Episode56:価値観
深い霧の中、アリスはふいにそんな声を聞いたような気がした。
「……お姉ちゃん……?」
ポツリと、独り言のように呟く。
目の前にははっきりと分かるほどに厚く、濃い霧の壁が立ちはだかっていた。
灰色一色に染まった視界の中では、体は正体不明の悪寒さえも感じ始めてしまうほど。
木陰にそっと身を潜めたまま。アリスは少しだけ背伸びをして、霧の向こう側を覗いてみる。
が、やはりそこにも分厚い霧の壁が往生し、一寸先の景色さえまともに映し出してはくれなかった。
「…………」
しだいにアリスの中で、不安めいた何かが大きくなっていく。
今しがたに聞こえた、半ば幻聴かとも思えるようなその小さな……悲鳴のような叫びは、今もはっきりと耳の奥にその残響を残している。
「おい、これは一体どうなっているんだ?」
「分からん。だが、こう霧が深い状態では、隊長達の様子もロクに確認できんぞ」
「まさか、隊長達に何かあったんじゃ……?」
「バカを言うな。あの人達に限って、そんな万が一など起こるはずは……」
横合いでは、何人かの兵達が沈黙に耐え切れなくなってそんな会話を繰り返し始めていた。
その会話は、否が応でもアリスの耳に届いてしまう。
難しいことは一切分からない。
けれど、それを通り越すほどに簡単なことは分かる。
「お姉ちゃんたちが、危ない……?」
それは予感か、それとも確信か。
どちらでも構いはしない。
ただ、一度考え始めてしまえば、事態が最悪の展開に辿り着くことを想像するのは非常に容易かった。
ギュッと、アリスは無言でその小さな手を握り締め、口をつぐんだ。
イヤだ、イヤだ、イヤだ。
お姉ちゃんたちが傷付いてしまうなんて。
イヤだ、イヤだ、イヤだ。
だって、約束したんだもの。
イヤだ、イヤだ、イヤだ。
怖いのはイヤだ。
苦しいのはイヤだ。
けどそれ以上に、一人になるのはもっとイヤだ。
約束したのに……。
守ってくれるって、約束したのに……。
だけど、きっと自分には何もできない。
もしかしたらこうして迷っている今も、お姉ちゃん達はとてもひどいケガをして、苦しんでいるかもしれないというのに。
何も、できない……。
「…………っ」
幼さゆえに、アリスが感じる無力感は人一倍強いものだった。
自分が無力だから、病気のお母さんを助けることもできない。
傍にいたって、きっと何もできることはない。
逆に、傍にいればいるほど苦しさが伝わってきて、泣き出してしまいそうになる。
そんな自分は、とても無力だ。
嫌いだ、大嫌いだ。
グッと目を閉じた。
結局できることといえば、こうして手を重ねて祈ることくらいのもの。
「お姉ちゃん、お願い……死なないで……」
声にならない声で、呟く。
心のどこかで、分かっていた。
先ほど耳に届いた声は、間違いなく苦痛を思わせる悲鳴だったこと。
きっとお姉ちゃん達は今頃、ひどいケガをしているに違いない。
だけど、それが分かったところで何ができるの?
この深い霧の迷路を抜けて、仮に合流できたとして、きっとそこまでだ。
誰かを守る力も、誰かを癒す力も、ありはしない。
あまりにも無力な自分。
その事実に、涙が出そうになる。
さらに強く瞳を閉じた。
奥歯を噛み締めて、悔しさと歯がゆさで溢れる感情を無理矢理に押し殺して、それでもやはり祈ることだけは続けながら……。
と、ふいにアリスは目を開けた。
「……あ……」
ポツリと呟く。
それは、微かに吹いた風に乗って運ばれた、甘い果物のような香り。
それは、どんな難病や大怪我もたちまち治してくれるという万能薬、オリビアの花の香り。
「…………」
その匂いが確かにあった。
こんな霧深い迷路の真っ只中でも、香りだけは偽りなくその場所をアリスに教えてくれていた。
「……そうだ。あのお花があれば、お姉ちゃん達を……」
助けることができるかもしれない。
そしてそれはきっと、今の自分にできる一番のことに違いない。
アリスはそう思い立ち、そして決意した。
幸い、周囲の兵達の姿も霧に遮られて互いに認識するのは難しい。
少々の足音を立てても、恐らく気付かれることはないだろう。
ゴクリと、アリスは一つだけ息を呑んだ。
やれることがあった。
できることがあった。
そしてそれは、きっと誰かを救うことに繋がる。
そう、信じて……。
――幼すぎる少女は一人、霧の向こう側を目指して静かに走り出した。
血の味が口の中一杯に広がっている。
吐き出しても吐き出しても、胃の奥底からマグマのようにこみ上げてくる。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
痛覚を通り越して、不快感だけが体の至るところを支配していた。
まだ、目は閉じてはいない。
しかし開いているというのは、あまりにも無残、かつ無様なものだろう。
今の私は、こうして木の幹に体を寄り添わせることでどうにか大地の上に立っているのだから。
自分でも信じられないほどにこの体は弱々しく、あちこちが小刻みに震え出してるのがよく分かった。
体はすでにほとんど言うことを聞かない状態だ。
身を包む鎧の大部分は砕け、爪痕が刻印のようにくっきりと刻み付けられている。
「……は、あ……っ、はぁ、はぁ……っ……!」
絶え絶えになる呼吸。
本当に酸素を取り込んでいるかどうかすら怪しいところである。
ガクガクと膝が哂い、かろうじて握り締めた剣も、すでに手の中から零れ落ちそうになっている。
ただでさえ霧の中で視界は最悪だというのに、負ったダメージが後押しするかのように、さらに視界を狭くする。
