Episode58:白の女神
光の柱を見上げる。
天を貫くほどに聳え立つそれは、もはや人智をはるかに凌駕した神の遺産だ。
その、光の柱の中。
静かに横たわる、小さな小さな人影一つ。
「アリスッ!」
叫び、私は一度止めた足を再び走らせた。
筋肉が、骨が、神経が悲鳴をあげ、今にも引き裂けそうになる。
だが、それがどうした。
痛みなど、気力でいくらでも振り払うことができる。
そんなことよりも今は、一秒でも早くアリスのもとへと急がなくては……。
「な……」
しかし、それはいとも簡単に阻まれた。
天に連なる光の柱。
それはまるで、外敵の進入を拒むかのように、見えない壁を作り出して内部と外部を完全に遮断していた。
そしてどういうわけか、弾かれる私の体とは別に、横たわったまま動かないアリスの体は光の柱の内部にあった。
「……っ、くそっ!」
理由を詮索する暇はない。
この壁を破壊してでも中へ進まなければ。
が、それは実に虚しい願いだった。
どれだけ叩きつけても、殴りつけても、見えない壁はヒビはおろか軋む音さえ響かせない。
そればかりか、打ち付けた衝撃はそのまま私の体へと反射するかのように跳ね返ってきていた。
殴りつけた両手の拳がジクジクと痛み、思わず私は顔をしかめた。
「開けろ! ここを開けろ!」
無駄だと知っていても叫ばずにはいられない。
すでに痛み以外の感覚は残っていない拳を振り上げて、何度も何度も叩きつける。
骨が砕けるかと思うほどに、痛みを忘れて拳を振るった。
皮膚が切れ、血が滲んだ。
痛みはある。
痛覚は未だにしっかりと残っている。
だが、他に何ができる?
「……くそっ、くそ……っ!」
どうしようもないほどの無力感が押し寄せてくる。
目の前にいるのに。
助けるべき者が、こうして目の前で横たわっているというのに。
その近すぎる距離が、どれだけ手を伸ばしても届かない。
「く、そ……っ……」
打ち付ける拳から力が抜けていく。
目の前に立ちはだかる壁には、真っ赤な私の血が飛び散っていた。
私はそのままその場に崩れ落ち、だらしなく両膝を付いた。
全身から力が抜けていくようだった。
改めてみれば、全身至るところに裂傷の跡が残っている。
出血の量も決して少ないわけではない。
加えてこの消耗しきった体では、体力は著しく低下している。
今頃になって体温が失われていくことに気付いた。
わずかに寒気を覚え、その反面、自分の体から流れていく血の暖かさに心地よさを覚えてしまう。
目の前が霞む。
景色がグラリと揺れ、うなだれるように頭が下がった。
呼吸を繰り返すことでさえ、すでに難しくなっていた。
「……っ、はぁ、は……あっ……」
剣を抜き、地面に刺す。
それを支えにして、どうにか私は立ち上がる。
が、それは文字通り、ただ立ち上がっただけだ。
体が小刻みに震え、まるで言うことを聞いてくれない。
寒さだけが増していくようで、足元には真っ赤な血の水溜りがその輪を少しずつ広げていた。
この感覚は、決して初めて覚えたものではない。
今までも幾度となく、同じ感覚を味わい、そして乗り越えてきた。
これは間違いなく……死の感覚。
徐々に近づきつつある、絶望の色が鮮明になっていく。
目の前には白い光。
足元には赤い血溜まり。
支える刃は銀色。
何一つ美しくない世界の中で、私の命は確実に終わりの時を迎えようとしている。
もう体が言うことを聞いてはくれない。
この体も長くは持たないだろうと、直感的に理解した。
しかし、だとしたらなおのこと、最後に成し遂げなくてはならない。
せめて、目の前で倒れている一人の少女を救ってあげたい。
その想いだけが、かろうじて私の意識を取り留めていた。
「……う、くっ……」
柄を握り、地面に刺した剣を引き抜く。
それだけの動作にどれほどの時間をかけただろうか。
常日頃から振るっているはずの剣が、まるで得体の知れない重さを持っているように感じる。
指先が痺れてきた。
感覚はすでになくなりつつある。
痛みに痛みが上書きされて、傷に傷が上塗りされる。
だからきっとこれが、正真正銘の最後になるだろう。
剣を構え、静かに目を閉じた。
その閉じた瞳を、私はもう一度開かなくてはいけない。
暗黒に包まれる。
何もない世界が目の前に広がった。
その永遠まで続く闇の中に、吸い込まれそうになる。
しかし、それでも。
重く閉じたその瞳を、もう一度だけ強く開いて。
目の前の壁を打ち砕けるだけの最強の一撃を、今、ここで。
風が生まれる。
足元から、指先から、背中から、そして全身から。
この身に宿る、精霊の加護を受けたその力を全て解放。
生まれた風は連なり、渦を巻く。
その力を、全て剣に集束させる。
銀の刀身は淡い緑色の光に包まれ、無限の刃を生み出す。
風が共鳴する。
耳鳴りさえ覚えそうになるその音は、最後の最後で私の意識をしっかりと奮い立たせてくれた。
「……アリス、待っていろ。今……助ける……」
そして、剣を天にかざす。
目を開ける。
紡ぐ。
その、最強の一撃の名を。
「――砕け。エターナル・エア!」
渾身の力を込めて放たれた、最強の一撃。
地面を削り取りながら、集束した風の刃が乱れ飛ぶ。
目にも止まらぬ速さで風の刃は突き進み、目の前にある光の壁に吸い込まれるように激突した。
すさまじい激突の衝撃波が生まれる。
白い火花を散らし、風と光が互いを削りあった。
だが、その光景を最後まで見届ける力は、すでに私には残されていなかった。
膝が折れ、体が力なく放り出される。
やけにゆっくりと、重力に引かれているように感じた。
……頼む。
その壁を、壊してくれ……。
声にならない声で、そう願った。
……私には、もう……立ち上がる力は……ない……。
ドサリと、私の体は地面に横たわった。
それとほぼ同時だろうか。
何かこう、ガラスが割れるような、そんな音が耳の奥に響いたような気がして……。
かろうじて見えた視界の先で、光が崩れ落ちていく光景を、確かに見た。
……ああ。
よかった、これでもう……大丈夫だ……。
……あとは、誰かが……アリスを、助けてくれれば……。
そう思ったところで、意識は急速に遠ざかり始めた。
体が冷たさに覆われていく。
指先さえ動かすことができない。
かろうじて開いていた目も、間もなく閉じるだろう。
そしてもう二度と、開くことはない。
……すまない、アリス。
私は……嘘つき、だ……。
意識が落ちた。
次に待っていたのは、ただの闇。
永遠よりも深く遠い、死という名の闇だけだった。
……あれ?
