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LinkRing  作者: やくも
57/130

Episode57:光の射す方へ


 森の奥。

 深い霧を超えたそこに、淡く光る場所があった。

 暖かく、そして仄かに甘い香り。

「あ……」

 アリスは立ち止まり、わずかに口を開いた。

 その視線の先に、白く輝く花が咲いていた。

 その輝きは、太陽の明るさにも星の明るさにも、月の明るさにも似ていない。

 ぼんやりと、今にでも消えてしまうほどに淡くはかないその光はしかし決して消えず、ろうそくの炎のように静かに揺れていた。

「このお花があれば、お母さんは……」

 助かるに違いないと、アリスはそう思った。

 そして止まった足を再び動かし、深く広い森の中で唯一の光が集うその場所……聖域の中へ、足を踏み入れた。

 それは、たった一つの小さな願いのため。

 母親を助けたいと願う、幼い少女の祈り。

 だが。

 たったそれだけのことも、古の契約には反するものだった。

 聖域への侵入は、即ち神の領域へ足を踏み入れることを意味する。

 侵入を拒む力が作用した。

 古き時代の、神と精霊の間に繋がれた盟約の鎖により、聖域は今一度その牙を向く。

 たとえその行き先が、どれだけ幼い少女であったとしても。

 動き出した牙は、止まることを知らない。

 そうとは知らず、アリスはさらに歩みを進める。

 目と鼻の先に、探し求めていたものがあるのだ。

 そしてそれさえあれば、母親を救うことができる。

 希望しか見えていなかった。

 時を同じくして、その身に襲い掛かるであろう神罰のことなど、知る由もなかった……。




「あの光、まさか……」

 やや遠くに見えるその光の柱を見ながら、フェンリルは呟いた。

 その声色はどこかくぐもっているようで、不測の事態に対するわずかな動揺を表しているかのようだ。

「馬鹿な、あの聖域に踏み込めば、ただですむはずがない」

「…………?」

 よろめきながら、私はその声に耳を傾けた。

 フェンリルと同じ視線でその方角を見ると、確かにそこには神秘的と言わざるを得ない光の柱が、真っ直ぐに天に向けて立ち上っているのが目に入った。

 それはこうして遠くから見る限りでは、ひどく美しく幻想的なものに見えた。

 淡くはかなく立ち上るその白の光は、見るものの意識を奪い去ってしまうほどのものだ。

 事実、わずかばかりだが私も見とれた。

 体中の痛みを一時的に忘却し、意識を奪われていた。

 が、それも一時のこと。

 すぐに我に返ると、耳の奥に残ったあの悲鳴の残響が思い出される。

「……あの声、まさか……」

 嫌な予感が脳裏をよぎった。

 湧き上がった不安は次々と最悪の結末をまくし立てて、全ての物事を悪い方向へと流していく。

 聞き間違いなんかじゃない。

 空耳なんかじゃない。

 たった今、この耳の奥に響くほどに届いたあの声は、間違いなく……。

「アリス……」

 その名を呟き、衝動的に私はその体を走らせた。

 全身を裂くような痛みが走るが、そんなものに構っている余裕はない。

 一秒でも早く、あの光の柱の元へ行かなくてはいけない。

 さもなくば、私はまた大切な何かを失うことになるような、そんな気がして……。

「アリスッ!」

 再びその名を叫んで、私は走り出した。

 正面にフェンリルが立ちはだかるように立っていたことなど、もはや忘れて。

 そして案の定、フェンリルはその巨大な体を壁にするように私の行く手を塞いだ。

「待て! どこへ行く?」

「どけ! お前に構っている暇などない! 早くしないと、アリスが……!」

「……アリス、だと?」

 フェンリルの返答など、もはや私の耳には届いていなかった。

 焦りと不安だけが募り、手遅れという言葉が私のそれをさらに増幅させた。


 急げ、急げ、急げ。

 走れ、走れ、走れ。

 また、失うのか?

 また、守れないのか?

 誓ったはずだろう。

 必ず守って見せると、誓ったはずだろう。

 所詮それは口約束程度のものなのか?

 ああ、口では何とでも言えるだろうさ。

 根も葉もない偽りだらけの言葉なんて、吐いて捨てるほどあるさ。

「どけ! どいてくれフェンリル! 手遅れになる前に……!」

 いつしか私は叫んでいた。

 目の前で起きている事態に、冷静さは全く残っていなかった。

 ただ、思い出すのはいつかの日々の赤い記憶。

 自分の中の正義を押し通して、罪も罰もない、顔も声も知らない誰かの命を切り伏せ続けた頃。

 ソレガワタシノセイギダ。

 誰かの命を奪うことが?

 ソレガワタシノセイギダ。

 奪う理由なんてどこにもないのに?

 ソレガワタシノ、セイギダ……。

 そうやって奪い続けて、何を得たの?

 ソレガ、ワタシノ、セイギ、ダ……。

 奪ったのは温もり。

 得たのは哀しみ。

 誰も救えず、誰にも救われず、ただただ剣を振るうだけの繰り返し。

 肉を切り、骨を断ち、血を浴び。

 むせ返るような戦火の中、何を思っていたの?

 ワタシ……ハ、ワタシハ、タダ…………。

 燃え盛る荒野の中心で、返り血を浴びた鎧は炎のように赤く映え、剣先から滴り落ちる赤い雫を見つめながら、色のないその瞳は、一体何を映し出していたの?

 ……ワタシハ、マチガッテナド……イナイ。

 ……本当に?