グラグラと揺れる視界。
意識は朦朧として、空と大地の境界すら分からなくなり、大地は崩れ、空は今にも落ちてきそう。
「……まだ立ち上がるか」
そんな私を見据えながら、銀の体毛を携えた聖獣は静かに口を開いた。
「…………」
しかし、私に返す言葉はない。
間隔の狭い呼吸を繰り返しながら、ぼやけた視界の先に映るその巨大な体躯を見返すのが精一杯だった。
「もうよい。斃れろ。主らはよく戦った。人の子でありながら、よもや我にこれほどの苦戦を強いるとは、その力は賞賛に値する。そのまま斃れるのならば、命までは取るまい。次に目覚めたときには、今までに起こったこと全てを忘れているであろう」
「…………」
その言葉さえも、途切れ途切れにしか私の耳には届かなかった。
それでもどうにか理解できたのは、やはりフェンリルとて神と精霊の加護を受けた、言うなればこの大地の守り神とも言うべき存在。
そうである以上、無益な殺生は好むところではないのだろう。
それが自愛なのか慈悲なのかは分からないが、人を超えた存在である以上、その力を持て余すことは必然だったのだろう。
そしてその力は、想像以上のものだったことは言うまでもない。
この身に刻まれた痛みと傷が、それを鮮明に物語っていた。
すでに、トールとアクエリアスはやや離れたところで意識を失い倒れている。
死んではいない。
が、放っておけばそれも時間の問題だろう。
私は……私達は、決して弱くなどはなかった。
だが、それは強さと呼ぶには恐らく、あまりにもお粗末なものだったのだろう。
少なくとも、聖獣であるフェンリルから見ればそれは、赤子の手をひねるほどに簡単なこと。
そんなことに気付かなかったわけではない。
ただ、力の差を明らかに測り損ねてしまっていた。
勝てない。
結論はとっくに導き出されていた。
しかしその言葉は、決して口には出せなかった。
それはもう、騎士としての誇りとか、意地とか、そんなものなど一切の関係もなく。
ただ、理由があるとすればそれはたった一つ。
たった一つの、小さな約束。
「――私が、お母さんを助けるの!」
そう言った、幼すぎた少女。
裏表のない目で、ただ真っ直ぐに私の目を見て。
その約束を破ることなど、誰ができようか。
だから、私はまだ……。
――倒れるわけには、いかない……。
「……人とは、どうしてここまで悲しい生き物なのか」
悲しげにフェンリルは呟いた。
「先に起こった二国間の戦争もそうだ。誰一人として同じ朝陽を迎えることなどなかったであろう。顔も声も知らぬ者に、ある日突然殺される現実。朝に生まれ、夜に死ぬ。そんな理不尽極まりない世界で虚しく生きるくらいならば、いっそ滅んでしまおうとは思わぬのか?」
「…………」
答えは出なかった。
フェンリルの言葉は、一つの現実の受け入れ方として間違っていない。
現に私は、今でも当時の血生臭い悪夢にうなされることだってある。
そうすると、真夜中に唐突に目が覚める。
背中は寝汗で濡れ、それが肌にまとわり付く感触が、まるで返り血を浴びているかのように不快で仕方がない。
爪を立て、自らこの体をズタズタに引き裂いてしまいたいと思ったことだってある。
だけどそれは、結局はただの逃げ口上にしかならないのだ。
「……フェンリル、よ。貴方の言うことは、きっと……正しいのだろう」
途切れ途切れの言葉で私は言う。
「……人は……私も含め、先の戦争で多くの命を奪い、そして奪われた。私とて、例外では……ない。私がこうして生きていることが、私が他の数多の命を切り伏せてきたという、何よりの証拠だ……」
「…………」
「そうやって……無益な奪い合いがようやく終わって、この世界にも平和の兆しが見え始めたのは、本当に最近のことだ。無論、今も各地で戦争の名残はいくらでも残っている。こうしている今も、どこかで誰かが命を落としているかもしれない。真の意味での平和など、もしかしたら永遠にやってくることはないのかもしれない……」
私は支えにしていた木の幹から手を離し、自分でも驚くほどにおぼつかない足取りで一歩前に出た。
「けれども……」
剣を地面に突き刺し、私は続ける。
「そんな犠牲の上にようやく築き始めた……平和には程遠い、こんな世界の中でも、平和に生きようとする人達は大勢いる。今を生きる彼らのその多くは、先の戦争で消えない傷を負った者ばかりだろう」
剣を引き抜き、震える手でそれを握り締めた。
「そんな者達の間に、新たな命が生まれた。戦争という言葉さえ知らない、無垢な命達だ。取り戻しかけた平和の中でその子らは育ち、やがてこの世界の中心になっていく。間違えることもあるだろう。失敗の連続など、今からすでに見えている分かりきったことだ。だが、そうだとしても……」
引き抜いた剣の切っ先を、砕けかけた腕に渾身の力を込めて掲げる。
「――目の前でただ一言、『助けて』と、そう叫ぶ声を、私は絶対に見過ごすことはできない……!」
「……それが、主の導き出した答えなのだな? その言葉は、未来永劫、その体が朽ち果てるまで変わることはないのだな?」
「無論だ」
私は即答した。
腕が震え、指先が震え、剣が震える。
「…………」
フェンリルは静かに目を閉じた。
何かを考え込むかのように、ゆっくりと。
長く短い沈黙が終わり、フェンリルは目を開けた。
そして、何事かを口にしようとしたその瞬間。
「――――っ!」
そんな、声にならない確かな悲鳴が、森の中にこだました。
どこかで聞き覚えのある、幼い少女の悲鳴が……。