Episode59:決壊
「……神様?」
繰り返すようにアリスは呟く。
それに頷き返す代わりに、目の前の真っ白な女性は小さく微笑んだ。
「私からも、一つ聞いてもいいですか?」
と、白い女性は優しい声で言う。
コクンと頷き、アリスは次の言葉を待つ。
「あなたはどうして、こんなところにいるの?」
「えっと……」
答える前に一瞬だけ戸惑いのようなものを感じたが、すぐにその迷いは晴れた。
「私、お花を探しにきたの。どんな病気やケガも、あっという間に直してくれるお花を」
「花? それはもしかして、オリビアの花のことかしら?」
アリスは頷く。
「そう……」
としかし、なぜか女性はもの悲しそうな表情を浮かべている。
どうしてそんな悲しい顔をするのか、アリスには全く分からなかった。
「この地もついに、人の足が踏み入る場所になってしまったのね。かつて楽園と呼ばれた、聖域であるこの場所も……」
独り言のように女性は言う。
楽園とか聖域とかの言葉を聞いても、やはりアリスにその言葉の意味は分からないままだ。
やがて一拍の間を置いて、女性は続けた。
「あなたはどうして、オリビアの花が必要なの?」
「あのね、私のお母さんが、病気なの。色んなお薬を試したけど、全然治らなくて、それで……」
まるで今にも泣き出しそうなアリスの顔を見つめながら、女性は言葉を聞いた。
「そう。それで、オリビアの花なら病気を治せると思ったのね?」
「……うん」
暗い面持ちのまま、アリスはそう呟く。
「あの、ここにお花はないんですか? 私、さっきは確かに見たんです。真っ白なお花が、いっぱい咲いてたのを」
すがるような想いでアリスは聞く。
幼いながらも、その懸命な様子は女性にもしっかり伝わっていた。
しかし、それでも女性の表情はなぜか芳しくない。
「……確かに、この場所にはオリビアの花は咲いているわ。でもね、それは決して、人の手に渡してはならないという約束があるの」
「……約束?」
「そう、約束。遠い遠い昔、この世界を生み出した神様が、動物を生み、人を生んで、光を生んだ頃の約束」
それは、過去という言葉でくくるには遠すぎるもの。
神が全ての始まりを与え終えたとき、同時に神は後悔した。
数多の命で満たされた世界には、すでに楽園と呼ばれる場所の未来は映し出されていなかった。
神は嘆き、哀れに思った。
自らが創造した世界の行く末には、一つの楽園も残る希望が残されていないことに絶望すら覚えた。
そして神は、ある一つの手段を用いた。
誰の目にも触れぬ、誰の手も届かぬ、誰の足も踏み入れられぬ小さな小さなたった一つの楽園を、一本の巨大な大樹の足元に描いた。
それが、聖域。
同じ世界に確かに在りながら、決してその存在を明かされることのない、歴史から見失われた聖なる領域。
ゆえにその聖域に名はなく、全ての色が失われた。
あるとき、その存在を知ってしまった一人の人間がいた。
しかし彼は、聖域の存在を知りながらも、ついにその場所を見つけ、踏み入ることはなかった。
そして彼は、あるはずのないその聖域に、せめてもと名を付けた。
失われた色の行き着く先、汚れを知らぬ無色の聖なる箱庭。
――ロストカラー・ガーデン、と。
「じゃあ、お花は取っちゃいけないの?」
暗い面持ちのまま、アリスは女性の目を見て問う。
「……ごめんなさい。これは、私の大切な約束なの。もしも私がこの約束を破れば、この世界は破滅への道を歩み出すことになる……」
女性の表情が曇る。
「……少しだけでいいんです。そのお花がないと、お母さんは、お母さんは……」
アリスの声に涙がくぐもる。
いつしかアリスは女性の真っ白な服にすがりより、小さな手を強く握り締めて懇願していた。
目の端にはすでに涙の珠が浮かび、堪え切れない雫がゆっくりと頬を伝っていた。
「…………」
女性は何も言い返すことができない。
胸が痛む。
しがみつくアリスの必死さは、いやというほどに伝わっていた。
救いたい。
できることなら、この少女の母親の命を救ってあげたい。
事実、オリビアの花であれば如何なる難病や大怪我であろうと、瞬く間に完治させることが可能だろう。
