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LinkRing  作者: やくも
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Episode51:前夜


 夜の帳が落ち、城内はにわかに静けさを保つようになる。

 見回りの兵士などの持つロウソクが照らす明かりと、廊下に並ぶ松明の明かりを覗けば、月明かりと星明かりだけが煌々と冷たい地面を照らし出していた。

「ふと思ったのだが……」

 私が口を開くと、トールとアクエリアスの二人は揃って振り返った。

「早朝を控えているのに酒をたしなむなど、私達は何をしているのだろうな」

「まぁ、いいじゃないですかたまには。こういう息抜きも、時には必要ですよシルフィア?」

「アクエリアスの言う通りだ。それに、まさか昼間から酒を飲み交わすわけにもいかんだろう。そうなれば自然と夜中に飲み交わすことになるのが必然というものだ」

 私と同じ透明なグラスを片手に、二人は揃ってそう口にした。

「まぁ、それはそうなのだがな……」

 しぶしぶ相槌を打つ私のグラスの中に、コポコポと音を立てて紫色の液体が注がれた。

 仄かに香るブドウの酸味と甘味が鼻腔をくすぐり、その香りに私は妙な安心感を覚えていた。

 注がれた液体はワインで、原材料はこのクリムゾニア地方でよく採れるパープルブラッドと呼ばれる赤みを帯びたブドウだ。

 名前は少々物騒ではあるが、見た目も味もとてもよく、なおかつ採取量が豊富なので、多くの人々に親しまれている酒だ。

 もちろんワインというだけあって、熟成を重ねればその味は一味も二味も深まっていく。

 中でも五十年以上熟成させたものはとても高価な値段が付き、ワイン好きの間でも高値で取引されたり、あるいは祭典か何かの行事の際に皇族への贈り物として使われる場合も少なくはない。

「それにしても、よくこんないい酒が手に入ったものだな?」

 酒豪とまではいかないものの、人並以上に酒を好むトールが言う。

 私はトールほど舌が肥えているわけではないので何とも言えないが、確かに美味だった。

 トールがいい酒と言うことは、やはりそれ相当にいいものなのだろう。

「私の知人が、ワイン製造の仕事をしていましてね。つい先日、急に送りつけてきたのですよ」

 グラスの液体を一口飲み干し、アクエリアスは続けた。

「これはちょうど、熟成させてから二十五年ほどのものだそうです」

「二十五年か……ずいぶんと長いな。ちょうど私達が生まれた頃に、同じくして採取されたのだろうな」

「ええ。このワインは、私が生まれたその年に作られたものだそうです。それで気を利かせた知人が、先日の私の二十五歳の誕生日に重ねて送りつけてきたのですよ」

「おお、そうか。そういえばアクエリアスは先日で二十五になったのだったな」

「……トール、数日前のことをもう忘れたのか? あの日は騎士団を上げて、盛大に飲み食いを楽しんだだろうに」

「そう言うな。楽しいことはいつでも一瞬だ。忘れていないだけいいだろう」

 そう言って、トールはグラスのワインを一気に飲み干した。

 普段は冷静沈着な男なのだが、時々それが嘘のように見える一瞬がある。

 それがこのトールという男であって、とてもじゃないが私やアクエリアスよりも十も長生きしている人間とは思えない。


「お二方とも、明日の部隊の編成は終わりましたか?」

 グラスをテーブルに置き、アクエリアスが聞く。

「ああ、問題ない。だが、少々不安も残るな。大部隊で行くわけにもいかんし、とりあえずは小隊を一つ整えたのだが……」

「仮にも狼王の住処と呼ばれるその場所は、普段なら人の手が入らない魔境や秘境といっても過言ではないだろう。確かにそのような場所に向かうのに、小隊一つというのは些か心細い気もしなくはないが……」

「そうですね……ですが、あまり目立ってしまっても民に不安を覚えさせるだけです。できる限りの少人数かつ、精鋭の部隊で臨むのがいいでしょう。我々の目的はあくまでも行方不明者の救助及び発見であり、戦いに赴くわけではないのですからね」

「そう……だな」

 頷き返しはしたものの、私はなぜか胸の奥に小さな不安を抱えているような感覚だった。

 息を吹きかければそれだけで飛び散ってしまいそうな、まるでホコリのような不安。

 なのに、まるで落ちにくい汚れのようにこびりついてなかなか取れないような、そんな……。

「どうかしたか、シルフィア?」

「……え?」

 トールの声に、私は意識を引き戻される。

「……ああ、いや……すまない、ちょっと考え事をしていた」

「そうか? ならいいのだが……」

「シルフィア、やはり疲れがたまっているのではないですか? 少し顔色がよくないように見えますが……?」

「そうか? そんなことはないのだがな……夜のせいだろう。暗がりの中では人の顔も暗く見えるものだ」

 言って、私はワインを飲み干した。

 甘味と酸味が程よく混ざり合う、その美味な味わいの液体が一瞬……ほんの、一瞬だけ。


 ――鉄の匂いの混じる、血の味に感じてしまった。


「……っ!」

 わずかばかりの嘔吐感を覚えながらも、私は無理矢理にワインを胃の中へと流し込んだ。

 もはや味わっている余裕などはなかった。

 コトンと音を立て、グラスをテーブルの上に置く。

 妙な疲労感を覚えた。

 二本の足で大地の上に立つことは、こんなにも不安定なことだっただろうか?

