Episode53:狼王
森の入り口は、一段と深く濃い霧によって行く手を阻まれていた。
何もしていないのに、その場に居合わせるだけで呼吸が苦しくなるような錯覚さえ覚えるほどだ。
「ここか、入り口は」
「そのはずです。この森の入り口はここ一ヶ所しかないと、文献にも記されていましたからね」
「……やはり、魔境と呼ばれるだけあって圧巻だな」
私達は口々に率直な感想を口にし、改めてその森の入り口を凝視した。
しかしそうしたところで、深い霧は一寸先さえもまともに映し出してはくれない。
この霧深い森の中には、数多くの狼が生息していると言われている。
一般の森の中に生息する狼も数多いが、この森にはその中でもさらに頭のいい、統率の取れた種類が生息しているらしい。
そしてそれらの狼達全てを統べる、王と呼ぶに相応しい存在。
身の丈も通常の狼の五倍以上、知能も極めて高く、戦闘能力もそれにひけを取らない。
さらに何より、この世界が創造された頃より生き続けているとされる不死に近いその生命力。
精霊と神の加護を受け、人語までも理解し口にすることができるという、もはや神話上の聖なる獣。
――深き森の主、狼王……フェンリル。
ゴクリと、兵達が息を呑む音がやけに鮮明に聞こえた。
彼らの誰もが、この例えようのない圧迫された空気に気付かれぬうちに気圧されているのだろう。
ここに集う兵は皆、騎士団の中でもその実力を認められた精鋭ぞろいにもかかわらず、だ。
しかしそれも無理もないことだろう。
実際、こうして面と向かって森を前にして立つ私も不気味さを感じずにはいられないのだ。
目には見えない重圧感が、体全体を押し潰すかのように向かってくるのが感じられる。
「……行こう」
まずはトールが先頭を切り、部隊を率いて一歩前に踏み出した。
その後に続き、アクエリアスの部隊が続き、私の部隊は隊列の殿を務めることになった。
覆い隠された霧を突き破り、我々はとうとう、魔境と呼ばれる狼王の住処へと足を踏み入れた。
「……アリス、大丈夫か?」
ふと私は、その場に間違いなくそぐわない少女に声をかけた。
「う、うん……平気……」
口ではそう言うが、半ば私の足にしがみつくように寄り添うその姿は、よほどの恐怖を体感しているのだということは明らかだった。
「大丈夫だ。あなたのことは私達が必ず守る。安心しなさい」
「……うん」
私がそう言うと、アリスは少しだけ安心したようにホッと胸を撫で下ろし、小さな笑顔を見せた。
森の中はまさしく、天然の迷宮と化していた。
陽の光さえも遮断するほどに茂る木々は、まさしく密林そのものだ。
空と地面の境など、すでに分からなくなってしまっている。
唯一つ確かなはずの踏みしめる地面も、まるでぬかるみのようにどこか不安定だ。
知らぬ間に底なし沼の中へと導かれているのではないかと、疑念を抱かずにはいられない。
「……むぅ」
歩き始めてもう間もなく三十分ほどが経とうとしていた。
幸い、これまでの間に狼に襲撃されたりなどということはなかった。
一度だけアリスが足を転ばせ、多少膝を擦り剥いた程度のことはあったが、それ以外は至って平和なものだ。
もっとも、平和という言葉がこれ以上に似つかわしくない景色ではあるが。
「妙だな……」
先頭を歩くトールが一度立ち止まり、そう呟いた。
「隊長、思うのですがこれは……」
「うむ。お前も気付いたか」
兵の問いに頷いて、トールは一度後ろを振り返った。
「アクエリアス、お前も気付いているだろう?」
「……どうやら、気のせいではなかったようですね」
「どうした? 何があった?」
最後尾の私は、すぐに二人の元へと駆け寄った。
「魔境の名は伊達ではないな。この森はさしずめ迷宮と言ったところか」
私は一瞬、トールの言葉の意味がよく分からなかった。
