Episode50:手に入れた景色
日はゆっくりと、慌てず急がずに流れていく。
城内の一角から眺める西の空にも、うっすらと赤みを帯びた夕暮れが見て取れた。
その強くも弱くもない逆光が、私の銀の鎧をわずかに緋色に変えていく。
ふと、一瞬だけ自分の鎧が今でも返り血にまみれているような錯覚を覚えた。
そっと指先で触れてみる。
鉄の鎧は冷たさだけを保ち、無機質な感触だけを私に伝えていた。
「…………」
なぞった指の腹を見返す。
当然、そこには何も付いてはいない。
真っ赤な血の色がべっとりとこびりついているなどということは、それこそ夢幻の話に過ぎないのだ。
それはもう、今と成っては遠い昔に思える頃に去った日々。
勝つための戦い、生きるための戦い、存亡をかけた戦い。
口ではいくらでも理由らしい言葉を吐き出すことができた。
言い訳に過ぎない屁理屈も、戦いという一点に置いては正当な理由に思えた。
自分達が正しいと、そう信じて戦い続けて、顔も名前も知らない、男か女かもわからない、少年か老婆かもわからない人々を殺した。
殺し続けた。
剣を振り下ろすたびに、不快で耳障りな音と感触が、指先から腕を流れて脳に伝わった。
苦痛にまみれる声、届かない叫び、次第に止まっていく呼吸の音をこの耳で聞いた。
そのたびに歯を食いしばり、唇を噛み締め、目を背けながら命を奪った。
この手と、この手の握るその剣で。
何人殺したかなんて覚えていない。
いちいち数えているほど狂信ではないし、覚えていたいとも思わなかった。
振り返るだけで、そこに死体の山が見える時期があった。
おぞましい光景だった。
しかしその全ては、私が自らの正義を掲げて奪ったもの。
受け入れ、背負って生きていくしかなかった。
生きるということがこんなにも地獄に感じたのは、生まれて初めてのことだったかもしれない……。
「……三年、か。一日でさえこんなに長く感じるのに、三年というのはあっという間なのだな……」
空を見上げ、私は呟いた。
少しだけ風が出ていた。
冷たくも温くもない、心地よい風だった。
「何をたそがれているのだ」
無骨なその声は、ふいに背後から聞こえた。
「……トールか。驚かせるな」
「ふむ。別に驚かせるつもりはなかったのだがな」
女の私と比較して一回りほど巨大な体格のトールは、やはりその体に見合った重苦しそうな鎧に身を包んで私の隣へと歩み寄ってきた。
「どうした? センチメンタルを感じる歳でもあるまい」
「……トール、私だからいいが、他の女性にそういう話の振り方をしたら嫌われるぞ?」
「そういうものか?」
「そういうものだ。普通の女性はな」
「……まるで、自分は女であることを捨てたような言い方だな」
「……戦いの前線に立った……いや、騎士になったときから、私は私が女であることなどとうに捨てている。それに、騎士に性別など関係あるものか。必要なのは強さと、騎士道に背くことのない精神、そして国と姫に対する忠誠心だけだ」
「ふむ。まぁもっともだな。騎士たるもの、老若男女を問わず騎士として生き、やがて騎士として死ぬのみ。それが我らの進むべき道であり、選んだ道だ」
「分かっているなら聞くな。全く……」
「何、少し気になったのでな」
「……何がだ?」
「自分では気付いていないのか?」
「だから、何のことだ?」
「……やれやれ。疲労が目に見えて顔に表れているぞ。睡眠はしっかりととっているか?」
言われて、私は反射的に目元に手を当てた。
「疲れている? 私がか?」
「他に誰がいる?」
「…………」
しばし考え込み、私は目を閉じた。
「……いや、特には問題ないはずだ。睡眠はしっかりとっているし、食事だって……」
「だとしたらその疲労は、肉体的なものではなく精神的なものなのだろう」
「精神的……」
「……三年前の夢は、まだ見るのか?」
その言葉に、私は思わず心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
三年前……つまり、あの戦争が最終局面を迎えた頃のことだ。
あの、何もかもが赤一色に塗りつくされた世界の中、私は戦っていた。
血を流し、流され、傷付け、傷を負い。
……ダメだ。
思い出すだけで吐き気がしてくる。
「……っ!」
わずかに体がよろめくが、足に踏ん張りをきかせてどうにか耐える。
「……すまない。余計な詮索だったか」