 鎧を脱いだ体は、こんなにも揺らぎやすいものだっただろうか?

 今の私は、まるで風に吹かれる綿毛そのものだ。

 抗うこともできず、ただ吹かれ揺れるだけ。

 やがて一瞬の強い風に、あえなく吹き飛ばされてしまうような……。

「……シルフィア?」

「おい、どうした?」

 トールとアクエリアスが揃って声をかける。

 しかしどうしてだろうか?

 その声さえも、今ではただうるさいと感じてしまう。


 ザーザーと、雨降りの日に響くあの音。

 灰色の記憶の中に残る、微かなノイズ。

 鬱陶しい。

 邪魔以外の何者でもない。

 私にその映像を……音を見せるな。

 重いとは裏腹に、飲み干したはずの血の味が逆流しかけてくる。

 血の味。

 鉄の味。

 響く音。

 耳障りな手応えと感触。

 消えていく誰かの声。

 助けて、と。

 苦しい、と。

 痛い、と。

 その一つ一つの声に私は、その手に握る剣の切っ先を真っ直ぐに振り下ろし、湧き水のように噴出す真っ赤な鮮血にその身を濡らした。

 ザーザーと、雨が降っていた。

 灰色の雨は、しかし私の鎧と顔に付いた真っ赤な血をこれっぽっちも洗い流してはくれなかった。

 凍えるような冷たい雨の中で。

 かじかむ指先を震わせながら、私は剣を握り締めていた。

 切っ先からは赤い雫が零れ落ち、雨とは別に赤い水溜りを描いていった。

 私が立っているのは大地などではない。

 そこにあるのは、手にかけて奪った命……屍の山だ。

 救えない命は一つとしてなかった。

 奪うべき命も一つとしてなかった。

 ただそれは、結果だった。

 自分の中の騎士の正義のために掲げた剣を振るった、その結果だ。


「シルフィア、おい、しっかりしろシルフィア!」

「……え?」

 気が付くと私は、トールに肩を揺すられていた。

「……何だ? どうかしたのか?」

「どうかしたのかって、お前……」

 私の言葉を受け、トールはただ呆然としていた。

「……今夜はそろそろお開きにしましょう。明日も早いことですし」

「う、うむ……」

「…………」

 私はまだ頭がボーっとしていた。

 アクエリアスの声はしっかり聞こえるが、声の方向がわからないようだった。

「シルフィア」

「……何だ? アクエリアス」

「……いえ。しっかりと休息を取って、明日に備えてください。明日は長い一日になりそうな予感がします」

「……ああ、そうだな」

 空のグラスとワインボトルを抱え、アクエリアスは一足先に中庭をあとにした。

 数歩ほど遅れて、私とトールがそれに続く。

 足はしっかりと、大地を踏みしめていた。

 だが、それでいて……どうしようもなく、不安定だった。




 夜の大地のどこか。

 見上げる空の上には、散りばめられたような星のカケラと銀の月。

 すでに暗がりが佇む大地の上で、彼はただぼんやりとその夜空を見上げていた。

 深々とかぶった三角帽子、夜の暗さにも負けず劣らずの黒いマント。

 さらにはその脇に抱えた弦楽器のハープが、彼を旅の吟遊詩人であることを物語っていた。

「……夜が荒れている」

 見上げたまま、彼は呟いた。

「こんなざわついた夜空は、あのとき以来だ……」

 彼は一度視線を戻し、地平線の高さで辺りを見た。

 シンと静まり返る夜の中でも、彼にとっては世界は変わらない。

 朝も昼も夜も、全ては同じように世界を包むカーテンに過ぎないことを、彼は知っているからだ。

 普通の人の目に映る世界と、彼の目に映る世界は少し違う。

 彼には世界の揺れが見える。

 それは変化という言葉に置き換えてもいいだろう。

 言わば、静と動の境目が、彼には見えているのだ。

 そしてまさに今、この瞬間。

 静を保ち続けていたこの世界に、動の機が訪れ始めていた。

「……世界が、揺れている。何て悲しい声……」

 呟き、彼は悲しそうに目を伏せる。

「また、世界が涙を流すことになる。終わったはずなのに、枯れ果てたはずなのに……」

 小声すぎるその声は、響くこともせずに夜の中へと溶けて消える。

「けれど、それが歴史。繰り返すことによって、世界は時を超えていく。悲しみも辛みも、痛みも切なさも、全て抱いて還っていく」

 そしてもう一度、夜空を見上げる。

「人がそれを運命というのなら、従えばいい。僕はただ、それを見ているだけ。だが……」

 彼は静かに目を閉じた。


 「――それでも僕は、願わずにはいられない。誰か、この世界の進む先を示してくれないか? 希望を与えてくれとは言わない。ただ、指先で指し示すだけでいい。予め決められた未来ではない、全く別の新たな道を……」


 そこで彼は言葉を区切り、ゆっくりと目を開けた。

「……世界は君の揺り籠。君を乗せ、どこまでも往く。ただ、覚えておいてほしい。君にも僕にも、この世界を歩むことのできる二本の足があることを。この世界を見る、二つの目があることを。もしも君が、この世界でそのことを忘れずに歩んでいけるのなら……」

 彼は告げる。

 誰かへの……いや、世界へのメッセージを。


 「――空を仰ぎ、大地を踏みしめろ。踊り出した心が止まらぬように……」


 そして彼は、世界に溶けた。



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