「気付きませんか? シルフィア。私達は先ほどから、何度も同じ道の上を歩き続けているということに」
「な……」
本当かと聞き返すよりも早く、トールが指差した方向を私は振り返った。
「これは……?」
するとそこには、一本の木があった。
その幹の中腹に、何か切り傷のようなものが横一線に刻み込まれている。
「その傷はな、俺が剣でつけておいたものだ。最初にこの道を通ったときにな」
そうしてさらに周囲を注意深く見てみると、我々の周囲の木々にはどれも似たような傷痕が刻み込まれていた。
傷の付き具合からして、これもみなトールの剣によるものと見て間違いないだろう。
「……なるほどな。迷宮とは、そういう意味か」
私は改めて、この地の恐ろしさを思い知らされた。
「しかし、これでは動きようがない。アクエリアス、何か案はないか?」
「……正直、難しいですね。これは仮説ですが、恐らくこの森全体に幻惑の魔術が施されているのだと思います。侵入者を迷わせるためにね。加えて、天候や方位を当てにすることも無理でしょう。方向感覚も失われつつあるようです」
「この深い霧の前では、人間の視力程度は何の役にも立ちはしないだろう。闇雲に歩き回ったところで、体力を消耗するだけか……」
八方ふさがりと言わんばかりに、トールとアクエリアスはその場に立ち尽くした。
周囲の兵達も、さすがにこの事態の異常さににわかに騒ぎ出している。
それでもどうにかパニックにならずに冷静さを保てているのはさすがといったところか。
だがしかし、現状を打破できなくては全く意味がない。
かといって、迂闊には動くこともできない。
手当たりしだいに動き回れば、それは新たに行方不明者を増やすことに一役買ってしまうだろう。
だが、だとしたらどうすればいい?
この密林の迷宮の中、視覚も聴覚も全く当てにならない魔境の中心で、我々は何を頼りにどこへ進めばいいというのだ?
……いや、考えろ。
思考を停止させるな。
何か、何かあるはずだ。
私は静かに目を閉じ、全神経を集中させる。
周囲の雑音をすべて消去。
耳鳴りを感じるほどの静寂に身を置いて、五感の中から何かを探し出すかのように……。
と、しかしその声はふいに、私のすぐ側から聞こえた。
「……いい匂い」
「……え?」
私はその声に目を開けた。
私だけではない。
静寂に包まれていたその場に、そんな一言が漏れたのをきっかけに、周囲の視線が一点に集中する。
そう、私の隣で静かに立ち尽くしたアリスの元に。
「匂い? どういうことだ、アリス?」
私は身を屈め、アリスと同じ目線の高さで聞く。
「あのね、いい匂いがするの。甘くて、果物みたいな香り」
「……なるほど。そういうことですか」
一足早く理解が及んだアクエリアスが言う。
「どういうことだ?」
トールがすぐさま聞き返した。
「その前に、一つ確認を。アリス、あなたの家は、どんなお仕事をしているのですか?」
「あのね、私の家はお花屋さんなの。私とお兄ちゃんと、お母さんでお店をやってるの」
「……そうか。そういうことか」
ようやく私も理解が及んだ。
つまりアリスは、花屋で家の手伝いなどをしていることが少なくないのだろう。
そしてそうこうしているうちに、様々な花の香りを覚えてきたのだ。
嗅覚の異常発達とまで大げさなものではないが、それでも常人に比べてはるかに優れた嗅覚を持ち合わせているのだ。
そのアリスの嗅覚が、何かの匂いを感じ取ったのだ。
「アリス、その匂いの方向は分かりますか?」
「大体だけど、分かるよ」
「では、私達をその方向に案内してください」
「大丈夫なのか? アクエリアス」
「文献によると、オリビアの花も強い甘味のような香りを発していたと記されています。ですから、匂いの先を辿ればそこにオリビアの花が咲いている可能性は十分あります」