ここは、どこだろう?
目覚め、アリスは思った。
そこは、真っ白な場所だった。
前も後ろも、右も左も、上も下も、全部が真っ白。
私、どうしちゃったんだろ……。
呟き、思い出す。
……あ。
そうだ、お母さんの病気のお薬になるお花を探して、それを見つけたんだった。
早く持って帰らないと……。
……あれ?
でも、お花がどこにもない。
おかしいなぁ……。
さっきまで、ちゃんと咲いてたのに……。
アリスは思い出す。
ついさっきまで森の道を歩いていて、そこで白く輝く小さな花壇のような場所を見つけたこと。
そこは薄暗い森の中なのにとても明るく、ほんのりと暖かい匂いがしていたこと。
花を見つけ、それを摘み取ろうと走り出したこと。
間近で見たその花は、今まで見てきた他のどんな花よりも真っ白で、微かに甘い香りがしていたこと。
そして、その花を摘もうと手を伸ばしたら……。
……そうだ。
お花に触ったら、急に眠くなっちゃったんだ。
そしてアリスは、そのまま意識を失った。
だがこうして気が付いた今、いる場所はどこもかしこも真っ白に覆われている不思議な場所。
起き上がり、立たせた体もどこか不安定。
地面に立っているはずなのに、どこか地に足が着いていない感覚だ。
……ここ、どこだろ?
私、迷っちゃったのかなぁ……。
アリスは辺りの様子を覗う。
しかし、景色はどこまでもただ真っ白で、何も見えはしない。
途方に暮れるように立ち尽くしていると、わずかに体が揺れた。
わ……。
思わずアリスは声をあげ、揺れた体を持ち直させる。
な、何だろ?
地震かな?
しかしそれは少し違うように思えた。
今の揺れは、大地が振動しているような揺れではなく、もっとどこか、優しく揺れたような……。
そう、例えるなら、道端に咲いた草や花が、そよ風に揺られたような、そんな感覚だった。
ぼんやりと、空を見上げる。
といっても、真っ白なだけの空ではあるが……。
「こんにちは」
ふと、そんな声がアリスの耳に届いた。
「え? わ……」
気が付いてアリスが振り返ると、いつの間にかそこには一人の女性が立っていた。
真っ白なこの場所に溶けてしまいそうな真っ白な服。
けれど、確かな存在感を滲み出しているような、美しい女性。
「こんにちは」
もう一度その女性は、優しい声でそう言った。
「……え、あ、は、はい。こ……こんにちは……」
何が何だか分からず、アリスは慌てて返事をする。
直後にまじまじとその女性を見返して、思わず溜め息をついた。
奇麗な人だなぁ……。
口には出さず、思わず見とれていた。
と、その様子にも女性は優しく微笑んで答えてくれた。
……あ、そうだ。
思い立ったように、アリスは口を開いた。
「あ、あのっ!」
緊張のせいだろうか、やや声がうわずってしまっている。
「はい。何でしょう?」
しかし女性は本当に優しく丁寧に、膝を折ってアリスと同じ目線で聞いてくれた。
「ここ、どこだか分かりますか?」
アリスは真っ直ぐにそう聞いた。
そして女性もまた、真っ直ぐに答えた。
「ここは、箱庭です」
「……箱、庭……?」
アリスにとって、それは初めて聞く言葉だった。
「そう、箱庭」
やはり微笑んだままで、女性はもう一度繰り返した。
「……えっと、箱庭って、何……?」
再びアリスは聞く。
「箱庭というのは、何もない場所。全ての物語の始まりの場所。全ての記憶の始まりの場所。そして、全ての世界の始まりの場所」
アリスはその答えに、首をかしげた。
難しいことはよく分からない。
「……えっと、じゃあ」
だから、質問を変えてみることにした。
「お姉さんは、誰ですか? ここで、何してるんですか?」
その問いに、女性は一度だけ静かに目を閉じ、立ち上がる。
そして片手をその胸の前に添え、何かを慈しむように目を開け、そして告げた。
「――私は、この世界の全ての原点となった世界樹の記憶。あらゆる命を生み、そして放った、いわば神。そして幾千の時を経た今もな
お、この世界を見つめることが私の役目」
静かに、そして暖かく包み込むように、その声が音もなく響き渡った。
白に白が溶ける。
不思議そうに小首をかしげる少女に向けて、女神は優しく微笑んだ。