を加えるために、私はここにいるわけではありません。私は昨夜の事後処理をしていただけです」
青年の口調は極めて冷静で、まるで敵対心や闘争心を感じさせないものだった。
毒気を抜かれるとはこのことだろうか。
やたらと警戒を抱いていた僕の心が、その落ち着いた口調に弛緩していくのが分かる。
「物分りがよくて助かります。飛鳥にも見習わせてやりたいくらいですね」
僕が警戒を解いたことが分かると、青年は小さく微笑みながらそう言った。
「さて……」
青年は一度眼鏡を押し上げる仕草を見せ、微笑を消して少しだけ真面目な表情で言った。
「あなたがなぜ昨夜に続いてこの場所にやってきたのか。大方の見当はついています」
「…………」
口を閉ざしたまま、僕は青年の言葉に聞き入った。
それは、青年の言う言葉が正しかったからだ。
僕がこの場所にやってきた、その目的は一つ。
昨日のあの光景は一体何だったのか?
そして、僕は一体どうなってしまったのか?
それらの問いに対する答え……とまではいかなくとも、手がかりくらいなら得られると思ったからだ。
まぁ、実際は青年の言う事後処理とやらが全てをなかったことにしているようではあるけれど。
「私が答えられる限りの問いには答えましょう。ですが、質疑応答をするのにこんな屋外というのはあまり好ましくありません。密談なら密談らしく、それに相応しい場所がある。分かりますね?」
ようするに、青年は僕についてこいと言っているのだ。
もちろん、危険の可能性もある。
青年の言葉のどこからどこまでが本音で、そこからどこまでが偽りなのか、僕には判断のつけようがない。
けれども。
危険を冒さずに利益を得ようなんて、それこそ甘い話だ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
危険と分かっていても、踏み入れなきゃいけない瞬間もある。
少なくとも、今はその瞬間だ。
「……案内してください。今は、僕もあなたを信じます」
「本当に、理解が早くて助かります。では、こちらへ。車で移動になりますが、構いませんね?」
答えずに、僕は頷いた。
数歩先に歩き出す青年の背中を負って、僕はその後に続いた。
車の中での会話は皆無だった。
運転席で運転する青年を横目に、僕は助手席に座りながらフロントガラス越しに流れる街の景色をぼんやりと眺めていた。
時間にすれば十五分ほどだろうか。
いくつかの曲がり角を曲がって、車はオフィス街付近にある路肩に停車した。
「着きました。降りてください」
言われて、僕はシートベルトを外してドアを開ける。
歩道に上がると、僕の正面には一つの自社ビルらしい建物が聳え立っていた。
その二階の部分に当たる窓ガラスに、こんな文字が書かれている。
『各務探偵事務所』
「……探偵事務所?」
思わず僕はそう口にしていた。
まさかとは思うけど……いや、このビルは五階建てだし、まだそうと決まったわけじゃない。
そんな様子の僕を横目に、青年も車を降りて歩道までやってくる。
「こちらです」
その一言に促され、僕は青年のあとに続く。
ビルの階段を上り、二階の扉の前で青年は立ち止まる。
わずかに後ろを振り返り、僕が付いてきていることを確認すると、招き入れるようにその扉を押し開けた。
僕の中のまさかが的中した瞬間だった。
「どうぞ。狭くて汚いところですけど」
言われるがままに、僕は扉をくぐる。
部屋の中は薄暗く、わずかに埃臭い匂いがした。
耳元でパチパチと音がしたと思ったら、部屋の明かりが付けられた。
音は電気のスイッチだったようだ。
にわかに明るくなる室内。
その中で、僕が最初に見たものは……。
「…………」
その光景に、僕は思わず体を硬直させた。
やや遅れて、僕の背後に立っていた青年の口からもハァという溜め息が漏れた。
僕の目の前にあるソファの上に、昨夜のあの少女が堂々と寝転がっていたのだ。
相当熟睡しているようで、僕達がやってきたことなどまるで気が付いていない様子だ。