 ……ワタ、シハ……。

 ならどうして、その瞳からは……。


 ――止まることを知らぬ、透明な雫が流れ続けているの……?


「……どけ、フェンリル」

 静かに私は告げた。

 自分でも恐ろしいほどに思える、低く暗い、冷たい声色だった。

「…………」

 フェンリルは答えない。

 そればかりか、どこうともしない。

 ただ、何か見通すかのようなそんな視線で、私のことを見返しているだけだった。

 時間がない。

 このままでは、私は確実に一つの命を見殺しにしてしまう。

 それはできない。

 それだけは、絶対に。

 例え何を犠牲にしても、守りきらなくてはいけない。

 失う痛みは、もううんざりだ。


 「――どけぇぇぇぇぇっ!」


 叫び、届かないと知ってなお、剣を振るった。

 そして……。

 ズブリ、と。

 肉を突き破るその耳障りな音と感触が、私の意識を引き戻した。

「……な」

 見ると、私の突き出した剣はフェンリルの腹部に突き刺さっていた。

 真っ赤な血が剣を伝って流れ、柄を握る私の両手をわずかに赤く染め上げた。

「……なぜ、だ……?」

 自分で言っておきながら、その問いにわけがわからなくなる。

「なぜ、避けなかった?」

「…………」

 フェンリルは痛みのせいか、それとも別の理由か、一度だけどこか辛そうに目を閉じた。

 そしてそのまま、静かに口を開く。


「主は、これまでにどれだけの人を切った?」

「……な、に?」

 私はわずかに怯んだ。

 その問いが、何もかもを見透かしているかのような気がして……。

「……覚えていないな。数え切れないほど、だろう……」

「……そうか」

 フェンリルは一度言葉を区切り、目を開けた。

「数え切れぬほどの命を奪っておきながら、今この場でどうしてたった一つの命のためにその身を犠牲にできる?」

「……それは……」

 こうしている間にも時間は過ぎていく。

 一刻も早く走り出さなくてはいけないはずなのに、どういうわけか私は冷静さを取り戻していた。

「……私はきっと、ずっと許されたいと思っていたのだろう」

 剣を握る手を離す。

 ズルリと、フェンリルの腹部から剣先が抜け落ち、血に染まった刃はカランと音を立てて地面に落ちた。

「ずっと、許されたいと思っていた。何度も自分に言い聞かせもした。戦争だったのだ、仕方がなかったのだ、と。そうすることが、逃げることだと分かっていても、そうする他なかった……」

「…………」

「今でも夢に見る。燃え盛る荒野に立ち、名ばかりの正義を振りかざして誰かの命を奪うあの景色。忘れたいと願うほどに、その光景は色鮮やかな極彩色を見せる」

 膝が折れる。

 痛みのせいではない。

 得体の知れない疲労が、不意に体を襲っていた。

「楽になりたかったのだろう。誰かに許しを乞えば、そして許されれば、この身が犯した罪も罰も、洗い流されると思っていたのかもしれない。決して消えない傷痕だと分かっていても、受け入れる力が私にはなかった」

 地面に付いた両手が、土を掻き毟る。

「だからせめて、平和の兆しが見え始めたこの世界では、一人でも多くの人々を救おうと決めた。せめて、この目に映る誰かだけでも救うことができたのなら、それはきっと過去の罪を消し去ってくれると……」

「……実に、身勝手な言い訳だな。偽善と言われても仕方がないほどに、な……」

「……ああ、その通りだ」

「だが……」

 そしてフェンリルはなぜか、表情から険しさを取り払って続けた。


 「――そのような偽善者も、今の時代には必要なのかもしれんな」


「……フェンリル?」

「我はずっと、この世界を見てきた。人を、獣を、鳥を、自然を。見守ることが、我に課せられた使命だったからだ」

 どこか遠くの空を見つめるように、フェンリルは言う。

「見守るということは、言い換えれば見殺しにするということでもある。事実我は、数え切れぬほどの災厄を見て、しかし一切手を出すことはなかった。その点で言えば、我も主もあまり大差はないのかもしれん」

「…………」

「課せられた使命は絶対だった。そのために生まれ、これからも永遠に近い生を続けるのだろうと、そう思っていた。しかし……」

 フェンリルは視線を戻す。

 跪くように地に伏した私を真っ直ぐに見据え、言った。


 「――我も待つことに、些か飽いていたようだ。主の意思が、それを教えてくれた……」


「……フェン……」

 私が言い終えるよりも早く、フェンリルは続けた。

「立て。人の子よ。そして行くがいい。主の意思が動くままに。我に、人の力とやらを見せてみろ」

 フェンリルの巨大な体が、塞いでいた行く手を静かに開いた。

 しばし私は呆然とし、しかし何かが吹っ切れたような、そんな感覚に捉われて……。


 ――落ちた剣を拾い上げ、一気にその道の上を駆け抜けた。


「……神よ、そして精霊よ」

 走り出すその背中を見送って、フェンリルは一人呟く。

「人とは、なんとも哀しいものだ。過ちを繰り返し、それを省みずにまた繰り返す。どうしようもなく身勝手で、わがままな生き物だ。だがそれ故に、見えてくるものもあるのやもしれん……」

 見送った背中がどんどん遠ざかっていく。

 まるでその後姿は、一陣の風のようだった。

「我は今しばらく、人の力を見てみたくなった。この世界を導いていくであろう、無限の可能性のあるその力を……」

 どうか、見守ってやってほしい。

 と、フェンリルは祈った。

 その身に生を与えた、顔も知らぬ神に向けて……。



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