しかしそれは、女性が与えられた使命を、約束を破ることに繋がってしまう。
はるか昔、女性が神と交わした約束はたった一つ。
この花を、人の手に渡してはならない。
そして今日までの、それこそ気が遠くなるほどの歳月の中、女性はその約束を頑なに守り続けてきた。
時に何らかの拍子で偶然に偶然が重なり、人がこの場所を訪れることは何度かあった。
だが、それらの人全てを女性は受け入れることはなかった。
部分的な記憶を操作し、この聖域の場所を記憶の中から取り除くことで対処した。
しかしそれでも完全ではなく、部分的な記憶は残ってしまった。
現在に至るまでに、過去の書物や文献にオリビアの花のことが多少なりとも明記されているのはそのせいだろう。
ギュッと、女性の衣服の裾を掴む小さな手に力が加わった。
決心が鈍りそうになる。
誰かの悲しみに触れることは、こんなにも胸の奥が締め付けられるほどに苦しいことだったろうか。
いたたまれない思いが、女性の胸の内で渦を巻く。
だがしかし、それでも……。
例外は何一つ認められない。
女性がわずかでも優しさを見せれば、その瞬間にこの世界は破滅への道を歩き出す。
世界は神の怒りに触れることになる。
……だから、ごめんなさい。
そう、言葉には出さずに女性は呟いた。
例えそれが本音ではないのだとしても、女性の言動一つでこの世界が丸ごと滅ぶか否かが決定される。
一つの命と数多の命。
秤にかければ、どちらに傾くかなどということは、説明する必要さえ感じない。
足元ですがりつく小さな少女が、さらに小さく見える。
枯れることのない涙が、今もなお流れ続けている。
本当に、この少女は……。
ただ、自分の母親の命を救いたいという、その一心だけで。
あるかどうかも分からない、空想の中の花を探して、こんな深い森の中へやってきたのだ。
自らの命さえ失う危険を省みず、ただ、大好きな人を助けたいという、それだけの気持ちで足を動かして……。
「…………っ!」
奥歯を噛み締める。
そんな想いだけで今この場にいる少女を突き放すことさえも、神の意思に従うということなのだろうか?
神の使者である者の、することなのだろうか?
再び迷いが生まれる。
どちらが正しく、どちらが間違っているのだろう。
女性はそっと、その手を伸ばす。
すがりついて泣き続ける少女の髪に、優しく振れる。
少女の体は震えていた。
ただでさえ小さな体が、さらに一回りも二回りも小さく見えてくる。
……私、は…………。
私のしていることは、本当に正しいのだろうか……?
考えるまでもないはずだった。
一つの命と無数の命。
どちらが重いかなんて、考えるまでもない。
少なくとも、今まではそうだった。
神の意思に従うことは、同時にこの世界の存続に繋がることだった。
否、従うことが当たり前だったのだ。
私は神の意思によって生まれ、その意思を授かってこの地に降り立った。
人でも動物でもない、ただ一つの神の化身として。
そのことに迷いや疑問を抱くことはなかった。
ただ、使命を全うすることだけを考え、気の遠くなるような時間の中を、老いることも死ぬこともなく生き続けてきた。
始まりも終わりも知ることのない私は、永遠そのものだった。
もしも私が終わるとすれば、それはこの世界が終わりを迎えるときだろう。
だが、今はどうだ?
私は今初めて、迷いというものを抱いている。
なんてことはない。
世界の存続を願うなら、目の前の少女をほんの少し押しのければそれでいい。
それで世界は破滅の道を逃れられる。
楽園には程遠いが、平穏に近いものは今までどおり保たれるだろう。
そう。
それが真実。
それが真理。
それが摂理。
それだけが、唯一の理想。
……だった。
そう、その瞬間。
――まるで、そんな言葉だけで象られた壁など木っ端微塵に粉砕するほどの衝撃が、この場所と世界を隔てる光の壁を突き破った。
「……これ、は……?」
女性の目の前で、光の壁はガラガラと砕けたガラスのように崩落していく。
光の粒子が舞い、淡く光る。
そして見えた、光の霧のその向こう側に……。
――たった一人の騎士が、立っていた。