そうでもなければ、見事な鼻提灯を浮かべながら寝ていられるわけがない。
「……あの、これは……」
僕は遠慮がちに青年に訊ねた。
「……見苦しい。あまりにも見苦しい」
うなるように、青年は顔を俯かせていた。
「飛鳥、何をしているんですかこんなところで。起きなさい」
飛鳥と呼ばれた少女は寝返りを打ちながらウンウンとうなるが、しかし目覚めない。
「いい加減にしてください。事務所で寝るなと、あれほど言ったでしょうに」
青年は飛鳥の体を何度もゆする。
しかし、飛鳥はうなるばかりで一向に起きる気配がない。
そう思っていたら、青年はついに強行手段に打って出た。
――寝ている少女の口と鼻を、何のためらいもなく指と手で塞いだ。
「…………」
「…………」
「…………」
三人分の沈黙が続く中、しだいに飛鳥の様子がおかしくなっていく。
息苦しさを覚え、ジタバタと手足をばたつかせ、ついには死に物狂いで暴れ始め、最終的にソファから転げ落ちて鈍い音を響かせた。
「やれやれ。やっと起きましたか」
さらりと言う青年。
一方、飛鳥はゼェゼェと息を切らせながら無我夢中で酸素を貪っている。
「な、何すんのよ氷室! 私を殺す気?」
バッチリ目が覚めたようで、飛鳥は意気込んで言い返す。
「殺しても死ぬタマじゃないでしょう、あなたは。それに、寝るなら仮眠室を使えといつも言っているはずです」
「だからって! もうちっとマトモな起こし方があるでしょう!」
「騒がないでくださいよ。寝起きの悪い人ですね。顔でも洗ってきたらどうですか?」
「誰のせいだ、誰の! 危うく三途の川を渡りきるところだったじゃない!」
「それは残念。次があったら、ぜひ渡りきってください。期待してます」
「任せろ! ……って違う! ああもう、人の話を最後まで聞け!」
「そっくりそのままお返しします。いいじゃないですか。結果として目はしっかり覚めたんですから」
……何なんだろう、この二人のやり取りは。
僕は一人その場に取り残されたように、呆然とその光景を眺めていることしかできなかった。
「どうでもいいですけど、飛鳥。そろそろ来客がいることに気付いてくれませんか?」
「話を逸らすな……って、来客? そんなのどこに……」
言われて、飛鳥が振り返る。
そして、僕とバッチリ目が合った。
「あ……」
そう一言呟いて呆然とする飛鳥に、とりあえず僕も礼儀として挨拶をしておく。
「……ど、どうも。初めまして……ってわけでもないけど……」
「あああああ!」
キーンと耳鳴りがするくらいの大声で、飛鳥は叫んだ。
思わず僕は両手で耳を塞ぎ、一歩後退する。
「アンタ! 昨日の風使い!」
「飛鳥、うるさいです」
しかし青年の言葉も虚しく、飛鳥のテンションは衰えない。
「か、風使い?」
飛鳥の言葉に、僕は疑問を覚える。
「無理ですよ、飛鳥。恐らく彼は、まだ記憶がしっかりと繋がってないはずです」
青年の言葉に飛鳥は振り返り、確かめるように聞く。
「じゃあ、昨日のあれはやっぱり……」
「ええ。『Ring』の暴走です。まぁ、幸いにも被害は最小で済みましたから、それはもういいとしましょう」
僕は二人の会話の意味が全く分からなかった。
なんだか急に迷子になってしまったような、居場所のなさを感じてしまう。
そんな僕の様子を読み取ったのか、青年が口を開く。
「ああ、すいません。一度に言っても分からないでしょうから、少しずつ説明しますね」
「……ん? ちょっと氷室、それってどういうこと?」
「何がですか?」
「説明するって、もしかしてコイツも参戦させるってこと?」
「話に進み方次第では、そうなる可能性もありますね。決めるのは彼自身ですから、私はどうこう言いませんけど」
「ちょ、ちょっと。そんなの、私一言も聞いてないわよ?」
「当たり前です。寝てたじゃないですか」
「う……」
その一言で飛鳥は黙った。
どうやら痛いところを突かれてしまったようだ。
それにしたって、僕には分からないことだらけだ。
それに、参戦するっていうのは一体どういうことなんだろう?