「……いや、いい。お前が気にすることではない……」
呼吸がわずかばかり早まるが、さしたる問題ではない。
チクリと痛む頭痛も、奥歯を噛めばすぐに消え去った。
「……我々は多くの人を殺してきた」
ふいにトールは呟いた。
「百ある命のうち、八十は救うことができた。百ある命のうち、五十は助けを求めて叫んだ。百ある命のうち、全ての命をできることなら奪うことなどしたくはなかった……」
言って、トールは静かに目を閉じた。
「当時の俺は思った。俺は、命を奪うために騎士になったのではない、と。むしろ逆だった。騎士になり、この目に映る救いを求める人々を一人でも多く救いたかった。理想論だとは分かっていても、実現させるつもりだった」
「……トール」
「だが、実際にはそうはいかなかった。口にした理想がいかに実現し難いものなのか、嫌というほどに理解させられた」
ゆっくりとトールは目を開ける。
その目に差し込む夕陽の逆光を、少しだけ眩しそうにしかめながら。
「だが俺は、諦めたわけではない。戦争が終わった今だからこそ、俺は改めて志を高く持てる」
スッと、トールは城下の街並みを指差した。
「見ろ。ようやく当たり前になった光景を。俺達はこの当たり前の景色を誰よりもこの目に焼き付けて、末永く守り抜かなくてはならないのだ」
「…………」
見下ろす城下の街並みには、昼間とは少し違う賑わいがあった。
時間的に、どの家でももう間もなく夕食が始まる頃だろうか。
親子連れの姿も珍しくはない。
「忘れろとは言わん」
トールの言葉に私は振り返る。
「むしろ、忘れてはならんのだ。いいか? 新しい時代を築くのは、その時代を生きる者達にしかできない。そして新しい時代を生きる者達とはすなわち、過去を背負った者だけだ。歴史はそれを繰り返し、いくつもの時代を刻む。そしていつの時代にも、過去に傷を負った者がいる。そんな傷を負った者達こそが、次の時代に先頭を切って歩いていけるとは思わんか?」
トールの言葉を受け、私は一度視線を外した。
そしてもう一度、城下の街並みに目を向ける。
今こうして、この目に映るこの景色こそが、私達の得た平和という一つの形。
そこに至るには、数え切れないほどの命が奪い奪われてきた。
それらを礎にして、この平和は成り立っている。
無駄なものなんて何もない。
あの日あの時、私が奪ったあの命も、きっと今というこの平和の時代の墓の下に眠っている。
ただ、できるなら……できることなら、この時代を生きて欲しかった。
生きて、笑って、泣いて、怒って、そんな風に当たり前に、同じ時代を……。
「……そう、だな……」
少し枯れた声で、私は答えた。
「――そういう現実的な理想なら、私にも追いかけることくらいはできそうだ」
「……ふん。立ち止まってぐずぐずしていると、構わずに置いていくまでだ。さっさと先頭まで追い上げてくるのだな」
そんな憎まれ口にも似た言葉を吐くトールだったが、その表情はどこか満足そうに笑みを浮かべていた。
「さて、そろそろ訓練の終わる頃だな。明日の朝は早いのだから、早いうちに部隊の編成をしておくことだ」
「……ああ。そうしよう」
そう言って、トールは私に背を向けて歩き出した。
少しだけ遠目に見るその背中は、いつか見たときよりもずっと大きく広くなっているように思えた。
逆立った赤い髪がわずかに揺れ、屈強な体とそれを包む銀の鎧が輝いていた。
「っと、そうそう。いい忘れていた」
と、トールは立ち止まり、振り返って告げた。
「どうかしたか?」
「アクエリアスのやつからな、伝言というか誘いを頼まれていてな」
「誘い?」
聞き返す私に、もう一度トールは小さな笑みを浮かべ、続けた。
「久しぶりにうまい酒が手に入ったそうだ。夕食後、三人で一杯どうか? とな」
その思わぬ誘いのないように、私は一瞬だけ呆気に取られてしまった。
しかしすぐに、正体の分からない小さな笑いがこみ上げて……。
「……そうか。ならば、私に断る理由はないな」
その答えに満足したのか、トールも同じように笑みを浮かべた。
「では、そのように伝えておこう。集まる場所は分かっているな?」
「ああ、問題ない」
私の答えを受け、トールは再び背を向ける。
私はその背中に向けてか、それとも単なる独り言のつもりなのか、ふいに呟いていた。
「――十一時に、中庭で……」
風が出てきた。
仄かに甘い香りを運ぶそれは、私の口元を緩ませるには十分なものだった。