「なるほどな。よし、全員でその場所に向かうぞ。行方不明者が求めていたものもオリビアの花だとすると、その場所に何か手がかりが残されているかもしれん」
「アリス、案内を頼めますか?」
「うん」
こうして我々は、アリスの嗅覚を頼りに森の奥へとさらに歩みを進める。
そうしてさらに十数分ほど歩いた頃、徐々に我々を包む深い霧が薄くなってきたように思えた。
視界が少しずつ開け、あの重苦しさのようなものもしだいに感じなくなっていった。
さらに歩くと、霧はもうほとんどないも同然に晴れてくる。
目の前がやけに明るくなり、わずかだが上空から差し込む陽の光も浴びることができた。
「こっち。もうちょっとだよ」
そう言って、アリスは一人先に駆け出した。
「あ、こらアリス!」
「オリビアの花があればアリスの母親も助かるだろうから、嬉しいのだろう。はしゃぐのも仕方あるまい」
「まぁ、それもそうか……」
などと、私とトールは楽観的にその背中を見送っていた。
だが、一瞬後。
「――止まりなさいアリス! 無闇に花に近付いてはいけません!」
そう怒鳴ったのは、アクエリアスだった。
「え?」
その声に驚き、ピタリと足を止めて振り返るアリス。
そのアリスの体を覆い隠すほどの、巨大な影。
アリスはその影に気付いていない。
振りかざされた刃の爪。
銀の体毛がなびきながら、牙を剥き出しにして音もなく吼えた。
そして爪は空を裂いた。
それだけで、地面を根こそぎ抉り取るかのような一撃で。
「ぐっ!」
私は地面の上を転がり、木にぶつかってようやく止まった。
その腕の中には、しっかりと抱きかかえたアリスの無事な姿がある。
とりあえずはホッと胸を撫で下ろしたが、安心できる状況ではない。
「ついに姿を現したか……」
言って、トールは大剣を引き抜いて構えた。
「まさか本当に、実在しているとは……」
驚きの言葉を呟きながらも、アクエリアスもその手に槍を構える。
そして私も立ち上がる。
「アリス、怪我はないか?」
「う、うん。大丈夫……」
「そうか、ならいい。少しの間、木陰に隠れていなさい」
「うん……でも、お姉ちゃんは?」
「私か? 私なら心配いらない。それに……」
私は剣を抜き、その巨大な影に向き直って言う。
「――この森の主に、聞きたいことがあるのでな」
対して向かい合うは、全身を美しいまでの銀の毛並みに覆った巨大な狼。
全身銀色の中、その瞳だけに真っ赤な緋色が宿っていた。
「ぶしつけで申し訳ないが、一つ聞こう」
私の言葉に、緋色の瞳がわずかに揺れた。
「この森の王、フェンリルとお見受けするが?」
「いかにも。我はフェンリル。狼王フェンリルなり」
そしてそのフェンリルは確かに、人語で私の言葉に答えた。
「ならば我からも問おう。汝ら、何ゆえに我が森へと足を踏み入れた?」
「国内で多発している行方不明者の捜索と、オリビアの花を求めてきた」
「なるほど。世界樹の種子を求める輩は、まだ後を絶たぬということか」
そしてフェンリルは一度目を閉じ、静かに開いた。
「立ち去れ。あれは世界の生まれし時より、我が守護を授かった精霊と神の遺産なり。何人たりとも触れることは赦されぬ」
「そうはいかない。我々にも使命がある、それに何より、人一人の命がかかっているのだ」
「……愚かな。我と戦うつもりか?」
「それしか方法がないのならば、な……」
剣を構え直し、間合いを計る。
その様子で我々が本気だということを悟ったのか、フェンリルは周囲をゆっくりと一瞥した。
「……よかろう」
という一言の後、狼王は剥き出しの牙を光らせて大きく吼えた。
「――人の子よ、汝らの力を見せてみろ。我も全力で応えよう」
地を蹴ったのはどちらが先だったか。
私達は、神の使いに刃を向けた。