などと、僕が考えていると青年が言った。
「とりあえずは座ってください。多分、長くなると思いますから」
そう促されて、僕はソファに腰掛けた。
僕の隣に飛鳥が座り、正面には青年が座った。
そしてゆっくりと、僕達の密談は始まった。
まずは自己紹介ということで、お互いを名乗ることになった。
「え、と……大和。黒栖大和です。歳は十六」
「私は各務氷室。一応、この事務所の経営者ということになります」
「……新宮寺飛鳥。十五歳でーす」
十五歳と聞いて驚いた。
僕より年下だったのか……。
「さて。とりあえず、私のことは呼びやすいように呼び捨てで構いません。こちらも省かせていただきますが、いいですか?」
断る理由はなかったので、僕は頷いた。
「結構です。では、大和。まず、あなたはどこまで事態を把握していますか?」
「……事態っていうのは、その……昨日みたいな出来事のことですか?」
「何でも構いません。身の回りの変化や、見たこと気付いたこと。何かありますか?」
僕は思い出してみる。
確かに、昨日今日の間に多少の変化があった。
一番衝撃が大きかったのは、何と言っても昨夜の一件だ。
今まで空想の中でしか起こらなかったはずの出来事が、目の前に現実として広がっていたのだから。
「……なるほど。極端な話、まだ何も分かってないということですね」
氷室の言葉に僕は頷く。
だからこそ、僕は手がかりを求め、その先で氷室と出会う形になったのだ。
「そうなると、どこから話せばいいですかね……」
氷室はしばらく考える素振りを見せる。
「大和」
そして一言、僕の名前を呼んだ。
「は、はい」
「いいですか? 今から私が話すことは、どれだけ現実離れしていても全て事実です。それをまず、頭の中に叩き込んでおいてください」
「……はい」
「結構。では、まずは単刀直入にいきましょう。質疑応答は後回しです」
氷室はそこで一度言葉を区切り、静かに深呼吸する。
「結論から言うと、あなたは契約者として選ばれた存在です。契約の媒体は、あなたが指にはめているその指輪。それらは『Ring』と呼ばれる、古代遺産のアクセサリの一つです。契約者は『Ring』を通じて契約を果たした後、能力者として覚醒します。早い話が、あなたはすでに能力者として覚醒してしまっているんですよ」
それは本当に、RPGの中に出てくるような設定だった。
まさかそんな空想の中の設定に、僕が巻き込まれている?
「……そして」
氷室はやや口調を重くして、再び言葉を続けた。
「覚醒した能力者は、『Ring』の中に封印された力を自由に使いこなすことができます。それらの力は千差万別ですが、一言で言えばどの力もとてつもないものばかりです。現代科学の兵器さえも圧倒するでしょう。では、なぜそんな力を授かったのか」
僕は息を呑んだ。
話の合い間のこの空気が、僕に見えない重圧を加えてくるようだ。
「これに至っては至極簡単です。そもそも……大和、あなたは力と聞いてまず、どんなものを想像しますか?」
「え、力、ですか? そうですね……例えば、人よりも優れた知能だとか、才能だとか。そういうのですか?」
「なるほど。確かに大和の言うそれも、力としての大義名分には含まれるものですね。ですが、そんな回りくどいことなんて何一つ必要ないんですよ。そもそも力というものは、他者を圧倒するもの。それだけで強大なもの。支配をするものなのです」
「…………」
氷室の言葉に、僕はわずかに圧倒される。
言っていることは間違いないのだが、そこに何か言いようのない恐怖を覚えてしまう。
「……力の使い方を間違った事例、何か分かる?」
ふいに隣の飛鳥が聞いてきた。
不意打ちのようなその問いに、僕は答えを持ち合わせていない。
「戦争よ」
と、飛鳥は簡単に言い切った。
「その通りです」
後押しする氷室の言葉。
「いいですか、大和」
念押しされ、僕は氷室の目を真っ直ぐに見た。
「ファンタジーの世界などでは、力は誰かを守るためにあるものなどと、正義の象徴として多用されています。ですが、実際はそんなことはありません。誰かを守るということは、つまり別の誰かを傷つけるということと同意です。正義も悪もあったもんじゃありません。つまり、そういう力なんですよ。我々が持ち合わせたものは、ね……」
「……それって、つまり……」
「……あなたの思っている通りです」
一呼吸置いて、氷室は結論を述べる。
「――我々は、この契約の力を持って戦い合う、あるいは殺し合うのです。最後の一人になるまで、ね」
言われて、僕は改めて自分の両手を広げてみた。
どうやら、そう遠くない未来に、僕のこの両手も血の色で染まってしまうかもしれないらしい……。